伊勢の乱
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信長は頑強に抵抗していた鳴海城を今川義元の首級と引き換えに開城させている。城将・岡部元信はそれを持って駿河へと帰国した。しばらくは今川方についている松平家と三河をめぐって争っていたが、永禄五年(1562年)に入ると有名な清洲同盟を結んだ。
この動きに乗じて、具房は松平家と友好関係にあることを確認している。同盟を結ばないのは、室町幕府から睨まれるためだ。彼らは松平、今川の和睦を斡旋していた。同盟締結は対立の助長、ひいては幕府への反抗と見做されかねない。ゆえに、明確に味方はしなかった。
代わりといってはなんだが、松平家には信長にも贈った真珠や絹織物を贈った。そのとき、使者には木綿栽培を奨励するように、と上手く伝えるように言っている。今川家と対峙すれば戦争状態が続く。今の時代、軍事力とは経済力であり、三河の主力商品は木綿だ。それを尾張や伊勢に売れば、金が得られる。そんな遠回しのメッセージだ。
清洲同盟で東側を固めた信長は、いよいよ美濃攻略にとりかかる。信長自身が国境に近い小牧山城まで進出して兵力を集めた。長島方面にいる弟・信興の下にも兵を集め、大垣を窺う。
近隣諸国の目立った動きはこれくらいだ。一方、国内はというと特に何も起こっていない。変化といえば、具房に子どもが産まれたことであろう。生母は葵。避妊なしの子作りを解禁した途端に出来た子どもだ。元気な女の子で、名前は宝とした。最初に産まれた、宝のような子どもだからだ。
これに触発されたか、お市が積極的になった。側室が産んで正室が産まない、というのは色々と問題があるからだ。これが女の子だからよかった。男の子なら血を見るような騒ぎになっていたかもしれない。信長からもお祝いとともに、『後継ぎはお市の子どもを』というような主旨の手紙が送られてきた。具房はわかってますよ、と返事をしている。織田家との協調関係を維持するためにもそれは致し方ないことだ。なお、まだ子どもができる予定はない。葵にやった避妊を行なっているからだ。あと一年は解禁しないだろう。
「あうあう」
「宝は元気だなぁ」
具房は政務の傍ら、娘を溺愛していた。暇さえあれば彼女の許に通っている。お市も子どもができたときのため、と同じように足繁く通っていた。宝を中心に、家族の和が形作られている。
そんなある日のこと。いつにもなく焦った使者が津城へと飛び込んできた。ときに永禄六年(1563年)九月。具房の祖父であり、北畠家発展の基礎を築いた名君、北畠晴具が没した。そのことを知らせる使者であった。
葬儀は粛々と行われたが、それが終わると同時に事態は慌ただしく動き始める。まず、事前に予告されていたように北畠家の家督が具房に譲られた。晴具の葬儀で家臣が軒並み揃っている状況での布告である。同時に、具房は津城へと北畠家の拠点を移すとした。
津城の開発は既にある程度終わっていた。武家屋敷はもちろん、町屋も出来上がっている。既に商人たちが営業を始めており、旅人もよく立ち寄るようになっていた。準備は万端である。家臣たちは順次、そちらへ引っ越すこととなった。
かくして家臣たちがごたごたしているなかで、さらに忙しくする出来事が起こる。信長が美濃に出兵するので、援軍を派遣してほしいというのだ。家臣たちは忙しいため、必然、具房の私兵である三旗衆から戦力を出すことになった。中核は例によって雪部隊である。他の部隊からも兵を出し、総勢三千での出兵となった。大将は具房。
「留守を頼む」
「はっ」
「お任せください」
鳥屋尾満栄に伊勢を、鳥羽成忠に志摩を任せた。成忠には保護していた九鬼澄隆を紹介している。九鬼家を保護していたことに驚いていたが、何も言わなかった。
かくして具房率いる北畠軍は北上を開始した。これを見て動いた勢力があった。それが木造具政を中心とする反具房連合である。長野家を除くほぼすべての分家が離反し、南伊勢はたちまち敵対勢力と化した。これに驚いた満栄は急を知らせる使者を具房の許に送るのだった。
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「はははははっ!」
木造具政は馬上で上機嫌に笑う。具房の不意を完全に突いた形での挙兵だ。慌てて戻ってくるころには津城や霧山御所は陥落している計算だった。
彼は霧山御所こそ北畠家の象徴だと考えており、本拠をそれ以外に移すなど受け入れられないことだ。元より具房を嫌っていたこともあり、蜂起を決断させた。木造軍を率いて霧山御所を攻撃する。奇襲に慌てふためく姿が目に浮かぶようだった。
津城へは分家(そのなかでも勢力の強い北畠四管領の一家)の田丸具忠が向かっている。具政は霧山御所を押さえた者が伊勢国司ーーすなわち北畠家の当主だと考えていた。だからこそ自身が霧山御所へと向かったのである。
霧山御所に向かう道中、早馬がやってきた。
「ご注進! 織田勢が長島にむけて進軍を始めました」
「そうか。下賤の輩(信長)も使えるではないか」
具政は裏で信長とつながっていた。家臣の柘植保重と僧・源浄院が仲介し、両者をつなげたのである。信長は具房に嫁いでいるお市の無事を条件に、具政が北畠の家督を継ぎ、伊勢国司として南伊勢を領有することを認めた。さらに具政を支援するために、古木江城にいる信興軍が南下する。織田軍の動きは打ち合わせ通りだ。
自らが北畠家の当主となった姿を想像し、具政は上機嫌だ。その未来はすぐそこーーのはずだった。しかし、彼の夢想はすぐに躓くこととなる。最初の誤算は、予想に反して霧山御所の守りが堅かったことだ。
「北畠家の恥さらしめ! 余が成敗してくれる!」
霧山御所にいた具教が自ら出陣し、木造軍を圧倒していた。その報告は、すぐに具政の下へもたらされる。彼は焦った。
(なぜだ!? なぜここにこれだけの兵がいるのだ!?)
混乱する具政。その答えは、具教の人脈にあった。彼は塚原卜伝に師事して剣を学んだ。その過程で知り合った剣豪たちが具房を指導した。そのうちのひとり、大和国人である柳生宗厳が、郎党を率いて傭兵として参戦していたのである。
だが、柳生一党では兵力が足りないため、具教は別のルートを頼った。それが宝蔵院胤栄たち、興福寺の僧兵である。
「宝蔵院流槍術を広めるまたとない機会だ! 皆の者、柳生に負けるでないぞ!」
「「「オオーッ!」」」
胤栄は先頭に立ち、十文字鎌槍を自在に振り回す。弟子たちも師匠に負けるな、いいところを見せるぞ、と奮起した。
「槍に負けるな! 剣こそが最高だと教えてやれ!」
「「「応ッ!」」」
獅子奮迅の働きを見せる胤栄たちに刺激され、宗厳たち柳生勢も奮起する。
具教の下に集った軍勢は数こそ少ないが、ひとりひとりが戦闘のエキスパートであり、霧山御所が要害に築かれていたことも相まって、木造軍の攻撃を押し返していた。具政はこれを攻めあぐね、時間を浪費することになる。
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「木造羽林様が謀反! 直ちにお戻りください!」
満栄が出した使者が具房たちに追いつき、緊急事態を告げる。これを聞いた軍は動揺した。
「落ち着け」
具房はまず、猪三たち側近を黙らせる。彼にはまったく動揺した様子はない。ただ、淡々と命令を出す。
「猪三。兵たちを落ち着かせろ。その後、すぐに反転、津城へ戻ると伝えろ」
「わかった!」
命令を受けた猪三はすぐに飛び出して言われた通りの命令を出す。彼の統率力によって、少しずつ兵士たちの混乱は収まる。具房はそれを見て軍を引き返させた。強行軍のなか、早馬がやってくる。
「殿! 織田軍が古木江城を出て南下しております!」
「「「なんだと!?」」」
周囲に激震が走る。この状況で考えられるのはただひとつ。織田家が裏切ったということだ。すぐに周囲の者たちは引き返すように説得する。しかし、具房は意見を変えず、津城への道を駆けた。命令が下らない以上、勝手な行動はできない。渋々、具房に従った。何ともいえない微妙な空気が漂うなか、具房は誰にも聞こえないように呟く。
不良在庫の一掃セールだ、と。
その意味が明らかになるのはもう少し先のことだ。
具房は豊臣秀吉の大返し策を参考にした強行軍で、数日かけて進んだ距離を一日で踏破した。津城に入り、兵に休息を与える。具房はその間も休むことはできない。新たな武具の手配、作戦を練るなど仕事は山積みだ。
だが、満栄たち家臣はそんな具房を驚きを以て迎えた。あまりにも早すぎるのだ。さらにおかしいのは、欲しいものがすぐに出てくることだ。置き去りにした武具や食料は、たちまち三千人分が揃った。どう考えても準備していたとしか思えない。満栄は恐る恐る訊ねる。
「殿は、これ(反乱)を予測していたので?」
「もちろん」
何でもないように具房は答えた。具政が自分を快く思っていないことは知っていたし、史実でも信長の伊勢侵攻に呼応して反乱した前科がある。警戒して当然だった。だが、そんな事情など知らない満栄たちは、具房がすべてを見通す超能力でも持っているのかと思ってしまう。
「すべてをご存知なのですね」
そんな言葉に、具房は首を振る。
「そんなことはない。知っていることを知っているだけさ」
具房は彼が知っている史実から何が起こるのか知っている(予測している)に過ぎない。ゆえに、何でもお見通しではないことを自覚しており、満栄たちに対しても謙虚だった。
「だから、俺をしっかり補佐してくれ」
と。満栄たちはその威風堂々とした具房の姿に、自然と頭を下げていた。こうして具房は図らずも家臣の心を掴むことに成功する。
そんなことなど知らない(そんな意図はなかった)具房は、秘書兼側室である葵とともに出征準備に余念がない。二日後には一日休んだ軍とともに南下を開始した。休息は決して充分とはいえないにもかかわらず出陣したのは、開発した津城に被害を与えたくないという考えからだ。
今回は満栄たち家臣団も参戦している。津城の守りを心配する彼らに対して具房は、
「お市に任せておけば問題ない」
と言い放った。お市と葵がいれば、大体のことはなんとかしてしまうだろう。彼女たちは優秀だ。お市は織田家の人間であり、裏切っていたならば危険だと訴える満栄たちだったが、これだけは覆らなかった。
具房は津から少し離れたところで陣地構築に勤しむ。簡単な野戦築城だ。これは兵たちも慣れたもので、スコップやツルハシを使ってサクサク塹壕を掘る。その間、古木江城の織田軍が行動を起こしている、などの不穏な情報が入るが、具房はやはり取り合わない。満栄たちは少なくない不信感を募らせていた。
そんななか、具房軍は田丸軍と会敵した。ここに、津合戦と呼ばれる戦いが生起する。
敵を見て、大将の田丸具忠は嗤った。
「何だあれは。敵は穴に籠もっているだけではないか」
「まるで土竜ですな」
そんな主従のやりとりに、周りにいた兵士は大笑いする。後に生き残った兵士は語った。あんなことになると知っていれば、笑わずに逃げたのにな、と。
一方的だった。起こったことを順に並べれば、とても簡単である。具房軍はまず、千丁に上る鉄砲による一斉射撃を行った。喊声を上げて突撃してくる敵はいい的で、バタバタと倒れる。また、命中せずとも轟音によって兵士たちを混乱に陥れた。
「雷鳴だ!」
「天罰だ!」
迷信深い時代だ。火薬の爆発音は摩訶不思議な現象=天罰と捉えるのも仕方がないといえる。かくして隊列が崩れた。そこに、猪三率いる騎兵隊と卜伝率いる抜刀隊が斬り込んだ。
「死にたい奴から前に出ろ!」
猪三が嵐のように激しく暴れ回る横で、
「儂も若い者にはまだまだ負けんよ」
卜伝が林のように静かに暴れていた。
猪三が槍を振れば、四、五人がまとめて吹き飛ぶ。槍一本で五キロほどあり、それが現代のボディービルダーのような猪三のパワーで振り回されるのだ。凄まじい迫力がある。敵兵はすっかり萎縮し、腰が引けてしまった。
卜伝は静かに動き、斬る。あるいは突く。猪三のパワーに対し、彼はテクニックを見せつけていた。刀は下手な角度で斬ろうとすると、刀身が折れてしまう。動く人間に対して正確な角度で斬撃を見舞うのは至難の業だが、達人である卜伝は当たり前のようにやってのけた。目の前で人体が真っ二つに斬られる光景は恐怖だ。心理的ダメージはこちらの方が大きいといえる。
江戸時代、仇討ちで刀を向けあった庶民が日が暮れるまで緊張のあまり動けなかったという話も伝わっており、近接戦闘は訓練を受けなければできないことがわかるだろう。
田丸軍は呆気なく潰走した。具房は追撃を行い、再編成する時間を与えない。やがて田丸具忠は討ち取られ、軍は核を失って離散した。
「次は霧山御所の救援だ!」
掃討戦を終わらせた具房が命令するが、それに満栄が待ったをかけた。
「お待ちください。強行軍と連戦で兵は疲れております。今は軍を休めるべきです」
「南下している織田軍も心配です」
次々と反対を表明する家臣たち。だが、やはり具房は聞く耳を持たない。これにはさすがの満栄も強硬手段を考えた。具房はその不穏な気配を察知し、先手を打つ。
「一度、津城へと戻る。猪三、軍は任せる」
「おう!」
「他の者はついてこい」
それだけ言うと、具房は馬に鞭を入れた。駆け出す馬。家臣たちは面食らった。
「と、殿!?」
慌てて具房を追いかける。具房が家臣たちを導いたのは、小高い丘であった。そこからは津の城下町につながる港が見渡せる。やがて満栄以下の家臣たちがわらわらと到着した。
「殿。急に何を?」
「見よ」
具房は満栄の疑問には答えず、水平線を指さす。何かあるのか? と見て彼らは気づいた。何隻もの船が津へ向かっていることに。すわ敵か!? と身構える。しかし、掲げられている旗印ーー笹竜胆を見て、それが味方だということに気づく。
「増援ですか」
「そうだ。権兵衛と義兄殿(信長)からのな」
「「「え?」」」
その発言に、満栄たちはまさか、という顔をする。彼らは一斉に船に掲げられている旗印を見た。そして気づく。北畠家の家紋である笹竜胆の他に、織田家の家紋である織田木瓜が掲げられていることに。
「お、織田家は裏切っていたのでは?」
家臣のひとりが震え声で訊ねる。この他、夢ではないかと頬をつねる者もいた。まあ、何をどうしようと現実は変わらない。具房は笑う。
「そんなわけなかろう。すべては義兄殿との策よ」
具房の作戦はこうだ。改革を実施するにあたって、国内の不穏分子をなるべく排除しておきたい。そこで信長と不穏分子筆頭の木造具政を(見かけ上)結託させ、反乱をわざと起こさせた。この計画は具教と鳥羽成忠にのみ明かしていた。だからこそ具教は事前に柳生宗厳や宝蔵院胤栄に声をかけて防戦の準備ができたのである。
また、長島から迅速かつ秘密裏に兵力を動かすため、鳥羽水軍を持つ鳥羽成忠へも計画を明かしていた。彼は幼少期から接しており、家中では鳥屋尾満栄以上に具房のシンパと見なされている。もし具政が当主となれば、冷遇されるのは目に見えていた。だからこそ彼は確実に味方になる、と具房は考えたのだ。
すべては具房の掌の上だった。誰もがまんまと踊らされたのである。そしてこの計画に加担することが、市江島を信長に譲るという大盤振る舞いの本当の狙いだった。
「さあ、不届き者を成敗するぞ」
具房の言葉に否を唱える者は、もはやこの場にはいなかった。