高等学校
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貞勝は百人近い子どもが一斉に走る姿を見て驚いた。
「い、伊勢様(具房)。あれは!?」
混乱し、子どもたちを指さしながら何が起こっているのかと訊ねる。具房は貞勝は冷静な男と見なしていただけに、少し意外に思いつつ、説明した。
「次の授業が体育だから、興奮しているのだ」
「体育?」
聞き慣れない単語に貞勝は言葉を繰り返す。具房は簡単に体育とは何かを説明する。
「体育は鍛錬をする時間だ」
とはいえ、武芸をやるわけではない。授業ではスポーツを行なっていた。陸上競技やサッカー、ラグビーや野球など。その他、具房が大嫌いだった持久走もある。
「服装が変わっていますな」
「体育着だな」
体育着というが、実態はジャージだ。短パンなどは(特に女性に)拒否されたため、長袖長ズボン。ただし、夏には半袖になる。
説明している間に授業が始まった。グラウンドに集合した生徒は出席をとった後、アップとして屈伸などの準備運動をし、ランニングで体を温める。四列横隊を作り、隊列を乱さないようにグラウンドを二周した。
「これは軍事教練ですか?」
「違うぞ」
たしかに隊列を作っての集団行動は軍隊の訓練そのものである。そういう側面があることは事実だが、あくまでも娯楽だ。貞勝は納得してはいないようだが、引き下がる。
準備運動が終わると準備をして、本格的な運動が始まった。
「今は野球と蹴球か」
「何ですか、それは?」
「野球は守り手が投げられた球を攻め手が木の棒に当てて飛ばし、塁に出る。ぐるりと周り、元の塁(本塁)に帰れたら得点だ。その多寡を競う」
色々と細かいルールはあるが、基本的にはそんなところだ。個人の特徴を活かした役割分担(打順や守備位置)をしなければならず、マネジメント能力を養うことができる。
「蹴球は手を使わずに鞠を蹴り、箱に入れた回数を競うものだ」
九十分の試合をやりきると、移動距離が十キロ以上になるような過酷な競技である。体力や咄嗟の判断能力を養うことができた。
具房がスポーツを始めたきっかけのひとつに娯楽の提供がある。戦争があり、殺伐とした世の中。何か純粋に楽しめるものはないか、熱中できるものはないか。そう考えたときにスポーツが思い浮かんだのだ。
また、皮革の余り解消という目的もあった。畜産が伊賀で大規模に行われるようになったことで、肉のみならず大量の牛革が生産されている。皮は色々なところで需要があるのだが、いささか供給過多となっていた。そこでスポーツを始め、スパイクやグローブ、ボールに皮を使うことを考えついたのだ。
「面白そうですね」
「やってみるか?」
「是非」
ということで、貞勝はスポーツを体験することになった。さすがに三十過ぎたおじさん(文官)にサッカーは厳しいので、野球になった。
「こんな感じですかな?」
ーーブン! ブン!
とバットが風を切る音がする。貞勝は軽くレクチャーしただけで、それなりの素振りをするようになった。さすがは戦国時代の人間。文官といえど、運動神経はいいらしい。そのままバッターボックスに入る。
ピッチャーを務めるのは具房。文系もやし大学生だが、実は中学時代に野球部に所属していた。昔とった杵柄、とばかりにマウンドに上がる。キャッチャーは適当に指名した生徒だ。生徒は急な指名に緊張しつつ、防具をつけて座る。
「打てれば村井殿の勝ち。打てなれければわたしの勝ちだ! 準備はいいか!?」
「どうぞ!」
「では、いくぞ!」
具房は振りかぶって投げた。貞勝は当然のように空振りする。ヒョロヒョロのボールでは接待プレイがバレてしまう。なので、そこそこ真面目に投げた。北畠具房の身体はもやしと化した前世のそれと違い、アスリートのような身体能力がある。だから手加減したつもりでも、軽く120キロは出ていた。
「いい球です、お殿様!」
「ありがとう!」
生徒は具房のボールを褒める。具房は軽く手を挙げて応えた。
「伊勢様! もう一度お願いいたします!」
「わかった!」
貞勝の要請を受けてもう一球、投げることになった。
(やっぱり速いか……。なら、もう少し力を抜いてやるか)
具房は貞勝にボールを打ってほしいため、さらに力を抜くことにする。それでフォームが崩れてしまわないよう、身体の使い方を意識した。足を踏み出すと同時に両腕を捻り、胸を張る。体重は踏み出した左足に乗せ、胸や腕の筋肉の反動、プレートを蹴り出した右足の反発を利用。最後、リリースの瞬間に人さし指と中指でボールを押し出す。
意識としては手加減していたが、適切なフォームで投げられたボールは生きていた。またしても貞勝は空振り。
「あっ……」
そしてキレ抜群のボールは、キャッチャーミットさえも吹き飛ばした。
「す、すみません!」
キャッチャーをしていた生徒はコメツキバッタのようにペコペコと頭を下げる。具房は気にするな、と言っておいた。こういう場合、下手にフォローすると逆効果になると学んだ。そのため、こういったことには基本的にドライに対応することにしている。
「いや、負けましたな」
完敗です、と貞勝。しかし、その顔には笑みが浮かんでいた。負けたけれども楽しかったらしい。
「それはよかったーーん?」
見ると、具房たちの近くに生徒たちがやってきた。そして、
「お殿様、凄いです!」
「あの球、とっても速かったです!」
「自分にもお教えください!」
「あっ! ズルいぞ!」
などと指導を求めてくる。これから貞勝を別の場所へ案内するつもりだったが、
「せっかくですから」
と貞勝が言ったことで、具房は急遽、野球の講習会を開くことになった。
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講習会が終了したときには、お昼に差しかかっていた。具房たちは学校で食事をすることになる。学食では昼ということもあり、多くの学生でごった返していた。
「すごいですな、これは……」
「人が多いからな」
人の多さに驚く貞勝だったが、具房は頷くだけと反応が薄い。まあ、東京に住んでいたのだから当然だ。
貞勝は驚く一方で、この学食というシステムは是非とも導入したいと考えた。これを餌に民を引き寄せられるからだ。
(民衆は食事を満足にできない者も多い。三食が保証されたなら、希望者も増えるだろう)
さすがは織田家の内政官。政策のセンスはピカイチであった。たしかに学校に通う者のなかには、学食目当てでくる者も多い。家の食い扶持を減らすために上級学校へ進学しようとし、好成績を修める者もいた。人間とは欲求に忠実である。
食事を終えた具房たちは、初等学校を出て高等学校に向かう。今日は工業学校と商業学校に向かう予定だったが、野球の講習会で時間をとられたため、商業学校のみに行くこととした。その他は明日である。
商業学校は経済や金融について専門的に学ぶ場である。津は近隣でも一、二を争う商業都市。具房はその立地を利用して、特別講師に商人を招いていた。納屋の津支店番頭など、この時代としては最高の教員を手配している。そして、そのなかでも異彩を放っているのが佐之助の妻・薫だ。
「つまりこれはーー」
彼女は教壇に立ち、講義を行う。具房がもたらした未来の経済学は北畠家で活用されているが、それを見事に吸収した。佐之助を補佐し、葵と並ぶ『女奉行』として、家中でも大きな権限を持っている。具房もその才能を認め、副奉行に任命していた。
「女子も教えているのですか」
「男女は問わない。学ぶ意思がある者に学ばせるんだ」
高等学校は義務教育的な側面を持つ初等学校とは違い、非常に厳格である。『学ぶ者に貴賎なし』という理念の下、入学希望者はすべて受け入れている。だが、成績不振になると勧告の上で退学となった。入るのに易く、出るに難いーーそれが高等学校の評判だ。
しかし、ここを卒業すれば奉行所などに就職できることから、人気は非常に高かった。無論、男女に格差は設けていない。具房が葵を重用していることから、表立っての反対もあまりなかった。さらに産休などの制度も整えている。これには反対もあったが、
「人は皆、母の胎から産まれてきた。なのに反対するとはどういう了見だ!?」
と具房が一喝すれば、誰も何も言えなかった。結局は、これまで男が仕事(政治)をしてきたから、という固定観念からの反対にすぎなかったのだ。
このように具房は女性の社会的地位向上に務め、薫をはじめとした女性教員も数は少ないが存在した。そして全員が集英館(高等学校)の出身であるため、ますます人気が高まるという好循環が生まれている。
翌日は工業学校からスタートした。ここでは各地から集めた職人が講師となり、教育にあたっている。他の学校がどちらかというと理論(座学)を重視するのに対し、この学校では実践を重視していた。カーン、カーンと槌の音が常に響く校内は、まさしく職人養成機関として正しいあり方といえる。
「これまでは職人ごとに弟子を育成していましたが、これからは一括で育てられるわけですね」
「そうだ。もちろん、講師にも利点はある」
それはスカウト制度である。教えた生徒のなかで気に入った者がいれば、自分の工房にスカウトできるのだ。これは職人のメリットであると同時に、生徒のメリットでもある。職人は才能のある生徒を見繕うことができる上、ある程度の基礎ができた人間を雇い入れることができた。また、生徒にも拒否権があるため、自分とは反りが合わない職人に師事しなくて済む。
「なるほど……」
貞勝はすらすらとメモをした。だが、最も大事なのはそこではない。先ほど、工業学校は実践を重視しているといったが、別に座学を軽視しているわけではない。というより、上位の職人になるためには座学ができなければお話にならない。化学や数学の知識、そして何より「規格」とは何かを学ばなければならないからだ。
第二次世界大戦において、アメリカが圧倒的な物量で日本やドイツを圧倒したことはよく知られている。具房が目指すのもこのアメリカ型工業だ。そのためには製品の量産が必要であり、それを助けるのが規格化である。これによって分業、生産効率の向上が実現し、大量生産が可能になるのだ。
しかし、貞勝には伝えない。そこまで真似されると北畠家が危うくなってしまうからだ。為政者は常に最悪の事態に備えるものである。国家間に真の友情などないといわれるのも、それが理由だ。具房も信長に盲目的に従っているわけではなく、彼が政権をとったときにいい地位に就くためという打算がある。個人としては、信長に好感は持てるのだが、為政者としてはそうもいっていられない。
軍学校は軍事教練が主体だ。銃器や大砲の使い方、格闘術(銃剣術、空手、柔道、相撲など)、剣術、槍術、弓術などなど。訓練は欠かさない。一方で銃器を使った戦術などの理論も勉強していた。戦術などは秘密なので見せられない。結果、外で行われている訓練を見ることになった
「凄まじい方々ですな……」
貞勝の言葉は、訓練を施す教官に対するものだった。たしかに、武術教官は豪華な面子である。射撃(銃)の教官は雑賀衆や根来衆の人間。剣術は鹿島新当流や新陰流の人間。槍術は宝蔵院流の人間。弓術は六角承禎、義定が指導している。
しかし、機密が多いためにあまり見るものはなかった。それでも貞勝は、北畠軍が精強な理由を察する。
(これだけの訓練がなされていれば当然か)
織田軍も常備軍の整備を進めている。しかし、北畠軍の精強さにはほど遠い。信長はなぜなのだと悩んでいたが、こういったところに秘訣があるのだろう、と貞勝は考えた。
最後に訪れたのが文官学校(集英館)である。ここは初等学校での内容をさらに深めた学習が行われているのだが、貞勝としてはあまり収穫はなかった。強いていえば、ここからすべての高等学校は始まったという歴史だろうか。具房もあまり意味はないな、と早々に切り上げた。
その夜。
「お世話になりました。明日、ここを発ちます」
と、貞勝が別れを切り出す。
「早いな。もう少しゆっくりして行ってもいいのだぞ?」
「ありがたきお言葉。しかし、羽林様(信長)に早くご報告したいのです」
「そうか」
具房に引き留める理由はない。それに、貞勝がいなくなれば他人に気を遣わなくて済むようになるから、具房としてもありがたかった。
翌日。貞勝は何度もお礼を言って京に戻って行く。具房は三旗衆から護衛を出し、自身も長島まで見送るなど手厚い送り出しをした。後日、報告を受けた信長から感謝の手紙が送られてくる。だが、それは同時に面倒な案件を持ち込まれることになるのだった。