SOS
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天正十三年(1585年)。
色々とあったが、気がつけば年末も近づいている頃。四国支配に目処がついたと思いきや、新たに中国に大きな所領を得た具房。これを統治するため、四国から藤堂房高を転出させて安芸に置くとともに中国全体の統括をさせている。また、蒲生治秀と松永久通が知事に昇格。それぞれ石見と備後を任された。
「兵備は整わないか」
「はっ。毛利はかなり無理をしていた様子。しばらくは民の力を養うべきかと」
「勝ちすぎるのも考えものだな」
主に具房が散々、毛利を痛めつけたことで国内はボロボロになっていた。当分は民力休養のため、持ち出しが増えそうである。とはいえ、石見銀山が手に入ったので差し引きゼロといったところだ。
そんな事情もあり、中国軍の編制は遅れている。まあ数年がかりで編制するものなので問題というわけではない。それより民政である。経済力を回復させるため、大々的な公共工事を行なっていた。
安芸では太田川の下流にある五箇村に政庁を建てることにする。この辺りで最も「広」い「島」に築かれる城ということで広島城と名づけた。中洲の埋め立て工事に無数の人夫が従事する。安芸国内は無論、備後をはじめとした周辺諸国からも出稼ぎ労働者がやってきた。具房は北畠領の人間を中心に雇用するよう指示していたので、現場でもそのようにされている。
また、呉でも大規模な造船所と軍港の建設工事が行われている。村上水軍は毛利家の移動に従った者を除き、すべて北畠海軍に編入された。その拠点として呉が整備されている。ここは天然の良港であり、活用しない手はない。こちらにも諸国から多数の人夫が作業に従事していた。
「これが北畠の財力なのか……」
具房に挨拶すべく上京していた毛利輝元と小早川隆景。その帰り、大普請が行われているという広島の視察に訪れたのだが、圧倒的な規模感に圧倒された。賃金のみならず食糧まで支給しているのだから。そんな芸当、毛利家には逆立ちしたって無理である。
「殿。抗戦を続けなくて正解だったかもしれません」
「ああ」
工事にこれだけの金を注ぎ込めるのだ。より重要な軍事にはもっと多くの金が投じられているはず。まともな思考の持ち主であれば逆らう気力など失せてしまう。
「ご尊顔を拝し恐悦至極にございます」
「よく参られた、上杉殿」
具房は別のゲストを迎えていた。越後の上杉景勝である。揚北衆の討伐が済んだため上洛してきた。具房は彼を歓待する。挨拶もそこそこに宴会へ持ち込む。現代では死語となった飲みニケーションというやつである。
「揚北衆の討伐へのご協力、また内乱でのご援助、痛み入ります」
「なに、お父君(上杉謙信)とは少し交流があってな。そのお家が北条の傀儡となるのは嫌だったのだよ」
北畠家は北条家と親しいが、その肥大化は望むところではない。上杉の傀儡化は絶対に阻止しなければならなかった。だから景勝、景虎両陣営に武器食糧を売りつけて儲けつつ、景勝が勝つように誘導していた。そんなことを馬鹿正直に言えないので、謙信との親交を持ち出しておく。
「それでも感謝いたします」
景勝は深々と頭を下げる。そんな話をしていたところで料理が運ばれてきた。しかし、景勝は不思議そうに首を傾げる。
「左府様(具房)。宴ではなかったのですか?」
「宴だぞ。料理も出てきただろう」
「しかし、供回りくらいしかおりませぬが……」
互いの家臣を含めた大人数での宴会だと思っていたので、景勝は面食らったようだ。
「貴殿は寡黙な性格だと聞いている。騒々しいのは嫌いかと思ってな。二人での宴だ」
具房は景勝の性格に配慮して二人きりでの宴会をセッティングした。困惑した様子の景勝に対して、家臣たちにも酒と肴は用意していると伝える。耳を澄ませば喧騒が聞こえてきた。
「虫の声と比べると少し風情はないが、これもいいものだろう?」
「そうですね」
そう言って二人で飲み明かす。途中、刀剣好きの景勝のために具房が持っていた名刀を何振りか披露する。すると目に見えてテンションが上がったので、よほど好きなんだなと具房は少し呆れた。しかし、具房も自慢気に話していたので他人のことは言えない。
翌日、酒が抜けたところで具房は景勝とともに参内する。そこで天皇に謁見し、景勝はその場で左近衛少将に任じられた。無論、具房の働きかけである。もっとも国司にしようとしたら、謙信時代の献身を踏まえて近衛少将となったのだが。
さらに具房は京郊外にて自軍による演習を披露した。例によって大砲などを派手にぶっ放す演出過剰の演習だ。京では上洛してきた上杉兵が私語ひとつない精強な兵だと評判になっている。これに対して、北畠軍も負けてないぞと示すためだ。
「これが浅井軍の手本ですか」
「よく知っているな」
「調べましたから」
曰く、謙信は生前、浅井軍を褒めちぎっていたらしい。火力を活かし、よく鍛えられた兵士だったと。景勝はさらに調べ、浅井軍は北畠軍に倣ったものだと知る。本物を見て、謙信が言っていたことを実感できたという。
「それはよかった」
実になったならよかったと具房。さり気なく武器も売りますよ、とセールスすることも忘れない。最大の買い手であった織田家が弱体化し、過剰生産気味になっていたのだ。毛利家に売るという話になっていたのだが、まだ余る。そこで上杉家にもということになった。
「是非」
景勝も自軍の火力を増強するために銃火器の拡充は必要だとして、武器購入を申し出た。おかげで軍需産業が一気に不況に陥る、という事態は避けられそうである。具房は密かにほっと安堵するのだった。
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各大名の接待を終えた具房は、しばらくは平穏な日々になりそうだと思っていた。年末年始は相変わらず挨拶だなんだと忙しかったが、それも落ち着きを見せる。しかし、そんな期待はあっさりと裏切られた。
「大友から書状?」
具房のところに大友氏から書状が届いた。端的にいえばSOSである。島津に攻められているので助けて、というわけだ。
沖田畷の戦いで龍造寺氏が島津氏に敗れると、大友宗麟は立花道雪に筑後への侵攻を命じた。順調に筑後を平定していた大友軍だったが、思わぬアクシデントに見舞われる。主将である道雪が病に倒れ、病没したのだ。高橋紹運もいたのだが、道雪の死で大友氏の支配は動揺。多くの豪族が敵に寝返ることとなる。
さらに龍造寺氏を下したことで、これまで大友氏に従っていた諸豪族が島津氏に接近。唯一残っていた親大友派の阿蘇氏も島津氏によって滅ぼされた。次は本丸である大友氏である。宗麟はそれを察し、具房に支援を求めてきたのだ。
「まあ、武器弾薬は余ってるし輸出するか」
鉄砲やら銃弾やら、余っているものを大量に押しつける(有償後払い)。目録を渡された使者は眩暈がする思いだった。これだけのものをポン、と売れるのだから。しかし、これなら戦えると喜び勇んで帰っていった。
具房の動きは早い。彼の命令で物資の出荷が始まった。既に下関周りで日本海と畿内は繋がっており、その航路に乗せられて大友氏への支援物資が続々と送られていく。
「いやはや、凄まじいものだな」
中継地点である赤間関(下関)で荷を管理していた毛利家臣はただ呆れる。そしてそれを受け取った大友氏は、買ったはいいがいくらになるのか? と途方に暮れる思いだった。とはいえ、前線の兵士たちは潤沢な物資を得て意気を上げる。
「ここは抜かせん」
高橋紹運は自ら最前線の岩屋城に入った。北畠家からの支援物資をたんまりと持ち込み、いつまでも籠城してやると息巻いている。道雪の死後、支配を動揺させてしまったことに責任を感じており、そのやる気は凄まじい。島津軍は死ぬまで絶対に通さない、という壮絶な覚悟を持って戦に臨んでいた。
「大殿(宗麟)は上方に向かい、救援を求められるそうだ」
「島津は北畠からの和平提案を蹴ったようですぞ」
「大隈、薩摩、日向半国(南部)だからな。納得はしないだろう」
紹運は息子・立花統虎から送られた援軍の将・吉田兼正と今回の経緯を話す。大友からの援助を依頼された具房は支援物資を送る一方で、双方の和睦を勧告した。大友領は現状維持、島津領は先述の二国半、肥後と日向北部に緩衝地帯として中央の人間を送り込むというものだった。
だが、島津氏は呑めないと拒否した。九州ほぼ全土を手中に収めた彼らにとって、これは容認できない。具房もわからんではない、と肥後南部を追加するも、島津側は拒否。話にならないということだった。彼らの要求は現状維持らしい。そんなことをすればまた揉め始めるのはわかっているので、具房も呑めなかった。
議論は平行線をたどったが、しばらくして状況が一気に変わる。島津側がそもそも論として、なぜ北畠が仲介するのかと言い始めたのだ。
『公方様(義昭)が裁定するのが筋でしょう』
話を南北朝時代まで戻してそんな主張を始める。頭が痛くなったが、ならばと義昭に話を持っていった。大友氏も名門である。さすがに九州の大半を島津に任せる、なんてバカなことは言うまいと思ったのだ。
想定が甘かった。
義昭は九州の大半を島津に任せるバカだったのである。さすがにおかしいと思った具房は舞台裏を調査した。その結果、義昭と島津氏は結託していたことが判明する。
「裁定で島津を支持する代わりに、将来的な東進ね……」
義昭は初代尊氏の例に倣って九州から兵を率いて上京し、具房を打倒する構想を持っていたようだ。毛利の代わりを島津にやらせようというのである。
「禍根は摘むしかないな」
そんなわけで、宗麟が来るまでもなく具房は派兵を決定。動員令を下していた。