家督
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お市と結婚した具房。初日は険悪な仲だったが、二日目には蟠りが解け、別人かと思うほどに仲よくなった。側室である葵と揉めないかと危惧していたが、彼の懸念は幸いにも外れる。葵は自らの立場を弁え、出しゃばるようなことはしなかった。また、お市も葵を大事にする具房を見て、彼女との協調を選択する。すべては丸く収まった、というわけだ。
結婚後、しばらくは各方面からのお祝いがあり、落ち着くことはできなかった。そのなかにあって、信長から『お市との仲は大丈夫か?』と心配する手紙が送られてきたときには、具房は心臓が飛び出るのではないかと思うほど驚いた。
(まあ、初日にあれだけ喧嘩をしてたらそうなるか)
無理もない、と納得する。この時代、正室は単に妻というだけではない。子どもを産む道具でもない(そういう役割がないというわけではないが)。役割は人質とスパイだ。
人質は文字通りの意味で、何らかの約束に対する担保として差し出される。大体、劣位にある側が優位な側に人質を出す。ただ、お市の場合は普通の同盟が婚姻同盟にシフトしただけで、どちらが優位だというわけではない。よって、彼女の役割はスパイとなる。
スパイについては注意が必要だ。桶狭間の合戦にかこつけた戦勝祝いに、具房は売り出していく商品を贈った。絹に真珠と、喉から手が出るほどほしいものばかりだ。その製造技術の一端でも知りたい、と思うのは人情だろう。この他、具房が統治する北伊勢は先進的な統治体制が敷かれている。得るものは大きいはすだ。
具房は信長に悪いと思いつつも、これらの技術は秘匿することとした。統治体制はどうやっても漏れるから仕方がないとして、軍備については秘密にする。それは、北畠家が生き残るために必要だからだ。
(織田家は大きくなる。北畠家よりも大量の兵を揃えられる。それに対抗するためには、質を追求しなければ)
これが具房の基本的な考え方である。信長の拡張政策に協力して良好な関係を作っていく。その一方で、最悪の事態に備えて織田軍より優れた装備を保有し、数の差を質の差でカバーするのだ。お市と結婚したことで浅井長政のように裏切らなければ問題ないだろうが、用心に越したことはない。
件の手紙については、お市との仲は良好だと、返信しておいた。具房はお市からも同じ内容の手紙を出してもらう。侍女からも報告は行っているだろうから、信長も信じるだろう。そんな具房の狙い通り、信長からは『お市をよろしく』と改めて手紙が送られてくる。とりあえず、夫婦仲が悪くて討伐ルートは免れたようだ、と具房は胸を撫で下ろす。
さて、そんなこんなで北畠家での生活がスタートしたお市。彼女にとって幸いだったのは、具房が半ば領地を持って独立しているため、姑や小姑との関係をほとんど気にしなくてよかったことだろう。しかし、そんなことに関係なく、北畠家の生活は驚きの連続であった。
食事。
生活の基本だが、これが今までとは異なっている。まず、食事をする場所が献立ごとに異なっていた。和食の日は座敷で膳に乗せられた料理を食べる。洋食の日は椅子に座って皿にのった料理をナイフとフォーク、スプーンを使って食べる。中華の日は同じく椅子に座って食べる。
魚は無論のこと、肉も出てきた。お市は驚く。北畠家といえば名家であり、こういった習慣を破ることはしないと思っていたからだ。たしかに肉食は他人にバレるとまずいので、実家にも秘密にしていた。
生活スタイルも変わっている。お市は葵と仲よくなろうと彼女の部屋を訪ねたのだが、不在だった。
「葵さんはどこにいるの?」
侍女に訊ねると、驚きの答えが返ってきた。曰く、城の方に行かれております、と。説明によれば、葵は具房から政務の一部を任されているという。なので、朝は連れ立って城に行き、執政するのだそうだ。
お市はやはり意外だ、という感想を抱く。北畠家という名家は伝統を重んじるはず。だが、実際は戦もないのに女が政務を担っている。聡明な彼女は気づいていた。北畠家のーーいや、具房の異質さに。
だが、それだけで決めつけるのは早計だ。ゆえに、信長に報告はしていなかった。もっと近くで確かめなければならない。そんな思いを抱き、お市は具房に自分にも政務を任せてほしいと直談判した。
「私にも政をやらせてよ!」
「ああ、いいぞ」
要求はすんなりと通る。葵の下で見習いをすることになったのだが、彼女が担っている仕事はお市の想像を超える内容だった。
「奥方様、急いでください。次、きますよ」
「ま、待ってーー」
お市は膨大な書類と格闘していた。一日でこれだけの紙が使われることにも驚くが、それ以上に忙しい。ひとつ終わったと思いきや、すぐに次がやってくる。また、飛び入りの案件なども舞い込み、さながら戦場だ。さらにさらに、仕事は文筆のみではない。収支などの計算もしなければならず、これもお市を苦戦させた。というか、ぶっちゃけわからない。
「桑名から使者が参っております。津島との交易をもっと拡大したいと……」
「宇治山田からも同様に」
「わかりました。すぐに行きます。奥方様は算術が入った書類は置いて、他の仕事を優先的にお願いします」
そう言い残して葵は部屋を出て行った。ポツンと残されたお市。呆気にとられて手が止まっている。そこへ、容赦なく追加の書類が持ち込まれた。
「こんなのおかしいわよ!」
お市は泣きべそをかきながら、できる範囲で書類を処理していった。そして夜。彼女は具房を問い詰めた。
「おかしいわ!」
「どこが?」
「色々よ!」
女性が戦もないのに政務に参加しているのはともかくとしても、そのレベルがおかしい。葵の才覚は、勘定方として働いていてもおかしくないレベルだ。男でも、そこまでの知識を持つ人物は多くない。間引きされた捨て子が、どうすればそこまでの知識を身につけることができたのか、お市には不思議でならなかった。
「特に算学。あの文字は何なの?」
お市は端切れ(葵が使っていたメモ用紙を一枚もらった)に書き写した件の文字を見せる。真似して書いたため不格好だが、それはアラビア数字だった。具房は算数がわからなかったのだと理解し、お市に簡単に説明する。
まず、具房は適当な紙にアラビア数字と漢数字の対応表を書いて見せた。
「こっちの方が楽だろう?」
「たしかに……。でも、それはたださぼってるだけなんじゃ?」
「効率を重視した結果だ。それに、こちら(アラビア数字)の方が大きな値を表しやすいし、計算しやすい」
具房は試しに一から百の数字をすべて足すといくらになるのか、とお市に訊ねる。彼女は指折り数えていたが、すぐにわからない、とギブアップした。具房は無理もない、と苦笑する。できそうで意外と難しい計算なのだ。
「なら、一から十までの数字の合計は?」
今度は数を少なくして訊ねる。これなら指折り数えられる数字だ。
「五十五」
「正解だ」
よくできました、と褒める具房。そんな彼に、お市は何が言いたいのかと目線で問う。その考えを汲み、具房は話を続ける。
「今のように、値が小さければそうやって指折り数えることができる。だが、時間がかかってしまう。それは不要な時間だ。それを短縮するために、アラビア数字と計算式を使う」
具房は紙に式をすらすらと書いていく。
101×50=5050
「よって答えは五千五十だ」
具房はあっさりと答えを出す。理由は知っていたからーーというのもあるが、要領さえ押さえれば何も難しいことはない。
「ちょっと待って。この百一はどこから出たのよ?」
その質問に具房は質問で返す。
「お市。一と百を足すと?」
「百一よ」
バカにしないで、と目で抗議する。具房は悪かった、と苦笑しながら話を続けた。
「では、一から百の数字のなかで、百一になる組み合わせはいくつある?」
「そんなのーー」
わかるわけないじゃない、と言いかけて、お市ははたと気づく。二と九十九を足せば、三と九十八を足せば……次々と百一が出来上がることに。そしてその数は、
「五十……」
「そう。五十組できる」
お市は先ほどの計算式が表していたものを理解した。『一と百を、二と九十九を、三と九十八を、……、五十と五十一を足していけば、百一が五十組できる。それらを掛けると五千五十となる』ーー口にすれば、言葉にすれば長々とした言葉の羅列になるものを、『計算式』を使えばたった一行で表すことができる。それは彼女にとって目から鱗だった。
「そういうことなのね……」
「ああ。そして、最低限の計算はできないと葵の下では働けない」
具房は現実を突きつける。お市は下を向いた。自分にはできない、と思ったからだ。もっとも、具房とて鬼ではない。現実を突きつけて知らんぷり、なんてことはしなかった。なにせ、お市はまだ十三歳。未来の日本ではまだ学生なのだから。
「だから、お市には学校に行ってもらう」
ということになった。翌朝、葵によって別室に連れ込まれ、学校へ向かう準備が進められる。
「こ、これは……」
お市は混乱していた。具房に言われて学校に通うことになったのはいい。教えを乞うのだから当然だ。問題は服装である。
具房が用意したのはセーラー服だった。ひと昔前のスケバンが着ていたような、丈が踝まであるロングスカート(服は綿製)。赤いスカーフもついている。足には絹糸で編まれた靴下と、牛革で作られたローファーを履いていた。
これが北畠領に設置された学校の女子生徒の服装だった。もちろん一般人がそんなものを買えるはずがないため、入学とともに支給される。また、持ち逃げを防ぐために全寮制となっていた。
制服が制定された理由のひとつが、生徒の経済格差が現れないように、という配慮だといわれている。具房もそれに倣った。学校の門には必ず、『この門をくぐる者は一切の身分を捨てよ』と書かれている。要するに、学校ではみんな平等! ということだ。
いくらお市が具房の正室とはいえ、ルールを決めた人間が率先してルールを破ったのでは示しがつかない。そこで具房は渋々、乗り気でないお市にセーラー服を着せた。そう、渋々である。断じて、戦国一の美女(今は美少女)のセーラー服姿が見たかったわけではない。屋内で着てもらおうとミニスカートバージョンのセーラー服など用意していないのだ!
具房は似合ってる、とサムズアップ。お市は手の意味こそわからなかったが、具房が喜んでいることは言葉も相まって理解した。褒められるのは嬉しいが、それにしても慣れない服なので戸惑いが勝る。だが、これがルールだというならば受け入れるしかなかった。
かくして、JCお市が誕生した。
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お市は葵に付き添われて城下にある学校に行った。葵が付き添うのは、やはり全寮制というルールを具房が曲げられないという理由からだ。これから一年間、週五日のペースでみっちり授業を受けてもらうことになる。週末には帰ってくることになっていた。
重要人物である葵が不在のため、政務は実質的に具房ひとりで回すことになってしまう。まあ、こればかりはやむを得なかった。それに、万が一のときは城下にいる葵を呼べばいい。彼女は学生ではないので、全寮制のルールは適用されないのだ。
「……」
しかし、ちょっと寂しい気はする。単身赴任の旦那はこんな気持ちなのかな、と思う具房。出ていったのは嫁たちの方だが。
「殿、そろそろ」
感傷に浸る時間もそこそこに、具房は家臣から仕事の時間だと告げられる。肩を落とした具房はそのまま家臣にドナドナされていった。
言い表せない喪失感に見舞われ、ブルーな気持ちで仕事をしていた具房。しかし、そんな彼はその日のうちに具教から呼び出された。仕事を適当なところで切り上げ霧山御所に向かう。
(何だろう?)
具房は呼び出されるようなことはあったかな? と首を傾げる。織田家との同盟は成った。その上、桶狭間の戦いで今川家を打ち破ったことで、反対勢力もほとんどいない。それに周辺地域も安定しており、どこかに出兵するという話もなかった。
(もしかして、お市と喧嘩したことか?)
だが、それは霧山御所での話。しかも、披露宴では突っ込まれなかった話題だ。今するのは遅すぎる。やはり、呼び出された理由に心当たりはない。
登城して通されたのは具教の私室だった。具房は厄介ごとでありませんように、と祈る。だが、それはフラグである。具教から突きつけられたのは、まさしくその厄介ごとだった。
「家督を譲る」
「……早すぎませんか?」
具房は困惑した。さすがに早い。まだ先代当主である晴具も生きている。未だ彼の影響力は強く、具教が当主を退いたところでメリットはない。だが、これは具房のミスリードだった。具教はすぐに隠居するわけではない。
「父上(晴具)がお隠れになられたら、すぐに譲る」
具教曰く、晴具は昨今、体調を崩しがちなのだという。医者の話では、それほど長くはないのだと話した。具房は記憶から晴具に関するデータを引っ張り出す。その死は永禄六年(1563年)。今は永禄三年(1560年)。まだ少し先の話だ。今日明日というわけではないと知り、具房は安堵した。それで少し冷静になり、ふと疑問に思ったことを訊ねる。
「承知しました。ですが、なぜいきなりそんな話を?」
具房はおかしいと感じた。というのも、晴具の容体が悪くなっているという話なら、使者を飛ばしてそれとなく知らせればいい。また、呼び出したにせよ、主旨ならばそれを先に話すべきだ。だが、具教は先に家督を譲ると言った。つまり、そちらの方が大事だということになる。そこに何らかの事情があるのではないかと考えたのだ。
そして、その指摘は的を射ていた。具教は参ったなぁ、と頭をかく。すぐにバレるとは思っていなかったらしい。本気で困っていた。だが、バレた以上は仕方がない、と本音を語る。
「耳を貸せ」
二人は密談の姿勢になった。具教は早々に家督を譲る理由を明かす。
「お前を当主から引きずり下ろそうとしている者たちがいる」
「叔父上(木造具政)ですか?」
具房が心当たりのある人物の名を挙げると、具教は目を見開く。
「気づいておったのか……」
それは感心と呆れを含んでいた。どう反応するのが正解かわからず、はい、とだけ返事しておく。
「そうだ。首謀者は愚弟だ。以下、分家が軒並み賛同している。味方は次郎(長野具藤)くらいのものだ」
「それはまた、嫌われてますね」
他人事のように話す具房に、具教は笑いごとではないぞ、と注意する。だが、具房からすれば予想通りの展開だった。元々、具政が自分にいい感情を持っていなかったことは知っている。そして何より、彼は史実で信長に寝返った。警戒すべき人物として、花部隊から人員を出して動向を監視させている。
「分家の者たちと度々会談していることは知っています。何を話しているのかも」
具房を引きずり下ろし、具藤も長野家当主から追い落とす。こうして宗家の影響力を大幅に削ぎ、まだ右も左もわからないような宗家の子どもを当主に据える。意思決定は具政を中心とした分家の合議で行うーーというのは建前にすぎない。その枠組みのなかで具政はかつての北条氏のように実権を握るつもりだ。
「そこまで知っているならば話は早い。幸い、家臣たちの離反は進んでおらぬ。まあ、お主が積極的に関わっておったからな。奴らが向こうに靡かぬうちに、家督を譲っておきたい」
具教は、いざとなれば具政たちの始末を任せると言っていた。彼らが牙を剝くのは、おそらく晴具が死んだ後。具房が当主になって初めての仕事は、反乱分子の粛清になりそうだった。
正直、面倒だと思う。そして具房は面倒なことはまとめてやる質であった。すぼらな具房の頭が高速回転を始める。
(1560年代に発生した伊勢周辺の問題をここで解決するためには……)
パチパチと頭のなかで算盤を弾く。そして具房はひとつのプランを描いた。名づけて、伊勢の膿を出し切る作戦である。
「父上ーー」
具房は思いついた作戦を説明する。その壮大さに具教は呆れるとともに、よくもまあこんなことを考えつくものだ、と感心していた。だが、反対はせずに自由にやるようにとのお墨付きを得ることに成功したのだった。