海の道
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十月。具房は帰国した。面倒な相手(足利義昭)から逃げるためである。なぜそんなことになったのか。時は義昭が将軍宣下を受けた日に遡る。
『余が将軍となったことを祝して、改元を行いたい』
『『『はぁ』』』
好きにすれば? というのが居並ぶ諸大名の感想だった。このときは完全に他人事だったのだが、次の言葉で無視できなくなる。
『ついては、汝等が費用を出すように』
『『『ええっ!?』』』
ビックリである。義昭はビタ一文出さないという。ふざけるな、と具房をはじめとした大名たちは憤慨した。ただ、感情のままに反対するわけにはいかない。なんとか冷静に反論する。
『公方様からは何もないのですか?』
『ないと言っておる。余は幕府の再建に忙しいでの』
その言葉に対する回答はにべもない。だが、彼の言う室町幕府を支えているのは具房たち大名なのである。未だに反抗する勢力がいるにもかかわらず、その勢力を弱めるような動きをするとは何事かと。
結局、改元実行は思い止まらせた。だが、義昭はなんとしても改元を成功させたいらしい。彼は朝廷に働きかけて公家を動かした。昵近衆と呼ばれる公家(日野家や勧修寺家)を中心に運動を展開する。とはいえ大名たちはいい顔をしなかった。ない袖は触れないのである。
だが、公家は前向きだった。彼らは暇である。仕事がほしいのだ。およそ一年をかけて義昭は自分の味方を増やし、改元ムードを高めていった。具房たちのところにも、日に何度か公家が訪れて費用の負担を求めてくるようになる。それを捌きつつ、具房は思う。
(こんなことをするなら、コツコツ貯めて費用を賄えよ……)
公家を動かすにも金がいる。もちろんその額は少なくない。一年も運動を続ければ、その間に使った金で改元できるような気がするのだ。反対を受けても諦めないその精神力は認めるが、努力するところを決定的に間違っている。
それはともかく、味方が増えて有利になると人間、気が大きくなるものだ。義昭もその例に漏れず、朝廷の賛同を得ていたことからますます強硬になった。これに対して具房たちは、御世代わり(天皇の交代)も起きていないのに改元する必要はない、というロジックで対抗する。
ところが、今度は改元のついでに天皇の譲位もやろう、という話になった。義昭と公家は、大名を『金の成る木』とでも思っているのだろうか? 少し彼らの金銭感覚を疑いたくなってしまう。これに具房たちは、抗議の意味を込めて帰国を選んだのである。逃げたのではない。「転進」だ。
もちろん具房もタダでは転ばない。義昭には帰国の挨拶をする際、
『応仁の二の舞を避けるため』
と言っておいた。「応仁の二の舞」というのは、応仁の乱の勃発で守護大名が京に集まって領国を留守にした結果、下克上などが起きて戦国時代になったことを指している。京に在住して一年近く。これ以上留守にすると具房の力が弱まり、領国が安定しなくなる。ところで、金を出資させて大名の力を弱めようとしていた人がいたね。誰かなー? という嫌味だ。義昭が世の安寧を乱そうとしている、と言外に糾弾しているのである。
当然、義昭はイラついた。だが、正しくともそれは深読みでしかない。否定されれば難癖をつけていることになるため、言うに言えないのだ。ここは具房たちの勝利である。
「お帰りなさい」
「お帰りなさいませ。太郎様」
「ちちうえ、おかえりなさいーーませ!」
お市、葵、宝が順に声をかけてくる。宝が「ませ」と付け足したのは、葵に睨まれたからだ。どうやら礼儀作法の勉強が始まったらしい。それは成長した証であり、喜ぶべきことだ。しかし、具房はまったく知らなかった。それについては残念に思う。
「ああ。ただいま」
しかし、具房はそんな感情を隠してただいまの返事をした。なお、真っ先に突っ込んできそうな雪はというと、今は学校だ。農作業が終わるこの時期、学校に通う生徒が増える。必然、忙しくなるのだ。
現在の具房の最大の関心事は自分の子どもだ。本圀寺の変が勃発したことで上洛してから「行ったっきり」となっていた具房。その間にお市と葵の妊娠が発覚し、あれよあれよという間に出産を終えた。その子どもは、二人の腕に抱かれている。
生まれた子どもは二人とも女の子。お市が産んだ子は茶々、葵が産んだ子は光と名づけられた。クリクリとした目が初めて見る人物ーー具房に注がれている。この人だれ? と言わんばかりだ。
「父だぞ〜」
と、具房はいつもよりワントーン上げて呼びかける。
「あうあ〜」
光は本能的に具房が父親とわかっているのか、嬉しそうにはにかみ、手足をバタつかせる。可愛い……と娘の姿にメロメロだ。
一方、もうひとりの娘である茶々は、
「あうッ!」
と具房を威嚇する。気安く私に触れるな! とでも言いたいのだろうか。
「まあ。この子は……」
誰に似たのかしら、とお市。赤子のうちからこの調子だと先が思いやられるわ、と呆れ顔だ。だが、具房や葵は思った。むしろ、母親そっくりだと。将来は母親のように美人で気の強い子に育つーーそんな予感がした。
そんな風に新しい子どもとの対面を済ませた具房。すると、今度はお市たちに主導権が移る。彼女たちが注目したのは、具房の側に控えている蒔だった。
「旦那様。その子が?」
「ああ。半蔵の娘で側室となる蒔だ」
「……よろしくお願いします」
蒔はペコリと頭を下げる。その所作は堂に入っていた。くノ一の仕事は女中になりすましての諜報活動。ゆえに、礼儀作法などは完璧に仕込まれていた。
「ええ。よろしくね」
「一緒に太郎様をお支えしましょう」
お市や葵は蒔を快く受け入れる。他の家はともかくとして、具房のところでは女同士の確執はほとんどない。それは具房が正室と側室の区別をつける一方、女性陣を平等に扱っているためだ。正室や側室は建前でしかない、と理解させている。また、具房の長男がお市(正室)の子だというのも大きい。家督継承で揉めることは(今のところ)なかった。
(ふう……)
とはいえ、蒔が妻たちに受け入れられるか心配していた具房。だが二人に嫌そうな雰囲気はなく、ホッと胸を撫で下ろした。
これで家の用事は終わる。しかし、具房にはこの他にもやることがあった。まずは溜まっていた書類の処理。いくらか京で捌いていたとはいえ、輸送できない重要なものもある。それらに目を通さなければならない。
「概ね順調か……」
今、具房が読んでいるのは領地の開発についての報告書だ。現在、彼の領地では転生チートを活用した開発が進んでいる。英虞湾で行われている真珠養殖、山村で行われている養蚕もその一環だ。だが、現在はより大規模な開発が進行中である。
津の城下町、その南側は「職人町」と呼ばれ、工業地帯となりつつあった。そこで行われているのは鉄砲や火砲の生産だが、それらを支えているのが製鉄だ。コークス炉、反射炉を建設し、鉄を生産している。コークスにする石炭は蝦夷地(北海道)から、鉄鉱石は伊賀(名張郡)から調達していた。
さらに、コークスを作る際に生じる副産物のトルエンに硝酸と硫酸を使ってニトロ化してトリニトロトルエンを製造している。有名なTNT火薬の原料だ。なんとかここまで漕ぎ着けた。
この時代からすればこれだけでもかなり先進的な技術だが、具房が目指しているのはまだ先。ボルトアクション式小銃の開発だ。乗り越えなければならない難関は二つ。ひとつは、ボルトアクションの機構を開発して生産できるようにすること。もうひとつが薬莢の工作精度だ。
(ボルトアクションは技術者に頑張ってもらうしかないな)
具房は心のなかで技術者にエールを送った。例によって褒美という人参をぶら下げている。同様にご褒美人参をぶら下げた絹の生産は、ようやく中国のものに劣らない品質の確保に成功した。きっとがむしゃらに走ってくれるだろう。
一方、薬莢の工作精度については解決しそうだ。加工にはプレス機械を利用する。学校の工作室にあった万力から着想した。片側に硬い金属で薬莢を型どった凸面、反対側にわずかに大きな凹面を作る。凹面に薄く柔らかい金属(真鍮)の板を置き、圧縮。薬莢を作成するのだ。
銃弾の着火方法はリムファイア式を採用することとした。リロードはできないが、薬莢を回収、鋳溶かして再利用する。ただ、トリニトロトルエンは衝撃や熱に鈍感なため、底部にジアゾジニトロフェノールを詰めることとした。リムファイア式はセンターファイア式と比べて不発弾となる確率が高いが、構造が簡単であるため採用した。弾頭も製造されて銃弾は完成。あとは、銃の完成を待つばかりである。
また、具房は錬金術にも手を出した。といっても、永遠の命を求めて賢者の石を作ろう、卑金属を貴金属に変えよう、などという非科学的なものではない。金策である。それは、銅から金銀を得るというもの。何度もいうが、怪しい錬金術ではない。
中世において、日本の主要な輸出品は銅であった。中国人や南蛮人(ヨーロッパ人)はこれを挙って買う。なぜか。それは日本の製錬技術が低く、銅に含まれる貴金属を回収できなかったためだ。つまり、日本人は銅を売ったつもりなのに、中国人や南蛮人からすると、金銀を銅の値段で売ってくれたも同然なのである。
そこで、具房も同じことをやってみた。史実では南蛮吹きと呼ばれた灰吹法の一種である。
「銅に金銀がこんなにも含まれているなんて……。殿様は物知りですな」
「明の書物に書いてあっただけだ」
話を聞いた職人は半信半疑だったが、いざやってみると具房が言った通りに金銀を得られた。以来、津には各地から買いつけた銅が運び込まれ、金銀を精錬で得ている。これで石炭を買い、鉄砲や大砲を生産。それを売って金を得て、その金で銅を買いーーというループが出来上がっていた。
それを支えているのが海運である。鳥羽をはじめとした志摩国の水軍衆を使って北畠海軍が編成され、彼らが海運を担っていた。造船所では次々と船が建造され、進水していく。建造される船は基本、ガレオンだ。しかし、戦列艦とフリゲートも建造されている。
ガレオンは後世の仮装巡洋艦のような扱いで、普段は商船として用いられ、戦時には戦闘艦となる。対して戦列艦は五十〜百門以上の大砲を備えた帆船。フリゲートは五十門ほどと大砲の数は少ないが、機動性が高い。どちらも戦闘が専門だ。戦列艦とフリゲートで構成される戦闘艦隊を一個、ガレオンで構成される商業艦隊が複数個ーーそれが北畠海軍の編成であった。
戦時には、商業艦隊も必要に応じて戦闘を行う。だが、平時には通商に従事する。それが基本だ。航路は主に二つを使う。ひとつは津と堺を往復する航路。もうひとつが津と蝦夷地を往復する航路だ。前者には三個、後者には五個の商業艦隊が投入されている。この二つの航路で定期便があった。
堺との結びつきは北畠家にとって重要であることはいうまでもない。堺へ向けては真珠や絹などを送る。堺からは粗銅や海外の珍品が運ばれてきた。定期便の就航は蝦夷地との間に設けるつもりだったが、
「よろしくお願いいたします」
と、今井宗久から言われて堺便が最初となった。津には東海道諸国(尾張、三河、遠江、駿河、伊豆、相模など)からの荷物が集積される。津島とは比にならないほどの富をもたらすのだ。ゆえに津の港湾はよく整備されていた。城下町の建設にあたり、具房が特に力を入れたポイントである。
一方、蝦夷地との定期便の就航は苦戦した。船を送るにしても、現代のように一気に行くことは難しい。少なくとも関東と東北で一ヶ所は寄港地が必要だった。そこで目をつけたのが北条氏(相模)と葛西氏(陸奥)だ。これらを寄港地とする。また、遠縁ながら同じ北畠一門である浪岡氏にも協力を依頼した。彼らは現代の日本でいう青森に所領がある。蝦夷地との連絡に様々な便宜を計ってくれることとなった。
とはいえ、道のりは楽ではない。浪岡氏ら葛西氏の協力はとりつけられたものの、北条氏との交渉は難航した。彼らは今川氏を支援しており、反今川の旗を掲げる徳川氏と同盟する具房には協力できない、というのだ。何度か書状を送ったが、返事はそっけないものばかり。
「う〜ん……」
「お悩みですかな?」
京で具房が悩んでいると、そこに武田信虎が現れた。彼は伊賀の統治を任されているが、徐々に娘婿である徳次郎に権限を移譲。半隠居状態にあった。京には知り合いも多いため、ちょくちょく遊びにきているのだ。その度に主君である具房へと挨拶に来るのだが、丁度、具房のお悩みタイムにかち合わせたのである。
具房は正直なところ、信虎が苦手だった。しかし、一国の大名として領国を経営した人物であり、学ぶべきことが多くある先達であることもまた事実。それはそれ、これはこれ理論で何かと頼りにしていた。実質的に、具房の相談役となっている。このときも北条氏について相談した。
「ふむ。ならば土佐殿(卜伝)を頼るのはどうだ?」
「卜伝に?」
示されたのは意外な解決策。卜伝を頼れ、だった。怪訝な顔をする具房に、信虎は卜伝を推薦する理由を述べる。
「土佐殿は鹿行を支配する塚原氏の出身で、彼らは北条氏に従属する千葉氏に味方している。その縁を頼ってはどうだ?」
「なるほど」
具房は納得してポン、と手を打つ。早速、伊勢で子どもたちの傅役をしている卜伝に口利きを依頼する。
「お任せくだされ」
と、卜伝はこの要請を快諾してくれた。また、信虎も信玄に北条氏との仲介を依頼した。具房はその使者にお土産(伊勢産の特産品)を渡している。甲斐は金を盛んに産出することから、こちらも上客となってくれるはずだ。
こうした外交努力により、北条氏は艦隊の入港を認めてくれた。数度の試験航海を経て、正式に蝦夷地との定期航路が開かれる。交渉が難航している間に、蝦夷地での活動は順調に進んでいた。浪岡氏からアイヌ語を話せる人材を紹介してもらい、現地の部族との友好関係の構築に成功している。石炭などは、アイヌが採掘したものが輸出されていた。対価は米などの食料、工芸品である。
なお、蠣崎氏と勢力圏が接しないよう、道南への進出は控えていた。今後は釧路などの道東地域を開発する予定である。もっとも入植などはまだ先のことになりそうだが。ともかく、この海の道が北畠家に金をもたらす重要なものだ。具房はその維持発展を、領国経営の柱としていくのだった。
今回は内政モノでした。ちょっと複雑なので、簡単な解説を載せます(読み飛ばしていただいても本編の理解に影響はありません)。
製鉄に使うコークスは、瀝青炭を蒸し焼きにして作られます。このときコールタールが生じ、ここからトルエンが得られます。これを高温でニトロ化するとトリニトロトルエンが生成されます。
ジアゾジニトロフェノールは、まずコールタールからフェノールを分離します。次に濃硫酸と濃硝酸でニトロ化し、ピクリン酸を得ます。これに苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を加えて硫化ナトリウムで還元。塩酸で酸性にした水に亜硝酸ナトリウムを加えてジアゾ化することで生成します。
色々と調べて書いていますが、作者は文系です。詳しい方、ここが間違っているなどというご指摘がありましたらご一報ください。