小田原打通作戦
【お詫び】
水曜の投稿がなく、大変申し訳ありませんでした! 一週間ズレて投稿していまして、投稿が正常に行えていませんでした。現在は修正されています。今後はこのようなことがないよう気をつけます。
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徳川家康に率いられた東海方面軍は一路、小田原を目指していた。そんな彼らの行く手を箱根周辺に築かれた城砦群が阻む。
北畠軍の侵攻を察知した北条氏は領内ほぼすべての将兵を動員し、小田原一帯に集結するよう命じていた。北条氏お得意の籠城策である。氏邦など、それが気に入らない者や特別の事情がある者を除く家臣が主力を率いて小田原へと参集していた。
小田原へ参集していない特別な事情がある者、というのは箱根周辺の城砦群や伊豆に所領がある者たちのことだ。彼らは目前に迫る東海方面軍に対して備えるべく、拠点で守りを固めるよう別命が出ていた。
北条軍の最前線は箱根からやや駿河寄りの場所に築かれた山中城だ。周辺一帯を用いた一大城砦として計画されたが、その壮大さが仇となって未だ完成を見ていない。それでも規模は大きく、また立地の重要性から主将の松田康長に加えて北条氏勝ら一門衆、間宮氏など家中でも指折りの勇者が派遣されている。兵士も精鋭揃いで、都合五千ほどが詰めていた。城砦群に属する足柄城にも北条一門である氏忠、氏光が守備についている。
また、韮山城には北条氏規以下、四千名の兵士が籠もっており、小田原への道を塞いでいた。さらに海路からの侵攻も警戒して、水軍の拠点である下田城にも清水康英ら千名が守備するとともに、生き残った水軍戦力を集結させている。
家康は斥候を派遣して情報収集に努め、これらの情報を得ていた。具房も諜報網にかかった情報を精査した上で家康に提供しているため、かなり確度は高かった。
「さて、いよいよ敵領だがどう攻める?」
「韮山はともかく、箱根周辺は絶対に確保しなければならないでしょう」
「下田も放置できんぞ」
家臣たちから出た優先度は山中城(箱根周辺の城砦群)、下田城、韮山城だった。友軍である織田信孝も同意見とのこと。これらの城を腰を据えて落としていくことに決まった。
とはいえ、問題もある。東海方面軍は徳川軍と織田軍で構成されているが、攻略すべき城は三つあるのだ。優先度に従って中山、下田に戦力を集めれば韮山がフリーになる。数千の遊軍は脅威だった。
「ここは相国(具房)のお知恵を借りよう」
家康は使者を派遣し、直面している問題について相談する。これに対する具房の回答は至ってシンプルだった。
「うちから志摩兵団を派遣しよう」
足りないなら、軍を増やせばいいじゃない。そんな言葉とともに、志摩兵団と艦隊が東海方面に派遣された。これらで下田城を攻略するとともに、残存する北条水軍を殲滅。小田原へ海上からも圧力をかけることを企図していた。
「我らも水軍を出そう」
徳川、織田両家からも水軍が派遣され、全軍は江尻で集結。その後、下田へと出港した。戦列艦八隻、フリゲート十六隻を含んだ数百隻に及ぶ大艦隊である。
同時に陸でも動く。徳川軍は山中城、織田軍は韮山城の攻略にそれぞれ取り掛かった。
「三郎(信康)。そなたが城攻めを差配せよ」
「承知しました」
家康は城攻めの全権を嫡男の信康に一任した。信康は三河衆を山中城の出丸と大手に展開。遠江衆はその他に配した。攻撃当日、岡崎衆は北畠軍譲りの猛烈な砲撃を加える。
「突撃!」
一時間ほどの準備砲撃の後、突撃が命じられた。出丸、大手の防御施設は砲撃により損傷しており、守備側はかなりの劣勢に立たされる。それでもさすがというべきか、守る北条軍は一歩も退かなかった。
「兵数で負けても気合いで負けるな!」
出丸を守る間宮康俊はそう言って兵士たちを激励した。さらに、
「ここには十分な矢弾がある! 死ぬのはこれらを撃ち尽くしてからにしろ!」
と発破をかける。鉄砲足軽や弓兵はこれに応え、手当たり次第に乱射していた。
「お前たち! オヤジの言葉を聞いたな!? 絶対に敵を城にとりつかせるな!」
「「「応ッ!」」」
康俊の息子たちは雑兵を率いて矢弾の嵐を突破してきた敵兵を防いでいた。防御施設が壊れているため、穴はあちこちにある。そこから敵兵が侵入してくるのはしょっちゅうで、その度に兵力を集中させて弾き返していた。
「ぐわっ!」
兵士のなかには矢弾を撃ち尽くす前に負傷したり、戦死する者もいた。そんな彼らに代わって、近くにいた者が射撃を継続する。狙いも何もあったものではない。もはやこの出丸は意地という気力のみで保っていた。
戦うこと一時間余り。出丸の兵士たちは宣言通り、すべての矢弾を撃ち尽くした。だが、そんな奮戦は実を結ばない。既に出丸のあちこちから敵の侵入を許しており、気がつけば康俊の息子たちも討死していた。それでも康俊は、
「者どもよくやった!」
と兵士たちを称えた。そしてこれ以上、戦う必要はないとも。
「儂はこれから敵にこの白髪首級をくれてやる。だが、そなたたちが付き合う義理はない」
これに反発したのは兵士たち。
「ここまで戦って降伏など情けない!」
「冥土までお供いたします!」
口々に最後まで一緒だと言う。またある者は、康俊に墨を差し出した。
「これは?」
「我らが大将が白髪交じりでは格好がつきませぬので」
「ははっ。よかろう。死化粧というわけだ」
康俊は墨を髪に塗って黒くする。
「者ども、行くぞ!」
刀を抜いて攻め寄せる徳川軍に突撃した。力闘したが、衆寡敵せず。康俊以下は悉く討ち取られ、出丸の守備隊は全滅した。
「凄まじいな」
出丸を攻めた軍を率いた平岩親吉は死屍累々となった戦場を見て、そう呟く。また、守備隊の奮戦に敬意を表し、彼らを丁重に埋葬するのだった。
そのころ、信康率いる大手攻撃隊は大きな損害を出しつつ、山中城の大手を攻撃していた。
「攻め手を緩めるな!」
じわじわと押し込んでいく徳川軍。守る北条軍は大手に次々と援軍を送り込み、突破を防いでいた。しかし、ただでさえ兵力が少ないのに、一方に援軍を送るということは、他の方面が手薄になるということを意味している。それこそまさに、信康が狙っていたことだった。
「今じゃ!」
遠江衆を束ねる大久保忠世は搦手から総攻撃を命じる。これはもちろん、信康の作戦だ。精鋭として知られる三河衆を囮に使った。
「嵌められたわ!」
城将の松田康長は悔しがった。だが、そもそもは守備兵が城の規模に比して少なすぎただけなので、守り切るのが土台、無理な話なのだ。
康長は一門の北条氏勝らを逃がすと、手勢を連れて戦線の縮小を図った。本丸の守りを固めたが、建物に籠もる敵は砲兵の餌食である。砲撃で建物が破壊され、堪らず出てきたところを討たれた。かくして午前中のうちに山中城は陥落する。
「見事な手際だ」
戦の顛末を聞いた家康は満足そうに頷いた。自身の後継者が優秀であるので、安心して任せられる。
その家康が何をしていたのかといえば、遊んでいたわけではなく周辺の城を攻略していた。本多忠勝、井伊直政らを使って周辺の城に派遣する。
足柄城をはじめとした諸城は陥落するか、山中城の陥落を知って城兵が逃げ出していたところを占領された。かくして箱根周辺の城砦群は陥落し、小田原への道が開かれたのだった。
一方、織田信孝率いる織田軍は韮山城の攻略にかかっていた。
「城兵は四千か。我らは四万。左馬助殿(氏規)は人格者と聞く。まずは降伏を勧めよう」
圧倒的な兵力差があり、良識のある北条氏規なら降伏するはずーーそんな考えから、信孝は使者を派遣して降伏を勧めた。しかし、氏規はこれを拒絶している。
「申し出はありがたいが、武士たる者一戦もせず敵降るという恥は晒したくない」
使者からそんな回答を聞いた信孝は、
「ではお望み通り戦いましょうか」
と言って攻撃を命じた。父・信長の時代から導入が進められていた大砲も用いた本格的な攻撃を仕掛ける。これに対する氏規の対応は冷静だった。
「破壊されたところから敵が入ってくる。焦る必要はない。追い返せ」
城壁の穴から敵が来ることはわかっているので、そこから入ってきた敵を排除することに専念する。これが北畠軍であったなら出会った途端に銃弾や擲弾が飛んでくるが、相手は織田軍。そんな大層なものはない。北条軍の奮戦で攻撃は弾かれた。
その後も何度か攻撃を仕掛けるも、悉く撃退されてしまう。これで信孝は諦めてしまった。
「無駄に兵を失うことはない。このまま包囲しておこう」
損害が重なる割に郭ひとつ落とせないことに信孝は諦念を滲ませ、包囲するだけに止めた。これを聞いた具房は、
「攻める気がないなら最低限の兵を残して小田原へ向かえ」
と命じた。少しでも役に立て、というのである。
「承知しました」
信孝は兵を小田原へ向けた。同城の包囲は甲信の徳川軍が代わりに引き受けた。なお、城には家康の計らいで関東の戦況が伝えられる。同時に開城へ向けた交渉が行われた。
「関東の諸城は次々と落城し、今やこの韮山と小田原を残すのみとなっております。小田原は十万を越す軍勢に取り囲まれ、東北からの援軍によりその数はますます増える見込み。貴殿の抵抗は、残念ながら益なきものといえましょう」
氏規は包囲されつつも外部との接触が許されていた。情報も集まり、敵の主張が嘘ではないとわかる。こういう状況は以前にもあった。しかし、そのときと違うのは敵の兵站が強固であるということだ。情報では物資が十全に供給されており、かつてのような兵糧不足による撤退は見込めないという。
「……それでは致し方ないか」
これ以上の抵抗は無意味だと悟り、氏規は降伏した。