六角問題
短いです
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伊勢に帰った具房は霧山御所に向かい、父・具教と面会した。六角との交渉を詰めるためである。
「そうか……」
立政寺で義昭と会談した結果(六角家との交渉期限が一ヶ月であること)を伝えると、具教は瞑目した。どうすればいいのか悩んでいるようだ。
「父上。交渉はどうなっているのですか?」
具房は交渉の進捗を訊ねる。妥結する見込みはあるのかと。すると、具教は難しい、と答えた。
「やはりこちらに対する不信感が高いようだ。三好や松永のことを明かすわけにもいかぬし……」
困ったものだ、とため息を吐く具教。
六角がこちらに味方しない理由は、彼らが一度、義昭を裏切っているからだ。その責任を問われることを恐れているのだろう。手っ取り早いのは、三好義継や松永久秀が許されて義昭に味方していることを明かすことだ。それなら、その懸念も払拭できる。だが、六角家は現在、三好三人衆に味方しており、情報が流れる恐れがあった。
そういうわけで、交渉をまとめるためには六角家の懸念を上回るメリットを提示するしかなかった。しかし、その手段は限られる。領地は無理。所領安堵が関の山だ。となると称号となるわけだが、
(管領代の地位くらいか……)
六角家は過去に管領代になった歴史があるため、少し魅力に欠けた。将軍家との婚姻もひとつの手段である。何人かいるわけだが、義昭が承服するとは思えない。
(でも、やるしかないか)
最初から諦めるのではなく、チャレンジしてみることにした。とはいえ、義昭とはなるべく顔を合わせたくない。そこで手紙で意見を訊くことにした。
「与一郎殿(細川藤孝)から話をしてもらおう」
藤孝を使って話をする。直接は面倒だからだ。彼とは私信のやりとりがある。そこにさらっと交ぜた。
数日後、返事が届く。そこには義昭の答えも書かれていた。
「あ、ダメみたいですね……」
キッパリと断られた。義昭としては、所領安堵だけでもありがたいと思え、ということらしい。具房は、それはそうだけど、上洛が一番大事だということを忘れていませんか? と訊きたかった。六角を敵に回していいことなどひとつもないはずなのに。
「弥八郎(本多正信)。どうする?」
「そうですな……ここは本人たちに訊くしかないのでは?」
正信は、六角家の望みを聞くというやり方を提案した。具房たちが思いついたこと以外に何かあるかもしれない。たしかに、と具房はその意見を採用した(なお、信虎に訊かないのは『攻め滅ぼせ』とかなんとか、過激なことしか言わないから)。
「では、任せたぞ」
「わ、わたしですか!?」
言い出しっぺの法則により、使者は正信になった。ちょっと理不尽なのでは? と思わなくもなかったが、主君の命令なので大人しく従う。かくして観音寺城に赴いた正信だったが、六角家の対応はお世辞にもいいとはいえなかった。
「何用か?」
六角家で応対したのは、隠居したものの実質的な当主である六角承禎(義賢)。とても高圧的だ。正信は腹立たしいと思いつつ、要求を口にした。
「足利左馬頭様の上洛にご協力いただきたく」
「断ると言っているはずだ」
「そこを何とか。天下静謐のためでございます」
「ふん。何を言うか。既に将軍宣下は出ておる。天下静謐を妨げているのは、むしろそちらの方だろう。早く奸賊を討ち、公方様(足利義栄)に恭順を誓うがいい」
と、承禎は取りつく島もない。正信はなおも翻意を促したが、六角側の意見が変わることはなかった。このような状況で、条件など引き出せるはずもない。正信は成果を挙げることなく帰ってきた。
「申し訳ございません」
正信は謝罪。しかし、具房は仕方がない、と責めなかった。無事に帰ってきただけ儲けものである。それを見ていた信虎は、
「やはり攻め滅ぼせばいいのだ」
と言う。これまで交渉にあたっていた具教も、もういいのでは? と諦念を滲ませていた。その一方で、具房の母親である北の方は未だに六角家を残そうと必死であった。
「太郎。親を思う気持ちがあるならば、母の願いを聞いておくれ」
と、面会に来ては訴えている。だが、交渉期限まで猶予はない。加えて北の方は親子の情に訴えているが、具房からすればその記憶はほとんどないのだ。彼も鬼ではないのでできるだけ要望に沿うつもりだが、限界はある。優先すべきは義昭の上洛なのだから。
「母上。次で最後です。できれば副状を」
北の方に対して最後通告をした。これを使者に託し、六角家に送付する。回答期限は月末と書かれていた。しかし六角家側からの回答はなく、具房も腹を決める。
「太郎。どうか。どうか今一度……」
一緒に回答を待っていた北の方が縋って懇願する。しかし、義昭との約束がある。再三の要求にもかかわらず六角家が翻意しなかった以上、情けは無用だ。
「母上。残念ですが足利左馬頭様のご上意です」
いたたまれない。せめてもの措置として、義昭に六角家の助命を願い出た。当然、義昭は渋る。これに信長も援護射撃をしてくれた。
「北畠軍は強力です。上洛のよき助けになってくれるでしょう。どうか」
と、説得する。また藤孝も、
「複数の経路から攻め入ることは、敵を分散させるためにも上策です。伊勢宰相の顔を立てる意味でも」
と言い添えてくれた。
「……いいだろう」
義昭も信長という最大の支援者、藤孝という重臣に言い含められ、六角家の助命を認めた。
かくして六角問題は微妙に後味が悪いながらも一定の解決を見た。これで具房は上洛の準備に注力する。信長からは、観音寺城の攻略が想定されるため、大砲をレンタルしたいとの要請があった。これに具房は砲兵一個大隊を派遣している。部隊長は弟の長野具藤だ。
具房は津に兵を集結させた。三旗衆と伊勢兵団、合わせておよそ一万が集まる。なお、途中で伊賀兵団も参加する予定だ。津には兵の家族が見送りにきていた。具房も同じように見送りを受ける。
「では、行ってくる」
具房は甲冑を身につけ、城を出るときに家族に別れを告げた。
「いってらっしゃい」
「お気をつけて」
お市と葵を筆頭に、妻子が見送ってくれる。
「ちちうえ、がんばってください!」
「ああ。宝もいい子にしているんだぞ」
帰ったらたくさん遊んでやるからな、と励ます。宝はうん! と元気よく返事した。その横で頬を膨らませているのが雪だ。
「お兄様?」
「ゆ、雪も元気でな」
「はい! 勉強も頑張ります」
「ああ……」
言うべきことを先に言われてしまった。雪はニコニコしている。しかし、目が笑っていない。何か足りないらしかった。
(いや、まさかな……?)
具房にひとつ心当たりがあった。しかし、雪がそれを求めているとは……考えたくない。だが、彼女を納得させるためにはやるしかなさそうだ。具房は意を決して雪を抱き締めた。
「行ってくる」
「はい」
雪はとても満足していた。実はこれ、具房がお市と葵にやっていたことだ。鎧を着ると痛いのでその前にやったのだが、雪はその光景を見ていたらしい。
(家の防犯体制、大丈夫だろうか?)
いくら家族とはいえ、当主の行動が筒抜けになっていいものか。ちょっと心配になる具房。今度、半蔵に相談しようと思った。
さて、雪にそんなことをしたものだから、黙っていない子がいる。雪に張り合っている宝だ。
「ちちうえ、たからも!」
「ははは……」
仕方ないな、と具房は宝を軽く抱き締める。鎧が当たらないように細心の注意を払った。家族全員が満足したところで、具房は馬に跨る。
「出立!」
猪三の号令で、整列していた兵士が綺麗な隊列を組んで津城下を行進する。彼らには沿道の住人から惜しみない歓声が送られた。