臼杵砲戦
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豊後に向かう過程で、立ちはだかる敵はすべて撃破した。残るは府内の大友本家のみである。具房から豊後での全権を委任されている権兵衛は、無用な争いは避けようと臼杵城で籠城の構えを見せる大友家に降伏勧告した。
「断られた?」
「は、はい」
使者は困惑した様子だ。形勢は明らか。抵抗する意味がないのに、と。もっとも、その辺りの理由を籠城する大友軍に訊ねたとして、まともな答えは返ってこないだろう。無理にでも理由づけするのなら、意地しかなかった。
「仕方がない」
やれやれ、とため息を吐きながら権兵衛は城を包囲する。房高率いる部隊も合流し、包囲の輪に加わった。
「絶対に降伏はならん!」
臼杵城内で義統はこう言って譲らなかった。内弁慶な彼は、こういうときだけ勇ましい。房虎や紹運に裏切られ、各地で敗北が続いている。名門・大友家に生まれたプライドをズタズタにされ、正気を失っていた。
北畠家には因縁もある。父・宗麟が死んで家中を改めて掌握するなかで、キリスト教の排斥を試みた。義統は決してキリスト教嫌いというわけではないが、島津戦後に台頭した志賀親次の力を削ぐ上でキリスト教勢力の排斥は有効な手だった。
しかし、この政策は中央の北畠家の方針と真っ向から対立。結果として撤廃に追い込まれている。体制に逆らった義統が悪いのだが、そんなことは知らんとばかりに逆恨みしていた。
「ここは海上の要塞。国崩しもある。北畠軍には負けん!」
島津軍をも退けた要塞である臼杵城。その防御力を信じて疑わない。多くの武将がそう思い、そして敗れていったわけだが、この手の輩が絶えないのはなぜなのか。権兵衛はそんなことを思いながら、城攻めにとりかかった。
北畠軍の戦法は変わらない。砲撃で耕した後、歩兵により占領するというものだ。ただし、今回は頼もしい助っ人を呼んでいた。北畠海軍である。関門海峡の警戒は主に毛利水軍が担っているため、戦列艦は暇していた。そんなときに臼杵城攻めとなり、あそこは海城だから使えるじゃん、と派遣されてきた次第である。
「小早川殿。ここは我らにお任せ願いたい」
「ご心配なくとも、殿には貴殿の奮戦ぶりはお伝えいたす」
「承知しました」
隆景はとりあえず、この戦で小早川家が頑張ったという評価が得られそうなことに安堵し、提案を受け入れた。決着は自分たちの手で、という気持ちもわかるし、色々と助けてもらった身だ。最後は彼らに決めてほしかった。
ということで、小早川軍は後方任務にあたることになり、隆景の本隊を残して各地に散る。彼らと交代で、占領地に留まっていた北畠軍が結集した。
戦いは双方による砲撃戦で始まる。火蓋を切ったのは大友側だった。
「撃てーッ!」
ズラリと並んだ国崩しことフランキ砲。大友家が軍の近代化を推し進めるなかで、必死になって揃えたものだ。それらが火を噴く。轟音とともに巨弾が撃ち出され、しばし飛翔した後に地面に着弾。大きな土煙を上げた。
「おうおう。敵さん撃ってきたぞ」
対する北畠軍は余裕である。着弾地点が砲兵陣地から離れていたからだ。飛んでくる砲弾も極論、ただの鉄塊なので直撃しない限りはあまり問題がない。だからこその余裕だ。
「隊長。敵のフランキ砲は次発の発射まで短いのです。確実に排除しなければ」
余裕代表の隊長に副官が注意する。北畠軍は独自に開発した兵器を装備しているが、だからといってこの時代の兵器を軽視しているわけではない。むしろ、諸大名が手に入れることのできる南蛮兵器は北畠家も輸入し、性能評価をしていた。フランキ砲もそのうちのひとつだ。
それによると、フランキ砲は北畠軍の大砲に比べて射程は劣るし、飛距離の安定性にも欠ける。一方で、装弾は早い。これは砲が後装式で、なおかつ弾倉をとりつけて弾を装填するためだ。これによって砲内部が密閉されず、圧力が逃げて飛距離がまちまちになる理由なのだが、ともかくこういう機構を備えているがゆえに次弾装填までの時間が短いのである。この情報は大友攻めにあたって、改めて共有されていた。
「あー、わかってるわかってる」
副官の注意に、隊長はヒラヒラと手を振って応える。面倒くさい、という感情がよく伝わった。だが、副官の言葉を肯定するかのように、敵は早くも第二射を撃ってきた。着弾が修正され、ちょっと自陣に近づく。
ほら。言わんこっちゃない。
そんな言葉が聞こえてきそうな副官の視線。
まだ遠いじゃん。
と言いたげな隊長。しかし、後が怖いので大人しく従った。
「砲撃始め。こちらは装弾が遅いからよーく狙って撃て」
「……」
この期に及んでまだふざけるか、と副官の鋭い視線。隊長はそっと目を逸らした。ともあれ、命令に従って砲列が射撃を始める。北畠軍は火力が売りだが、中四国の兵団が勢揃いしているこの戦場では圧巻といえた。
隊長は装弾が遅いと言ったが、なら数を揃えればいいじゃないーーそういわんばかりに砲弾が鶴瓶撃ちされる。応酬すること数発、ついに北畠軍が放った一弾が国崩しの砲列近くに着弾した。
「くそ! 一門やられた」
「こっちもだ!」
「当たっていないのになぜ!?」
北畠軍のそれは原始的とはいえ榴弾であり、直撃せずとも被害を与える。弾片によって砲を操作していた人間が薙ぎ払われるばかりか、破片が砲そのものに突き刺さり損傷を与えた。
砲身に対して致命的な損傷は与えられなかったが、砲座は別である。四方八方に飛び散った破片は木製の砲座に当たった。大きな重量を支えるだけあって砲座は頑丈に作られていたが、脆い部分もあった。細い柱などはそれであり、高速で飛来する弾片はこれを寸断。砲座を破壊している。
「復帰させよ!」
そんな命令が飛ぶが、砲撃を重ねて徐々に狙いがシャープになっているなかでそれは難しい。北畠軍では内部で情報が共有され、至近弾を放った諸元に沿って斉射を始めた。これにより次々と至近弾が飛んでくるようになった。弾雨の中での作業はあまりに無謀である。作業を試みた兵士はたちまち、砲撃によって物言わぬ骸と化した。
この時点で旗色は大変よろしくないのだが、ダメ押しとばかりに北畠軍の増援が現れる。そう、暇だからと呼ばれた戦列艦だ。
「両舷砲戦準備。まずは左舷からだ」
戦列艦は奇策で倍の発射速度を実現する。それが両舷砲戦。片舷で斉射した後、回頭して反対から撃つ。こうすることによって二倍の投射量を実現した。
さらに、戦列艦が撃つのは焼夷弾である。榴弾よりもより被害が深刻であり、フランキ砲は木製の弾倉を使用することから引火、装薬が誘爆することも期待できた。実際、戦列艦の砲撃が始まると大友側の被害が急増する。
「誘爆確認。あっ、もうひとつ!」
「確実に成果を上げています」
「敵が完全に沈黙するまで砲撃を緩めるな」
その言葉通り、北畠軍の砲撃は大友側の国崩しが最後の一門になっても続けられた。元々、国崩しはその構造上、お世辞にも信頼性が高いとはいえず、長期戦は戦えない。砲撃戦のなかで暴発して自滅した砲も少なくなかった。
一方、北畠軍はというとほとんど被害を出していない。こちらも暴発や不幸にも被弾したものを出しているが、それでもほんの数門である。敵の全滅と比べれば、問題にもならなかった。
「敵陣にて誘爆あり。発砲炎の位置からして、最後の砲が誘爆したものと思われます」
「監視を継続せよ」
慎重に敵の反応を待ったが、一向に撃ってくる気配がない。
「敵砲台群の沈黙を確認」
観測員はそう結論した。
「海軍さんにも伝えてやれ。ここからは防御施設に対する攻撃に移る。弾種、徹甲弾」
フランキ砲の沈黙により、砲兵隊の目標は城郭へと移った。板塀も石垣も、一切を容赦なく瓦礫へと変えていく。もはや勝ちパターンに入っていた。
砲兵隊がスクラップを量産するなか、その後ろからわらわらと歩兵部隊が展開を始める。通常なら歩兵の後ろに砲兵がいるのだが、今回は逆になっていた。理由は砲撃戦があるから。塹壕に入れば問題ないが、今回はそれをしていない。無用な被害を出さないためにも、砲兵陣地の警戒部隊を残して後方に待機させていた。前進したのは、脅威が片づいたからである。
「一気に攻め落とせ!」
権兵衛が指示を出し、歩兵部隊が臼杵城へ侵入を開始した。砲兵と擲弾兵が対岸へ向けて支援砲撃を行い、邪魔者の炙り出しと排除を進める。大友軍は果敢にも瓦礫の裏に身を潜めて渡ってくる北畠軍を待ち受けたが、その勇気は無駄に終わった。
砲撃によって、弾片や瓦礫が飛散し兵士を殺傷する。それを避けようと物陰から身を出せば、対岸から狙っていた竜舌号(狙撃兵)の餌食となった。不利を悟った大友軍の指揮官は撤退を命じるが、後退する中でかなりの部隊長が狙撃の餌食となっている。おかげで大友軍の指揮統制は早々に崩壊しかけていた。いかに有能な将軍がいようとも、兵士を纏める末端の指揮官なしでは軍隊は立ち行かないのである。
相手の混乱を他所に、どんどん進撃する北畠軍。敵を城内へ誘い込めば厄介な砲撃も飛んでこないはずーーそんな目論みを抱いていたが、北畠軍には擲弾筒がある。たしかに城内に入れば誤射の可能性があるから大砲は使えない。しかし、擲弾筒は射程が短く歩兵が見える範囲で撃てるので、誤射の可能性は極めて低かった。結局、大友軍の目論見は外れて城外と何ら変わらないのであった。
破れかぶれになった大友軍は無為無策な突貫を開始する。接近すれば砲撃に巻き込まれることはない、と考えたのだ。それは正しいが、実現するのは難しい。なぜなら、北畠軍には大量の鉄砲があるからだ。突撃している間に射撃で数を削られる。それに北畠軍は接近戦に弱いというわけでもないので、被害を出している側が不利だった。
その日のうちに本丸を残して攻略されてしまう。北畠軍は夕刻が迫っていることから攻撃を中止。出入り口を視界に捉えられる場所で休息をとる。夜襲を警戒して交代しながら夜通し監視を行う。だが、意外にも大友軍は夜襲をしてこなかった。
翌朝。いざ攻撃開始! というところで城門が開き大友家は降伏を申し入れた。家臣が抵抗を主張する当主・義統以下の人間を押し込んだので、家中は降伏に傾いたのだという。一連の戦いで前線に出たのが主戦派の家臣で、彼らはことごとく戦死した。そのため主戦派と和戦派のパワーバランスが乱れ、押し込みが可能になった。
権兵衛たちは肩透かしを食らった気になったが、ともあれ、豊後の平定は完了した。義統ら大友一族は幽閉され、具房の判断を待つこととなる。北畠軍はこのまま豊後に留まり治安維持にあたるのだった。