ダイエット
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鶴松丸ーーその名前を、智久は聞いたことがなかった。中世(戦国時代)を研究する過程で、だいたいの戦国大名や主だった家臣の名前くらいは頭に入っている。父親の具教はそこそこ有名だ。当然知っていた。しかし、鶴松丸という名前に心当たりはない。
(……誰だ?)
考える。既にこの世にきて一週間が経った。現代とは比べるのが馬鹿らしくなる生活に、ようやく慣れつつある。そして自分の正体も、その手がかりを掴んでいた。
鶴松丸は伊勢国司・北畠家の嫡男(父親は北畠具教)。そして規格外のデブ。この条件に合致する人物は、ひとりしかいない。
北畠具房
これが鶴松丸の将来の名前だ。伝承によれば馬にも乗れないほどのデブで、『太り御所』とあだ名されていた。現在の見た目や、兄がいないことから、自分が具房だと半ば確信する鶴松丸。
(絶対に痩せてやる。デブは嫌だ。マジで)
と、決意を新たにした。生活習慣病や糖尿病など、思いつくだけでも様々なリスクを抱えることになる。さらに、武士であれば合戦に出ざるを得ない。馬にも乗れないのでは、格好がつかないというものだ。
痩せるためには何をすべきか。鶴松丸は考えた。そして得た結論は、摂取カロリーを消費カロリーより低くする、ということだった。要は暴飲暴食を控え、運動するのだ。
前者はとても簡単だ。所詮は三歳の幼児。胃の大きさなどたかが知れている。だからそろそろお腹がいっぱい、と感じたら食べるのを止める。おかわりなどもってのほかだ。侍女たちは、おかわりが要求されずに驚いていた。
(いや、これが普通だから……)
鶴松丸は心のなかで突っ込んだ。家中における自身の評価を目の当たりにした心地だった。なるべく早くこれを改善したいところだ。
後者のためにやることといえばひとつ。運動だ。この時代で運動といえば、やはり武芸の鍛錬。しかし、剣術は難しい。身体が小さい上に、二の腕がボンレスハムのように膨らんでいる。これではまともに動くこともできない。そこで鶴松丸はなるべく身体に負荷をかけない運動をすることにした。武士の基本である馬術と、水泳であった。
馬術は意外と身体を動かす。ただ馬に乗せてもらうのではなく、馬と呼吸を合わせて共に動く。これができて初めて馬に乗る、といえるのだ。そのためには精神力や体力を消耗する。
そして水泳は、もっとも簡単な全身運動だ。泳ぐためには手足を激しく動かす必要があり、かなりのカロリーを消費する。それは、水球の試合(三十二分)で五百キロカロリーを消費することからも明らかだろう(フルマラソンの消費カロリーが二千〜三千なので、一時間あたりの消費カロリーで計算するとほぼ同じになる)。加えて水中では浮力が働くため、身体への負担が少ないのだ。
まずは乗馬から。戦国時代、武士にとって重要なのは実は刀ではない。鎌倉時代の鍛錬方法として有名な騎射三物(笠懸、犬追物、流鏑馬)にあるように、武士に必要とされたのは乗馬と弓の技術だ。刀は、どちらかというと飾りに近い。刀が武士の心とされたのは江戸時代になってからだが、最初のころはかつての武士のあり方が残っていた。それは武家諸法度(寛文令)に『文武弓馬之道、専可相嗜事(文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事)』とあることからも見てとれる。
「おおっ! お上手でございますぞ、若!」
鶴松丸の指導にあたっている家臣から褒められる。彼の乗馬技術はまだまだだ。しかし、初めてにしては上出来である。これは鶴松丸が前世で何度か馬に乗ったことがあるためだが、家臣にそんなことは知る由もない。これはとんでもない神童だ(ただし体型は別)、と称賛する。鶴松丸はそれをお世辞だと思っていたが、褒められて悪い気はしない。
(かなり慣れてきたな。馬と呼吸を合わせるのが大変だが)
鶴松丸はゆっくりと乗馬を楽しむ。その一方で、少し残念に思っていた。
(予想してたとはいえ、馬が小さい)
戦国時代の合戦といえば、屈強な馬に乗って戦場を駆ける武士の姿が想起されるだろう。しかし、現実は異なる。まず、日本の馬は足が遅い。時代劇なんかで使われているのはサラブレッドのようなスマートで足の速い馬。だが、現実に戦国時代で使われていたのは、道産子のようなずんぐりむっくりした体型の馬だ。小さく、足も遅い。
(鎧の重さも加味すれば、もっと遅いだろうな……)
鶴松丸が前世で乗ったのは、引退した競技馬だ。駆けさせてみても、その速さの違いは明らか。そこは残念なポイントだった。北畠存続のためには軍事力の強化は必須。鶴松丸はそのなかに馬の品種改良、という項目を追加する。
馬術の鍛錬が終わると、昼食を挟んで水泳だ。当たり前だが、この時代にプールなんてものはない。よって水泳は近くの川で行うことになる。鶴松丸は北畠家の嫡子であり、外出には許可が要る。父親は色々と忙しい様子だが、家臣に伝言を頼んで許しは得ていた。
『泳法(水泳)だと? そんなことをして何になる?』
『我が家は海に接しており、船戦も考えられます。万が一に備え、泳法を身につけたいのです』
『……わかった。ならば、鳥羽をつけよう』
これが家臣を介したやりとりである。北畠家が保守派であり、当主である父親も頭の固い人物かと思っていた鶴松丸は拍子抜けした。だが、考えてみると父親も塚原卜伝に剣を習うなど、戦国のスタンダードからは少し外れている。そういう下地はあったのかもしれない。
ともあれ、許可は下りた。鶴松丸一行は北畠家の居城である霧山御所に詰める兵士を護衛に、近くの川へ向かう。家臣である鳥羽成忠も同行している。彼は泳法の師匠役で、普段は北畠水軍を率いている。黒人に見えるほどの日焼け、ボディービルダーのような筋肉、髭もじゃと、ザ・海の男という姿をしていた。
「では始めるか」
褌一丁の姿となった鶴松丸は、腕を組んで川岸に立つ。その身体は脂肪が多くついており、実に締まりがない。が、その辺りは今後改善されていく予定だ(多分)。
「始めますか、若殿。それではまず、水に慣れるところからーー」
「待て、監物(成忠)。それより先にやることがある」
逸る成忠を制し、鶴松丸は川岸で準備運動を始める。屈伸、伸脚、アキレス腱伸ばしなどなど念入りに。水は怖い。数センチで人を殺すことができるのだ。足が攣ったりすれば、即座にこの世から退場である。
(そんなことになってたまるか)
自分は北畠家の未来を知っている。家族をそんな悲惨な目に遭わせたくはなかった。だからこそ自分は生きて、家を存続させなければならない。その責任がある。こんなところでは死ねない。ーーそれが鶴松丸の思いだった。ほんのわずかな間一緒に暮らしただけだが、北畠家の人間に情が湧いていたのだ。
「何ですか、それは?」
「水に入る前には身体をよく動かしていたほうがよいと、前に読んだ明の書物に書いていたのだ」
「なるほど。若殿は勉強熱心でいらっしゃる」
鶴松丸は適当なことを言う。この時代は書物などを読める人間は一部の上位層に限られており、書物に書いていたと言われれば信じてしまう。もちろん準備運動は未来の科学理論に基づいており、今言ったことはまったくのでまかせであった。しかし、成忠はあっさりと信じ、若殿は勉強熱心だと鶴松丸の評価を上げる。
成忠は鶴松丸に倣って準備運動をする。それが終わると、鶴松丸はゆっくりと水に浸かった。それを見た成忠は笑う。
「若殿。男児たる者、臆病者のように水に浸かるのはよろしくありませんぞ」
ガハハ、と豪快に笑いながら飛び込む成忠。ムキムキボディを惜しげもなくさらした彼が立てた水飛沫が飛び散る。鶴松丸も被害を受けた。
「監物。冷たい」
抗議するが、成忠には通じない。というより、ぐいぐいと水の中に引き込もうとする。ガチムチ男に水へと引き込まれるーーこれが普通の幼児なら、確実にトラウマになっただろう。
(傅役には不適任だぞ、父上)
父親に文句を言いたくなる鶴松丸だった。というわけで、ここで再び免罪符を使う。
「待て、監物。これには理由があるのだ」
「ほほう。それはどのような?」
どうせ女々しい理由だろう、と成忠の目が語っていた。しかし、鶴松丸が語ったのは正論である。
「これも明の書物にあったのだが、人は温度が下がると身体を悪くするそうだ。特に心の臓への負担が大きく、死んでしまうこともあるようだ」
「……それは誠で?」
「そなたも聞いたことがないか? 冬に人死が出たという話を」
「はい」
「その主な原因がこれである、と書いてあったぞ」
鶴松丸はよかったな、とつけ足す。これは自分が死ななくてよかったな、という意味だ。お目付役として随行していて主君の子どもが死ぬなど、理由の如何にかかわらず切腹ものである。成忠とて馬鹿ではなく、鶴松丸の言葉に込められた意味は十分理解していた。
「申し訳ありません!」
顔を青くして謝る成忠。鶴松丸が死ななくても、これを具教に報告されれば切腹させられる恐れがある。彼にできるのは、ひたすら謝って許しを請うことだけだ。そんな成忠の姿を見て、鶴松丸は笑う。
「はははっ! いや、済まぬ。少しばかり戯れが過ぎたな。構わん。次からは気をつけるとよい」
あっさりと許す鶴松丸。成忠は安堵した。そんな彼を慮ってか、鶴松丸は一本とったぞ、と冗談めかして言う。ただ、このままでは甘い人間として認識されるかもしれないため、引き締めておくことにした。
「ただし、二度は許さんぞ」
「は、はっ!」
成忠は頭を垂れる。それを、鶴松丸は満足そうに見ていた。
(厳しさと優しさで人間をコントロールする。それが上手い統治だ)
などと考えながら。
一方、成忠は内心で畏怖していた。
(このお方は本当に三歳か? であるならば麒麟児だぞ!)
三歳にして明の書物を理解するだけの知力を持ち、人を操る術も身につけている。将来がとても楽しみだ。
(北畠家は、これから大きく飛躍するのかもしれん……)
そんな成忠の脳裏には、伊勢を統一して天下に号令する鶴松丸の姿が浮かんでいた……。