女たちの憂鬱
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具房が四国を巡っているころ、京に残っている雪はストレスを溜めていた。理由は具房がいないから。
「お兄様……」
ふとした瞬間に具房のことが思い浮かぶ。織田家に嫁入りした身だが、想うのは旦那(房信)ではなく具房のことだ。今や房信は故人となっているため、以前のように取り繕う必要はない。ため息ではなく、兄のことを口に出して言えるため多少は気が晴れるのだが、それも完全ではない。ストレスは溜まる一方だった。
(ああ姫様、おいたわしや)
(殿(房信)を亡くされ、兄君に縋っておられるのですね)
織田家に入ってからついた侍女たちは物憂げな雰囲気の雪を見てそんな誤解をする。北畠家時代からの侍女は文字通り、具房のことを想っていると正しく理解していたが。
雪はいつも、それこそ息子である吉法師の世話をしているときでも具房が早く帰ってこないかな、と思っている。幼少期に保護されてから具房こそが唯一絶対の庇護者だった。家族愛に飢えていた彼女に惜しみなく愛を注いだ具房はヒーローである。
そんな具房ロスに陥っている彼女だが、やるべきことはきちんとやっていた。具房が四国へ発つ前、雪に『普通に治めてくれ』と言った。つまりは具房がいない間、無難に政治をしろ、ということだ。
しかし、兄に「よくやった」と褒めてもらいたい雪は無難に政治をするだけでは満足できない。何かしら大きなことをやって、たくさん褒めてもらうのだ。
そうと決めたら早速行動。雪は家臣たちを安土城に集め、その場で吉法師に対して改めて忠誠を誓わせた。その証として、家臣たちに収入の一割を上納するよう命じる。何をするにしても金が必要だ。しかし、今の織田宗家は南近江しか有しておらず、財政的に厳しかった。
「それは……」
諸将は渋るが、雪は予め秀吉や長秀など有力な家臣に話を通していた。そのため命令は通り、毎年の上納金が約束される。なぜ秀吉たちが呑んだかといえば、背後に具房の影を見たからだ。一門最有力である信包や信興、信孝も具房に逆らいたくはない。圧倒的な軍事力で消し飛ばされる。誰もが我が身が一番可愛いのだ。
そうして財政問題を解決すると、雪は秀吉と浅井長政を呼んで敵対勢力(毛利、上杉)と交渉するように命じた。交渉の内容は降伏しろというものである。
「それは……難しいかと」
秀吉はさすがに反対意見を出した。毛利の勢力は強大だ。降伏を勧告してもはいそうですか、と応じるはずがない。
「上杉は応じるかもしれません」
一方、長政は上杉家は脈ありだと答えた。御館の乱に端を発する内乱により、上杉家の勢力は大きく衰えている。最近では放生橋における戦闘で有力家臣の多くが負傷、あるいは討死するという大敗を喫していた。外征なぞしている余裕はなく、外から攻められても抗いきれるか疑問だという。
「なるほど。では、越中の佐々(成政)を使ってもらって構わないので、交渉を進めてください。駿河守(家康)にも信濃から圧力をかけてもらいましょう」
雪は上杉家に対して服属を要求するよう長政に指示した。併せて北信濃の放棄も求める。見返りとして佐々成政、前田利家などによる軍事介入により、上杉家の内紛を鎮めることを提示した。また、長政には空白地帯となっている越前を与え、家康には割譲される北信濃を与えることにする。
長政はすぐさま行動。北陸方面軍を率いて上杉家に圧力をかけた。そのなかでも利家と成政は張り切っている。
「奥方様(雪)が我らに名誉挽回の機会を与えてくださった」
「励まねばな」
二人はこの戦いが柴田勝家に与した自分たちを救済するためのものだと理解していた。それでやる気になっているのだ。
「……」
「殿……」
一方、服属を要求された上杉景勝は悩んでいた。従えば家は保てる。北信濃は失うが、本領である越後の領有は認められている上、反乱分子の討伐にも協力してくれるという。
「使者殿。少し家臣たちと話し合いたい。しばし待ってくれ」
「わかりました」
長政から焦らなくてもいいと言われていたので、時間稼ぎに思える景勝の提案は受け入れられた。そんなことを許したのは、時間が経つほど上杉家を追い込んでいくためだ。しばらくして、西と南から急報が入る。西から織田北陸方面軍、南から徳川軍が迫っているとの報だった。
「悪い話ではないな」
上杉への脅迫の見返りとして北信濃を提示された家康はこれに乗り、信康に信濃の兵権も与えて北進させた。これが都合一万五千。西から迫る織田北陸方面軍は二万五千なので、合計五万の大軍が上杉家を脅かしていることになる。
「ここは一戦して」
「待て。勝てるのかこの大軍に?」
「背後には揚北衆(新発田重家ら)がいるのだぞ?」
上杉家中では主戦論と非戦論が入り乱れたが、後者の方が優位だった。三方を敵にしては勝ち目はないと見たらしい。
景勝は特に発言しなかったが、本音は非戦論を支持している。浅井久政など、なかには勇ましいこと(主戦論)を唱える者がいるが、家はボロボロだ。相次ぐ内乱によって国力はなくなり、日本海交易を手がける国内の有力商人から金を借りて財政を賄っている始末である。だが家臣たちの手前、進んで非戦論を唱えるわけにもいかず沈黙していた。
ところが、ある日を境に景勝は非戦論を公言するようになる。状況が変わったのはとある商人と会った後。その商人は日本海交易をしている越後商人の代表格であった。
「早く話をまとめていただきたい。さもなくば、我らは干上がってしまいます」
「? どういうことだ?」
以下、商人が語ったことは景勝に衝撃を与えた。曰く、日本海交易は主に安東氏など東北からの荷が多い。もし上杉家が服属しない場合、その荷が止まるという。
「北陸は織田が支配しているのだから取引が少ないのはわかるが、なぜ安東からの荷が止まる?」
「……そこで使われている船は北畠が営んでいるからです」
「なにっ!?」
衝撃の事実が発覚した。別に北畠の船を使わなければいいと思うかもしれないが、そうなると運べる荷の量が限られるため流通量が減少する。加えて、北畠から買いつけていた鉄砲や火薬が入ってこなくなるという。
「もし話を受けないのであれば、船は出さないし商品も買わせない、と言ってきております」
もちろん背後には雪がいる。日本海交易路を北畠がほぼ支配したことを知った彼女は、お市に依頼して越後商人たちに脅しをかけてもらった。軍事的のみならず経済的に圧力をかけるあたり、やり方がえげつない。
「……何ということだ」
景勝は越後の商人たちが既に敵の影響下にあったことに頭を抱える。しかも日本海交易が止まるのは上杉家にとってもダメージだ。交易が止まれば塩や青苧の輸出も滞る。ただえさえ財政がピンチなのに、収入の柱が折られたのではどうしようもない。景勝に選択肢はなく、要求を受けるしかなかった。
せめてもの抵抗として揚北衆の鎮圧に協力するという条件をつけたが、最初からそのつもりなのでノータイムで受け入れられている。何の仕返しにもなっていない。
「上様(足利義昭)のご意志に逆らうか!」
主戦派である浅井久政はそう吐き捨て、揚北衆に合流した。そこで将軍権威を盾に、越後の内紛を煽りまくる。彼には後がなく、形振り構っていられないのだ。
戦いに意欲を滾らせる者がいる一方で、上杉家の恭順を聞いて気落ちする者もいた。
「我らは出番なしか」
「そういうわけでもないですぞ、内蔵助殿(佐々成政)」
成政は戦がなくて残念だと漏らしたが、そこに前田利家が現れて書状を手渡す。それは雪が書いたもので、成政と利家は上杉家に協力して揚北衆を討伐せよ、との指令だった。
「なるほど。腕が鳴るな、又左(利家)」
「応とも」
この後、二人は景勝に協力して揚北衆と戦う。もちろん北畠家から多大な物的支援を受けながらであり、頑強な抵抗を排除しつつこれを討伐。上杉家による越後統一に貢献するのだった。
かくて上杉家は上手く服属させられたが、毛利家はそう上手くはいかない。「難しい」と秀吉が言ったように、毛利家は要求を突っぱねた。これに雪は激怒する。
「以前の講和内容すら履行していないくせに、何が『無礼千万』よ!」
お前が言うな! とキレていた。信長の横死を受けて結ばれた停戦協定では、毛利が備中、美作、伯耆を割譲するという話だった。ところが現在に至るまで、この三国は割譲されていない。そこに居る毛利家臣たちが退去を拒んでいるためだ。
退去を拒んでいるのは三国にいる家臣たちに与える知行がないから。俺たちの生活はどうなるの? という切実な訴えである。そんな事情もあって退去が進んでいないのだが、雪からすれば冗談じゃない。約束したんだからそれを履行しろ、事情は家で片づけろ、空手形を切るんじゃない、といった具合に文句は山のように出てくる。
「ともかく、領土の引き渡しは最低限です。服属はともかく、取り決めた領土の引き渡しを急ぐよう言ってください」
「はっ」
雪はとにかく得られる利益を得てしまおうと思い、秀吉にそのように指示した。
『領土が縮小すればまた服属を迫り、拒めば攻め滅ぼせばいいのです』
ひとつひとつタスクを消化していこう、というわけだ。秀吉も要求が引き下げられれば毛利も受けるだろうと考えた。何らかの前進は見られるはずだと。
実際、輝元は講和の内容を履行するのは当然だとしてこの要求を受け入れる姿勢を見せる。しかし、雪の考えを看破する者がいた。知恵袋である小早川隆景である。
「殿。これは織田の策略ですぞ」
「策略?」
「三国の引き渡しと服属を求めていたのが、三国の引き渡しのみになった。織田も我らとの対決を避けたのではないか?」
どちらも呑み難いが、前者は約束してしまった手前、反故にするのも躊躇われる。どちらかといえば受け入れる可能性が高い。吉川元春は織田が現実的な路線に進んだのではないか? と疑問を投げかける。
「それこそが織田の狙いなのです」
その負い目につけ込んで要求を呑ませ、履行した段階でさらに服属要求を叩きつけるというのだ。最終的に戦になるとはいえ、三国分の国土が削られていれば敵としての脅威度は低くなる。
「何と!」
「狡猾な……」
隆景の指摘に場が騒つく。そんな狙いがあるとは思わなかったからだ。だが、考えてみれば十分あり得る話である。
「考えたのは黒田官兵衛、あるいは羽柴筑前(秀吉)か……。いずれにせよ、この話に乗るべきではありません」
「戦か……」
気が進まない輝元。だが、隆景や元春はあくまでも戦うべきと進言する。
「最大の懸念は、四国が北畠の手にあるということだ」
「河野や長宗我部の旧臣を蜂起させれば乱せるのではないか?」
「しかし、その程度で動揺するだろうか?」
「公方様(足利義昭)の名前ならあるいは」
「河野がそれで言うことを聞くか?」
「……難しいですな」
河野氏は鎌倉時代前期こそ伊予を任される有力な武士であったが、一族の内紛や戦乱のなかで没落していった。室町時代に特に争ったのは細川氏で、伊予守護の座を巡って両者はライバル関係となる。結果は実力や将軍の縁戚ということで細川氏に軍配が上がったため、将軍家に対してもいい印象を持っていない。そんな相手に義昭が声をかけても振り向いてくれるはずがなかった。
「河野とは我らも誼がある。それを使おう」
河野氏が土佐一条氏の侵攻を受けたとき、毛利家は援軍を出したことがある。その恩を返すとき、とか何とか言って協力を取りつけようということになった。長宗我部は伊予を除く四国を与えるということで味方になるよう工作を行う。
「公方様。我ら毛利は織田、北畠と雌雄を決することとなりました。是非ともお力添えを」
「うむ。ようやく決心したか。いいだろう。余の力を貸してやろうではないか」
輝元は鞆の義昭に決意表明をするとともに助力を乞う。仇敵である信長はいなくなったが、まだ具房が残っている。積年の恨みを晴らさん、と義昭は協力を快諾。猛烈なお手紙攻勢を開始した。
このように雪の目論見は裏目に出て、毛利に決意を固めさせる結果となる。当然、交渉も暗礁に乗り上げた。これで割りを食ったのは秀吉である。雪からはまだかまだかと矢の催促、毛利はいやよいやよと拒絶状態。両者の板挟みとなった。
「どちらも無理を言う……」
秀吉は頭を抱える。どちらも譲らず、話がまったく進まない。知恵袋である官兵衛に訊けば、情勢的に毛利が折れるのを待つしかない、ということだった。暴発されると正面に立つのは秀吉だ。講和の約束が守られていないのは問題だと思うが、あの毛利と戦うのは気が進まない。
「大丈夫ですか?」
「ああ。小少将か」
思い悩む秀吉の側にいたのは小少将だ。朝倉義景、柴田勝家など越前を支配した武将の妻となり、今は秀吉の側室となっている。この世界では「年増」と言われる年齢だが、見た目は若々しい美魔女だ。ゆえに秀吉の寵愛を一身に受けている。信長の死後、美濃の所領は収公されたため、姫路には正妻である寧々も来ていた。しかし、秀吉は小少将ばかり構っている。
(子を産めなかったアタシも悪いけど、これはあんまりじゃない)
この状況に心中穏やかではないのは正妻の寧々だ。信長から励ましの手紙などを貰い、一時期不仲だった夫婦仲は改善された。ところが、小少将が来た途端にこれである。正妻として家中のことは任せてくれてはいるが、それでは不満だ。対象がそう年齢の変わらない小少将だというところも気に入らない。
そして悪感情を持っているのは寧々だけではない。寵愛を受ける小少将もまた、正妻として君臨する寧々を邪魔に思っていた。彼女からすれば、子どももいないくせに大きな顔をしている寧々が気に入らない。秀吉も寧々を信頼していて排除は難しそうだ。だから仲睦まじくしている様を寧々に見せつけ、鬱憤を晴らしている。
(でも、まだ足りない。もっと力をつけなければ……)
小少将は現在、羽柴家の後継者となっている愛王丸の存在を盾に、自分こそが次代の当主の生母であるとして立場を強めようと奔走することになる。普通なら秀吉が止めるところだが、彼は後に届いた書状で毛利戦の準備が指示され、それに忙殺された上に姫路を離れたことから気づけなかった。寧々はもちろん勘づいていたが、これは家中のことと秀吉に報告が上がることはなかったのである。