朝倉攻め
短いのは、この章のプロローグだと思っていただければ……。
【お詫び】
第37話におきまして、竜舌号の口径を12cm(四尺)と説明していましたが、正しくは12mm(四分)です。大変、失礼しました。
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永禄十三年(1570年)。年明け早々、具房は軍勢を率いて上洛していた。今回は三旗衆と伊賀兵団の合計五千と小規模である。今回は信長の呼びかけで集まった。面子は具房、徳川家康、松永久秀などだ。
「これより若狭へと向かう!」
参集した諸将の前で信長はこのように宣言した。曰く、室町幕府を再興するため、若狭守護・武田元明を復帰させるというのだ。若狭は永禄十一年に朝倉氏の侵攻を受け、その統治下に入っている。ゆえに、この場にいる誰もが、実際は朝倉氏討伐だとわかっていた。
「弾正様(信長)。兵部少輔殿(浅井長政)は?」
「新九郎殿(長政)は琵琶湖東岸を北上することとなっておる。ゆえに京には来ておらぬ」
久秀の質問に、信長はそう答えた。一方、具房はあまり気乗りしなかった。というのも、これは朝倉攻めーーつまり、長政が信長を裏切ることとなる歴史イベントだからだ。浅井、朝倉と比叡山が連携したことで信長は苦戦した。これは弱体化させねばならない。そのための策は、既に講じていた。
「では明朝、出立いたす!」
信長の言葉で解散となった。とはいえ、義昭に上洛の挨拶をしたり、公家などに挨拶をしたりとその日は忙しかった。夜は京に構えた屋敷(普段は具教と具藤が住んでいる)に泊まった。そして翌日、具房たちは出発した。そこで具房は意外な人物ーー日野輝資などの公家衆と出会う。
「日野殿も参陣されたので?」
「ええ。公方様のためですから」
出兵の名目は室町幕府を復権させるため。ゆえに昵近衆である公家が出ていたのだ。北畠、織田、徳川、ほか松永をはじめとした近畿大名たちの大連合軍は琵琶湖西岸を北上。若狭へと雪崩れ込んだ。
若狭は元々、武田家のものである。ゆえに国人たちは朝倉氏の支配に反抗しており、連合軍に快く協力した。かくして早々と若狭半国(東半国)を制圧する。しかし、本来の国主である武田元明は朝倉氏の本拠である一乗谷に「保護」されていた。そのため、信長は代理として丹羽長秀を置いた。
「任せたぞ、五郎佐(長秀)」
「お任せを」
「うむ。では、我らは若狭国主の救出に向かう!」
信長は若狭国主の救出ーーつまりは越前侵攻を命じた。朝倉義景は元々、『神官(信長のこと。織田氏はかつて越前国の神官である)ごときの指図は受けぬ!』と言って義昭の上洛命令(実際は信長が出している)を無視していた。武田元明の救出は、朝倉討伐の方便でしかない。
「案内はお任せを」
若狭国人である粟屋勝久が敦賀までの道案内を務めた。そこにある金ヶ崎城を落城させ、越前侵攻は順調に進んでいる。ただ、信長たちがいないことをいいことに、義昭は自由に動いていた。その最たるものが、永禄から元亀への改元である。
「なに!?」
報告を受けた信長は激昂した。無理もない。あれだけ反対していたのだから。具房はその執念に呆れるばかりである。
(だから、その労力は別のことに使えよ……)
その不合理な神経が、具房にはよくわからなかった。あるいは、義昭が底抜けの馬鹿である可能性もある。しかし、反信長連合を作り上げるなど、その政治的な手腕は確かである。ただ、努力をする方向が決定的に間違っているというだけで。
「弾正様。こうなっては仕方ありません」
元々、改元に反対するのは信長たちだけなのだ。決まってしまったものは仕方がない、と諦めるように具房は説得した。幕府や朝廷を利用して行動している以上、具房たちもまた彼らの動きに反対はできないのだ。
「伊勢殿(具房)の仰る通りですな。もっとも、費用負担は業腹ですが」
「あはは……」
具房は乾いた笑いを出す。それについてはどうしようもない。諦めよう。人間諦めが大事なのだ。裏ではどこから予算を捻出しようか? と計算を始めていた。
日野輝資以下の公家衆は、肩身が狭そうである。彼らは財政的に苦しく、改元には仕事の創出という側面もあるからだ。彼らがやったわけではないが、確実に血縁者が噛んでいる。身内がすみません……といった様子だ。
結局、改元費用は身代に応じて負担することとした。その不満を発散する手段として、朝倉氏にぶつけようと信長たちはやる気を爆発させる。しかし、ここで誤算が生じた。進撃があまりにも速すぎたのだ。史実では、浅井が裏切るのは金ヶ崎を落としてすぐのこと。ところが現在、そのような報告は上がっていない。なぜ史実より進撃速度が速いかといえば、具房が信長に大量の火器と火薬を与えているからだ。
「新九郎殿は遅いな……」
「ですね」
浅井軍の合流を待っていたのだが、あまりにも遅いため、信長が痺れを切らした。彼はこのままだと戦機を逸するとして、全軍に出発を命じたのだ。
これは極めてまずい。というのも、浅井が裏切るタイミングがずれたせいで越前の領内深くに入り込んでしまうからだ。史実では浅井、朝倉に「挟撃」されるはずが、このままでは「包囲」されてしまう。そうなれば、脱出はより難しくなる。しかし、具房は信長の進撃を止める理由が見つからなかった。
(仕方ないか……)
具房は進撃を止めることは諦める。次善の策として、殿を配置することとした。
「義兄殿(信長)。この地は若狭と越前をつなぐ要衝。ゆえに押さえの兵を置きましょう」
敦賀は日本海の海運で運ばれてくる荷物の集積地であり、その荷は琵琶湖の水運を使って大津や坂本に運ばれ、最終的に京に届く。今回はそのルートを逆に使い、敦賀に伊勢からの補給物資(主に火薬)を届けていた。それを守るために、守備兵を置くことを提案したのだ。
「道理だな」
ただ、信長としては前線の兵を減らしたくはない。そこで、具房から出してもらえるかと打診してきた。最初からそのつもりなので快諾。信虎以下の伊賀兵団に孫一たち花部隊を残した。その際、近江方面に十分警戒するように伝えておく。孫一は疑問符を浮かべていたが、信虎ははっきり頷いた。
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同時期。浅井氏の本拠である小谷城。そこでは信長の若狭侵攻に参加するため、軍の編成が進んでいた。準備は粛々と進んでいたが、城内では浅井家臣が激論を交わしていた。議題はひとつ。織田家による朝倉攻めにどう対応するのか、だ。賛成か反対かーー浅井家臣たちの意見は真っ二つに分かれている。しかし、その優劣は明らかだ。
遠藤直経は賛成。その他は反対。なお、長政は心情的には賛成派だが、当主としての立場は中立である。
賛成派が圧倒的に不利。ただ、直経は孤軍奮闘し、粘っていた。
「喜右衛門(遠藤直経)! 何度言えばわかる! 我ら浅井がここまでやってきたのは誰のおかげか!? それは朝倉殿のおかげだぞ!」
浅井家の宿老である赤尾清綱は親朝倉の態度を崩さない。織田に与するべきだと説く直経を『恩知らず』だと罵る。そうだそうだ、と他の家臣たちも続く。だが、直経も負けていなかった。
「たしかに朝倉殿には初代の備前様(浅井亮政)の時代からの恩があります。しかし、左衛門督殿(朝倉義景)はどうですか? 公方様(足利義昭)の上洛要請を無視し続けております。彼は天下を乱す存在。対して織田弾正殿は秩序を正す存在です」
違うか? と直経が訊ねれば、誰もが押し黙った。義昭が義景に上洛を要請し続けたことはよく知られている。それを義景が無視していたのも有名な話だ。そんな相手と手を組むのは、幕府に対する反逆であると。結局、初日は親織田派の優勢で解散となった。
しかし翌日、形勢は逆転する。それは反織田派がある人物を担ぎ出したためだ。その人物が現れた途端、評定の場は一変した。
「息災か、新九郎?」
現れたのは浅井久政。長政の父である。彼は宿敵の六角氏に従属したことで求心力を失い、当主の座を追われた。だが、家臣たちへの影響力は残っており、依然として大きな存在であった。織田家との同盟を結ぶ際も彼を筆頭に反対した。
「ち、父上……」
長政は久政が苦手だった。というのも、彼は久政を引きずり下ろして当主となった経緯がある。その負い目があるのだ。
久政は何も言えなくなった長政に一瞥をくれただけですぐに視線を外す。そして、長政の横に腰を下ろして直経を見た。
「喜右衛門。そちは織田に付くべきと申すか」
「はっ」
直経は静かに頷く。今は熱烈に織田家支持を表明しているが、同盟を結ぶ際には彼もまた反対していた。久政の物言いは、直経が意見を変えたことを非難するようなものだ。思わず萎縮してしまう。それをつまらなさそうに見て、久政は視線を外した。
「織田とは手を切る」
「父上!」
それはあなたが決めるべきではないーーそう言おうとした矢先に、長政は久政の目力に圧された。それだけで何も言えなくなる。
「今日よりわしが浅井の当主となる。異議のある者は?」
「「「……」」」
既に工作は済んでいた。ゆえに、久政の当主復帰に異論を唱える者はいない。久政は満足気に頷く。
「では、我ら浅井は大恩ある盟友、朝倉殿に牙を剥く織田を討つ。ただちに軍を出せ!」
「「「はっ!」」」
「それと、新九郎と喜右衛門は謹慎いたせ。頭を冷やすのだ」
二人は数名の家臣によって連れて行かれた。当主に復帰した久政の命令により、浅井軍五千は織田軍を討つべく北上を開始する。さらに時を同じくして、一乗谷に集結していた朝倉軍一万五千も進撃を始めた。