羽柴家の混乱
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天正十八年(1590年)。
日本は戦乱が起きることなく、人々は久しぶりの平和を謳歌していた。色々とキナ臭い動きはあるが、それでも平和は平和である。しかし、それがまさに崩れようとしていた。具房がそれを感じたのは、とある報告が入ったからだ。
「羽柴殿の弟(秀長)が?」
「はっ。先日、俄に病に倒れ身罷られたとのことです」
「それは残念だ」
秀長は秀吉をよく補佐した。羽柴家の屋台骨ともいえる存在であり、彼という存在が失われたことは非常に残念なことである。具房は弔問の使者を発した。帰ってくると、秀吉の様子を報告する。
「筑前様(秀吉)は兄より先に逝く弟がおるか、と申され、大層気を落としていらっしゃいました」
「無理もないだろう。だが、幸いにして戦はない。静養するよう言っておこう」
とは言ったものの、具房は秀長の死を怪しんでいた。
(本来、秀長が死ぬのは1591年のはず。一年早い。俺が改変したせいで寿命が狂っている人物はいるが、そうでない人間は概ね史実の寿命の通りに死んでいる)
たまたまという可能性はあるが、具房は直感的に怪しいと感じていた。そして疑念が確信に変わったのは、数ヶ月後に秀吉が病死との報告が入ったことだ。周囲は秀長の死によるショックが原因だと言っていたが、具房は違った。
(誰かが裏にいる!)
これは暗殺だと確信する。この件について下手人の捜査を指示したが、犯人は早々に馬脚を現す。
秀吉の死を受けて、秀景に代わって嗣養子とされていた秀次が家督を継承しようとするが、これに物理的に待ったをかける人間がいた。廃嫡された秀景である。彼は豪族たちの助力を得て、居城である博多城を奪取した。
秀次は羽柴家に長く仕える者たちに助けられ、命からがら城を脱出。博多の町へ逃げ込み、出港しようとしていた北畠家の船に乗って九州を逃れた。秀吉の正室である寧々もこれに同行している。
二人は京に着くと具房に面会し、援助を依頼した。
「このような有様で面目ありませんが、どうか羽柴の家をお助けください」
秀次は具房に深々と頭を下げる。続いて寧々も、
「羽柴の家は亡き先代(秀吉)とともに創り上げた家。どうか、後世に残してくださいませ」
と平伏した。
「お二人とも、頭を上げてください」
具房はまず、二人の姿勢を改めさせる。偉くなってもこういうのは苦手だった。二人が頭を上げたところで回答を聞かせる。
「お二人の要請を受けましょう」
「真ですか!?」
「はい。先代とは私も親しくしていました。みすみす賊に家督を継がせるようなことはさせたくありません。西国の諸大名にも動員をかけ、早期にお家を取り戻しましょう」
そう約束して出陣の準備を整える具房だったが、ここにきて立て続けに急報が入る。
「申し上げます! 九州にて大友、有馬などが賊に同心いたしました!」
九州征討やそれ以前の具房の姿勢に不満を持っていた大友氏や有馬氏が秀景に同調して反乱に加担した、という情報がもたらされた。さらに、
「中国の毛利家が挙兵しました! 石見、安芸へ向けて進軍中」
「関東の北条家が北関東の諸侯へ攻撃を開始しております!」
「陸奥の南部氏が挙兵。浪岡、秋田、伊達領に侵攻しつつあります!」
と、全国で様々な勢力が蜂起したという情報が伝わる。急いで立案された計画はまったくの白紙となった。
「これで全部か?」
相次ぐ蜂起に具房は疑心暗鬼に陥っていた。外様といえる、それほど親しくない相手の蜂起が続いている。そのような勢力はまだ存在しているため、これで終わりかと気が気でない。それを察した周辺が詳細な情報収集を行った。
その結果、小早川と龍造寺が怪しいということになる。隆景は輝元の叔父であり、毛利本家から人がひっきりなしに派遣されていた。龍造寺は最近、台頭してきた家臣の鍋島直茂が親北畠の立場をとるため、反発して羽柴側に寄っているとのことだ。このままいけば内乱は不可避だという。
「小早川に関しては島津に対応を任せよう。一応、こちら側についたり静観したりするかもしれない。私からも使者を出し、態度を訊ねよう」
こちらは最悪、動かないでいてくれればいい。隆景なのでそうはならないだろうが、万が一にも圧力をかけて暴走されては困る。味方にならないまでも、大人しくしていてほしいというのが具房の本音だった。
対して、龍造寺に関しては積極的に干渉する。もし羽柴側につくならば、戦後は厳しい処分を下す、という書状を送りつけた。従えばよし。従わなければ暴発してもらい、そこを鍋島直茂に突かせればいい。龍造寺への詰問状とともに、いざとなれば北畠家は直茂を支持するとの書状を送っている。そのときは柳河の立花統虎や肥後の細川忠興などに助力させる気だ。この地は羽柴と有馬などの連絡を妨げる要衝である。味方にしておく方が後々、こちらに有利に働く。
九州に関しては敵味方が入り乱れているため、このまま膠着状態であるだけで万々歳だ。最終的には味方勢力が支配する土地を橋頭堡に攻め入ればいいからである。一応、支援として伊予、土佐兵団を向かわせるつもりだ。大将は伊予を任せている権兵衛である。
中国で蜂起した毛利家には安芸を任せている藤堂房高を大将とし、中国の諸大名と讃岐、阿波兵団を隷下に組み入れることとした。安芸には瀬戸内の水軍を基幹とした北畠海軍の主力艦隊(中、小型船で構成)がおり、毛利家に残った村上水軍を圧倒している。前回と違い、制海権は完全に北畠側が握っていた。具房は小型船で関門海峡を封鎖して外部勢力との連絡を断つよう命じている。これで毛利は完全に陸の孤島となった。後はじわじわと締め上げていくだけだ。
陸奥の南部家に対しては顕康を大将とし、伊達や最上、秋田で抑え込む。顕康が若く経験が浅いことが不安材料だが、南部家はほぼ孤立状態であり、また隷下の伊達政宗、最上義光、秋田実季は歴戦の武将である。彼らの補佐があれば問題なく倒せるはずだ。念のため顕康に、先達のことを尊重するよう伝えておいた。
そして具房が自ら指揮をとるのは対北条戦線である。北関東諸侯からの救援要請に応え、北条家を叩く。史実の小田原征伐よろしく東海、東山、北陸道から攻め入る計画だ。
東海道方面を担うのは徳川家康。これには織田信孝が従う。伊豆方面を攻略し、小田原を牽制するのが目標だ。
北陸道からは浅井長政率いる北陸軍が侵攻する。上杉景勝や前田利家、佐々成政などが隷下に入った。越後から上野に入り、北関東の諸侯を助けつつ圧力をかける。
具房が担うのは東山道。甲信の徳川軍や真田軍を従える。八王子方面から侵入し、相模と武蔵以北の連絡を断つ。
また、海は志摩を拠点とする北畠海軍が出動して封鎖する。補給路でもあるので制海権の確保は軍にとっての死活問題だった。
出兵のためにあれこれ差配しなければならず、具房は忙しい。そんなとき、彼の許を訪ねる人物がいた。律である。少しやつれた印象を受けた。それも無理からぬことで、実家が大変なことをやらかしたのだ。周りからは半ば敵みたいに扱われ、最近は引き篭もり気味だった。
具房とも顔を合わせにくい。実家とのやりとりで彼女は仲介をしていたが、そこで決めたことを反故にされたからだ。そんな彼女だが、これだけは言っておきたいと面会を申し出た。
「この度は申し訳ありません」
「そなたが気に病むことではない。周りの評価もまた同様だ」
優しい言葉をかける。具房は律が自分を欺いたわけではないと知っているので、北条家の振る舞いをきっかけに責めるつもりは毛頭なかった。
(まあ、こればっかりは長い期間をかけてケアしていかないとな)
表面上、優しい言葉をかけているだけと思われている可能性がある。その疑念を払拭すべく、具房は時間の合間を縫って律との時間を多めにとった。敦子たちも律を遊びに誘うなど、ケアに協力してくれた。
また、コネを使って律が北条家と共謀していなかったという話を広める。彼女は何も知らされておらず、実家の行動で謂れない誹謗中傷を受けた被害者なのだ、と悲劇のヒロインとしての姿を押し出した。おかげで根絶こそできないものの、悪い噂を鎮静化させることに成功する。少なくとも、表立って律のことを悪く言う者はいない。
「最近は律さんの悪いお話は聞かなくなりましたわ。裏ではまだ色々と言われているようですけど」
「さすがにそこまで干渉できないな。一度、噂が立ってしまった以上、それを完全に払拭することは難しい」
敦子に律の様子はどうだと訊いてみる。
「最近は笑うことも増えてきました。ですが、やはり気に病んでおられるのか、時折ですけど暗い表情になりますね」
「やはり少し時が必要か……。不在の間、律のことは任せるぞ」
「承りました。『妻』としてそのお役目、立派に果たしてご覧に入れます」
「妻」という言葉をやけに強調する敦子。お市に対抗意識を燃やしているのだ。二人は仲が悪いわけではない。だが、具房が伊勢と京にそれぞれ生活の拠点を置いていること、実家がかつての盟友である織田家と主家である久我家という事情もあり、事実上、正室が二人いるという状況だ。伊勢と京で別々に暮らしているし、具房はお市を正室として扱っている。敦子はそれに理解を示し、お市を排除しようとは思っていない。なので問題はないのだが、敦子は何かと自分の立場を主張する。京での正室は自分だぞ、と。具房は苦笑しながら、そうだなと承認するというのがお決まりの流れだった。
「敦子はよくやってくれている。だからこそわたしは安心して出征できるんだ」
「あなた様……」
褒めてやれば敦子はうっとりとした表情になる。甘い空気が漂い、近習は耐えられないとそっと距離を置くのがいつものパターンだ。
そして数日後。具房の姿は朝廷にあった。天皇からのお召しである。公家たちから事前のタレコミもなく、何だろうと思いながら参内した。そこで具房は錦旗と太刀を親授される。その上で、
「泰平の世を乱した逆賊を討伐せよ!」
との勅を受けた。後で話を聞いたところによれば、天皇は武田討伐を命じた先帝のように、泰平の世を実現すべく戦う天皇になりたかったらしい。それゆえに討伐の勅が出たのだという。
(これは嬉しい誤算だ)
政治の実権は武家に移って久しいが、それでもなお、朝廷は権威を保持している。その証である錦旗を授与されたことはこれから行う戦の正当性を朝廷が担保してくれているということであり、非常に戦いやすくなるのだ。とてもありがたい。具房は必ずや使命を果たしてご覧に入れます、と答えながらほくそ笑んでいた。
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そのころ、九州にて。
羽柴一族を排斥し、家を乗っ取った秀景と小少将。中央の具房と対決する姿勢を鮮明にしたわけだが、来るべき戦に備える、なんてことはしていなかった。
「愛い奴らだ」
「筑前様。どうぞよしなに」
「私どものこともよろしくお願いいたします」
秀景は博多城で愛妾を集め、酒池肉林の日々を送っている。その多くは秀景を支持した豪族たちの子女で、実家からは秀景に気に入られるようにとの指示を受けていた。なので、媚びまくって彼の関心を買おうとする。秀景はそれに気をよくして、空手形を濫発していた。
例えば、かつて日向を支配していた伊東氏。領土を失陥した後に大友氏を頼ったが、耳川の戦いで敗れると一部は畿内へ出て織田家に仕官。秀吉の与力となっていた。伊東祐兵は島津家が薩摩、大隅に減封となれば当然、日向の旧領は自分たちに与えられるものだと思っていた。ところが、下された決定は小早川家に日向を与えるというもの。到底、納得できる内容ではなかった。それが秀景についた理由である。彼は娘を秀景に差し出す代わりに、日向国の安堵をとりつけていた。もちろん日向は小早川領であり、単なる空手形にすぎない。それでも自分の主張を容れてくれるから、と祐兵は秀景を支持している。
似たような理由で菊池、秋月、阿蘇など豪族や元大名層から秀景は支持されていた。彼は毛利や北条といった大名、さらには将軍・義昭の支持が自分にある、と主張して支持固めに利用している。また、味方に引き入れるとよきに計らえ、と放任するため中世的な価値観を未だに持つ旧時代の勢力からの受けがよかった。
そんな秀景に負けず劣らず奔放な生活を送っているのは実母の小少将である。彼女は秀次たちの逃亡を手助けした、など適当な罪をでっち上げて博多商人たちの財産を没収。それを元手に豪遊していた。中国、朝鮮、南蛮から織物や磁器などを買い漁る。秀景の廃嫡以後、あまり贅沢をできなかった反動であった。
その浪費癖は莫大な博多商人の資産をして、懐に風邪を引かせるレベルのものであったが、それが却って奏功することになる。なぜなら、小少将が珍品が好きだと聞いた有馬氏などが、南蛮貿易で手にした舶来品を土産にすり寄ってきたからだ。
「御母堂様(小少将)。こちら、唐は北宋の白磁にございます」
「まあ、なんて見事なの!」
「そして、これは唐絹にございます」
「いい手触り。何を作ろうかしら?」
日夜、有馬氏の使者が現れては舶来品を献上する。小少将は褒美として領内におけるキリスト教の布教を許し、秀景にも認めさせた。さらに羽柴家は有馬氏を通して反体制派(カブラル派)の宣教師たちと組むことになった。彼らが集積していた武器弾薬や船舶(フスタ船)を提供。羽柴軍の洋式武装化が一気に進むこととなる。
さらに秀景たちは軍事にまったく無関心だったが、他はそうでもない。来るべき大戦に備えて準備を始めていた。主導しているのは宣教師。彼らのなかにはヨーロッパの貴族や騎士の出身者もおり、彼らが指導して敵の来襲しそうな場所に堅固な陣地を築いていた。
「これは大変なことになった」
適応主義派の宣教師たちは密かにこれを上方のオルガンティノらに報告。彼らはさらに具房へと通報したため、彼の知るところとなった。
「どうか、禁教や弾圧はご容赦ヲ」
オルガンティノはこの件で折角、日本に根付きつつあるキリスト教の基盤が破壊されることを恐れていた。そこで具房に密告し、最悪の事態を回避するという手段に出たのだ。
「了解した。一部の人間の暴走だということで対応させてもらう」
具房はこれがあったからといってキリスト教徒を弾圧しないと約束した。一方、敵が相当の準備を整えていることを知り、この方面を担当する権兵衛と房高には十分、注意するよう警告しておいた。