リアルくノ一
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「帰りた〜い、帰りた〜い」
具房はやさぐれていた。本願寺や延暦寺との交渉はまったく進まない。前者に関してはのらりくらりとかわされるだけで、言質がとれない状況だ。後者については、信長が頑なに意見を変えていない。今ではない、と言いたかったが、言えないもどかしさを抱えていた。
こんな状況ではとても安心できない。なんとか言質をとって、和解して、今後始まる信長の覇道を平易なものにしていきたいーーその一心で、具房は奔走する。本願寺に関しては日野輝資のみならず、六角承禎も呼び寄せて交渉に当たらせていた。
しかし、その思いとは裏腹に成果は挙がらず、虚しく日々を送っている。加えて、具房はあまり交渉に傾注できないでいた。というのも、彼は大名として領国経営を行わなければならない。様々な改革を実施したことにより身内にも明かせない秘密が増え、すべてを知るのは具房と葵だけだ。国に具房がいないときは代わって葵が政務をとるのだが、彼女も妊娠中で少し滞りがちであった。
また、具房にしかできないこと(文書の発給)もあるので、それは京で行なっている。その伝達を担っているのが花部隊の人員だ。とはいえ忍者も人手不足である。どれだけ人手不足かといえば、具房に近侍していた服部正成も駆り出されているほどだ。
「……御所様。お方様(お市)と一ノ台様(葵、具房の最初の女性という意味)からです」
「ありがとう。そこに置いておいて……?」
くれ、と言いかけたところで言葉を切る具房。書状を書いていたために声だけでやりとりをしていたのだが、それに違和感を覚えたのだ。
(声、高くないか?)
具房は首をひねる。忍者というのは単独行動が多いためか、押し並べて口数が少ない。しかも、話し声もそれほど大きくなく、聞こえるか聞こえないかのレベルだ。いわゆる陰キャというやつである。具房も元はその口であり、非常に親近感が湧いた。
それはともかくとして、今の声は聞き慣れない。具房は主君というだけあり、連絡役はかなり高位の人間である。必然的にその数は限られ、顔見知りとなっていた。もちろん声も覚えている。だが、今の声は聞き覚えがなかった。しかも、男のものにしては高い。
「……どうかされましたか?」
「……いや。何でもない」
そう答えるのに間があった。それは、顔を上げたときに目に入った相手の姿を見て驚いたからだ。
少女がいた。見知らぬ少女が。
執務室にいることから花部隊幹部の縁者だということはわかる。しかし、具体的に誰なのかはわからなかった。見つめあう二人。くりくりとした目が具房を捉えている。
(ま、訊けばいいか)
向こうも具房と初対面であることは知ってるはず。なら訊いてもいいだろう、と。具房はそう結論づけた。
「そなたは?」
「……服部半蔵の娘、蒔と申します」
「おお。半蔵の娘か!」
具房は彼女と会ったことがあった。新年の挨拶で、半蔵が家族を連れてきたのだ。彼女は今年で十六歳。そういえば婚活パーティーに出てこなかったな、とそんなことを考えながら昔話に興じる。
「仕事を任されるようになったのか?」
「……はい。これからは兄に代わり、御所様の側付を務めさせていただきます」
「そうか。よろしく頼む」
蒔の側付きはウェルカムだった。蒔のような美少女がいてくれると、京の屋敷が華やかになるからだ。具房も心なしか声を弾ませる。美少女パワーのおかげか、仕事も普段より早く終わった。
だが、彼の思い描く『側付き』と蒔の言う『側付き』は意味が違っていた。それに気がついたのは夜のことである。
「温泉に行きたいなぁ……」
激務によって身体が凝っている。それを解したい。それには温泉が一番。前世、研究に疲れたら日帰りで箱根なんかの温泉に行ったものだ。そんな過去を懐かしみつつ、お湯に浸した手拭いで身体を拭いていく。転生して間もないころは、お風呂に入れないどころかシャワーすら浴びられないことに絶望した。もちろん、もう慣れたが。
「……お背中、お流しします」
「ああ。ありがとうーーって、蒔!?」
具房は飛び上がり、乙女のように人の気配がする方へ背中を向ける。そして闖入者ーー蒔を問いただした。
「なんでここに来た!?」
「……御所様のお背中を流すため」
「いや、要らないから! 大丈夫だから!」
「……それはダメ。わたしの任務」
思い留まらせようとする具房だったが、蒔にはまったく効果がなかった。徐々に接近してくる蒔。具房は後ずさる。しかし限界があった。彼にも威厳というものがある。やろうと思えば屋敷から逃げ出すこともできるが、大名が上半身裸で街を爆走するなど、末代までの恥だ。結局、具房は蒔に捕まってしまう。
「……お背中流す」
「……わかったよ」
具房は諦めたように元の場所に戻った。こうなった以上は諦めるしかない。ポジティブにいこう、と己を納得させる。
(他人にやってもらった方が、隅々まで洗える)
背中とかは意外と難しい。だから蒔にやってもらうのだーーそう考えないと、具房はどうにかなりそうだ。そんな彼の気など知らず、蒔はノリノリで具房の身体を拭く。
「……堅い。とってもたくましい」
「変なところを触るな……」
「……たまたま」
「……」
蒔の手が具房の筋肉を撫でる。その度に変な感覚を覚えた。幼いころから鍛えているため、前世では考えられないほど筋肉が発達している。さすがに筋肉を鍛えることだけに特化したボディービルダーには敵わないが、それでも『細マッチョ』の域には達していた。
お市や葵も、同じように筋肉を撫でてくる。なぜかと訊くと、安心できるからだという。やはり戦乱の時代だからか、筋肉という男の強さを象徴するものに憧憬があるらしい。筋肉を褒められて具房も悪い気はしないのだが、指でフェザータッチをされると興奮してしまう。京ではそういうこともしていないので尚更。
だが、具房は耐えた。学生時代の、もやしだった自分とは違うのだ。持久走が嫌で、疲れたらスピードを落として、一時間かけて四キロのコースを走破していた豆腐メンタルではない。鋼の心で具房は耐え抜いた。
危ないときはあった。それは、最後にお湯をかけて浴衣を着るときである。バシャバシャと、二、三度お湯をかけられて洗い流され浴衣を着るのだが、そのとき蒔を見た。
濡れていた。
お湯を少しかぶったのか、彼女が着ていた浴衣の前が水を含み、肌に張りついているのだ。おかげで蒔の身体のラインが露わになっている。
「……何か?」
しかし、本人は気づいていないのか気にしていないのかわからないが、どうしました? と純粋な目で見てくる。純粋無垢。そんな少女に己の劣情を向けていいのか、という良心が自身を苛む。
「疲れた……」
夜。寝るという段階になって具房は布団にパタリと倒れ込む。精神的に疲れた。特に夕方からがキツかった。蒔はなぜあんなことをしたのか、そんなことを考えつつ微睡に身を任せる。
ところが、意識を手放そうという段階になって、具房の意識は急速に覚醒した。ツー、と襖を開ける音がしたからだ。とっさに刀を持つ。
具房は大名という身分であり、為政者ゆえに恨みも買う。それは、板垣退助や大久保利通といった維新の立役者が次々と凶刃に倒れた例から推して知るべし。ゆえに暗殺も可能性のひとつとして考えられる。そこで具房は護衛を配置していた。彼らはあちこちに潜んでいるが、極力気配を薄めている。まして、部屋に入ってくるなんてことは(よほどの緊急事態を除いて)ない。すわ、敵襲か!? と飛び起きたのである。だが、入ってきたのは下手人ではなかった。
「……蒔?」
入ってきたのは、夕方から具房を翻弄したくノ一、蒔である。しかし、今の彼女はいささか不自然であった。というのも、襦袢に身を包み、髪は(元々短いものの)下ろしているのだ。当然、くノ一として活動する格好ではない。むしろ、夜伽の格好に似ていた。
「……よろしくお願いいたします」
何をよろしくしろと言うのか。具房はわからなかった。というより、わかりたくなかった。
「その格好は?」
「……御所様の夜伽をするためのものです」
「要らない」
具房はきっぱりと断った。認めよう。たしかに自分は性に飢えている。しかし、だからといって臣下に手を出すほど落ちぶれてはいない。だから要らない。
「……ですがーー」
「帰れ。さもなくば金輪際、近寄らせない」
それは当然、側付きという仕事ができないことを意味する。具房は彼女たちの雇主だ。だからといって横暴が許されるわけはないが、気に入らない相手を寄せつけないくらいはできた。それは蒔もわかっているのだろう。わかりました、と言って去っていく。その後ろ姿は、少ししょげているように見えた。
(悪いことをしたかな?)
具房はつい強く言ってしまったが、言いすぎたかな? と後々になって反省する。もっと上手い言い方があったような気がするが、ソフトに言っても蒔には効果がなかった。一度くらいは強く言ってもいいか、と自分を納得させる。ただ、後悔はそこまでだ。
「誰かある」
「はっ」
呼べば、側に控えている小姓のひとりがやってくる。彼に、具房は半蔵を呼び出すようにと命じた。
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半蔵が到着したのは翌日の夕方だった。速度からして、連絡を受けてすぐにやってきたようだ。客間に迎えた。そこには蒔も同席している。居心地が悪そうにしていた。
「殿。どうかされましたか?」
「蒔のことだ」
具房は蒔の行動について、事情を知っていそうな人物(半蔵)に訊ねた。やや拙速なのは、彼がこの状況をなるべく早く脱したいと考えているからだ。
政務をする日中、蒔は側付きの仕事をこなしていた。だが、そのときの空気が重い。とてつもなく重かった。おかげで処理スピードも落ちている。このままでは日常に支障をきたす。早くなんとかしたい。
具房はかくかくしかじかと、半蔵に事情を説明した。すると、みるみるうちに半蔵が困り顔になる。
「蒔はお気に召しませんか?」
「なぜそうなる?」
わけがわからない具房。まるで自分が悪いような感じだ。思わずムッとなる。そんな主人の反応を見て、半蔵は違和感を覚えた。会話が成立しているようでしていないーーそんな感覚だ。
「殿。蒔を側付きにしたのは以前のお約束があったからですよ」
「約束?」
そんなものあったか? と具房。本気で忘れていた。半蔵はやっぱり、と思いつつ蒔を送り込んだ経緯を説明する。
今から十一年前の永禄元年(1558年)。半蔵たちが具房の家臣になったばかりのころだ。この時代、忍者の身分は低い。使い捨ての傭兵みたいなもので、給料も安かった。それが普通なのだが、具房は高給で雇うという。もちろん悪い話ではない。だが、半蔵たちはつい本当なのかと疑ってしまう。それを具房は察し、半蔵と話し合ったのだ。
『単刀直入に訊く。どうしたら俺を信用できる?』
『そ、それはどういうーー』
『誤魔化しは要らない。お前たちが自分たちに与えられる俸禄が高いことを、何かの間違いじゃないか、裏があるんじゃないかと懸念していることは知っている。だが、俺にそんな考えはない。高い俸禄を与えているのは、お前たちの腕を見込んでのことだ。とはいえ、口でいくら言ったところで納得しないだろう。だから、何をすれば信用してもらえる?』
具房は早口でまくし立てた。彼らの信用を得るためにできることは何でもする、そんな心境だ。このとき半蔵が提案したのが婚姻だった。
『では、娘をお預けしたい』
普通は逆で、具房から半蔵に婚姻という形で人質を出すのが普通である。だが、半蔵はその逆を提案した。これは、具房の本気度を知るためだ。村上源氏の血を引く貴人である具房。そんな彼が、どこの馬の骨かもわからない忍びの娘を受け入れるのか。普通は受け入れないが、忍びに高い俸禄を払う具房の言葉が本当であれば受け入れるーーそう考えたのだ。
『わかった』
具房に躊躇はなかった。いくつかの条件ーー婚姻は十六歳以上になってから、待遇は側室、相手の同意を得ることーーをつけて承諾する。
「そのときの約束を果たすために、蒔を送り込んだのです」
「そうだったのか……」
言ってくれないとわかんねーよ、という言葉は辛うじて呑み込んだ。ムカムカする心を深呼吸して落ち着かせる。
(今やるべきことは、感情のままに当たり散らすことじゃない)
そう自分に言い聞かせ、具房は冷静さを保つ。感情を抑えることに成功すると、今度はやるべきことをやった。
「蒔。昨日はすまなかった!」
謝罪である。蒔の前に座り、頭を下げての謝罪。昨日のことで、彼女がどれだけ傷ついたのか。その程度はわからないが、ショックを受けたことだけはわかる。だから何よりも先に謝らなければならない。許してもらわなければならない。すべてはそれからだ。
一方、謝られた蒔は困惑していた。無理もない。身分差が著しいこの時代、上位者が下位の者に謝ることはまずない。あったとしても、ごめんのひと言があればいい方である。だからこそ、目の前で起こっていることが信じられなかった。
彼女にとって困ったことに、具房は頭を下げてから微動だにしない。これは、自分が何か言わないといけない、と察する。とはいえ、何と言っていいかわからない。父(半蔵)に助けを求めるも、首を振られた。自分でやれ、ということらしい。蒔は泣きたくなった。しかし、自分が何も言わなければ、具房はずっとこのままだ。言うしかなかった。
「……御所様。どうか、お顔をお上げください」
そう言われ、具房はゆっくりと顔を上げる。そこには、穏やかに笑う蒔がいた。
「……御所様のお気持ちはわかりました。わたしは気にしていません。色々と勘違いもあったようですし」
「だが、俺は君に心ない言葉を言ってしまった」
「……昨日は辛かったです。でも、今のお話を聞いていて、御所様のお言葉は、わたしのことを気遣ってのものだった、ってわかりました。ですから、御所様もどうかお気になさらないでください」
蒔は具房の目を見て言う。もうこれ以上は言いっこなしーーそう訴えていた。彼女がそう言うなら、と具房も引き下がった。
「ありがとう」
そう感謝も忘れない。話がまとまった段階で、半蔵が声をかけてきた。
「それで殿。蒔はお気に召しませんでしたかな?」
「とんでもない。俺にはもったいないほどの器量よしだ」
それはよかった、と大笑いする半蔵。いや、元はといえばお前がちゃんと説明しなかったから勘違いが起きたんだぞーーとは言わないでおく。折角いい雰囲気でまとまったのに、それが台なしになるからだ。
これで話はまとまり、側室として蒔が加わることとなった。彼女はくノ一としての訓練を受けており、比較的身軽に行動できる。遠征先までついてきて、その補佐をすることとなった。また、彼女のおかげで京における具房の禁欲の日々は終わりを告げたのだ。
二人の間に蟠りがなくなったことで、政務のスピードは元に戻った。翌日は一昨日よりもさらに早く仕事が終わっている。津からの手紙が届いたのは、その日の夜のことだ。そこには、お市が女の子を出産したとあった。名前は茶々にしたという。
「産まれちゃったよ……」
寂しいものだ。葵もそれほど時間差はないだろう。これは無理だな、と具房は人知れずため息を吐くのだった。
というわけで、さらりとお市の娘・茶々(淀殿)の登場です。史実では歴史の荒波に呑まれた彼女ですが、この世界ではどのような人生を歩むのでしょうか?