おかえり
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騒動が一応の決着を見せると、諸将はそれぞれの領地へ帰っていく。具房は用事があるため京へ上る。それに同行しているのは雪と三法師。雪が岐阜に居るのは嫌だと言い、新居である安土ーーは準備が整っていないため、京に向かっている。しばらくは北畠屋敷に住む予定だ。
伊勢から馬車を呼び寄せ、それに雪母子が乗っている。具房は騎馬での移動だ。馬車は景色が見えるよう、基本的に窓のカーテンを開けている。具房はそこから雪の様子を観察するが、三法師の相手をしているとき以外は物憂げな表情で外を見ていた。
途中、具房は器用に馬から馬車に乗り移る。車内には母子の他に侍女もいたが、少し外してもらった。こうして二人だけになる。具房は外から中の様子が見えないようカーテンを閉めた。そして笑いながら、
「そろそろ演技を止めてもいいんじゃないか?」
と言った。すると雪は沈んだ表情から一転、バツの悪そうな顔をする。
「……気づいていましたか?」
「さすがにな」
信雄の処分を決めるとき、雪はずっと黙っていた。前半はショックを受けていたから、ということで話は通る。だが後半、信雄の処分が謹慎程度で済まされようとしたとき、これに抵抗しなかったことに違和感を覚えた。
普通ならあそこで厳しい処分を求めるはずだ。いくらショックを受けていたとしても、相手が軽い罰で済まされようとしていると知って心穏やかではいられないだろう。感情的になってもおかしくない。そうしなかったのは彼女が何らかの計算を働かせていたからーーつまり、余裕があったからだと考えられる。だから具房は雪が演技しているのではないかと疑った。結果は案の定。
「お兄様の目は誤魔化せませんね」
「うむ。まだまだ修行が足りん」
具房は戯けて見せ、雪と一緒に笑う。何気に笑顔は久しぶりに見る。少し安心した。
「それはともかく、よかったよ」
笑顔を引っ込め、妹を労る具房。偽りのない本音を吐露する。これなら大丈夫そうだな、とも言い添えた。つまりは、これまでのように具房が側についていなくても大丈夫、という意味である。それに気づいた雪はしかし、対面にいた具房の着物の裾を握った。
「おいおい。皺にーー」
と言ったところで言葉を止める。皺になるからと払おうとした雪の手が震えていたからだ。
「どうした?」
「……まだ、大丈夫じゃないんです」
曰く、具房がいるならいいが、そうでないと不安らしい。雪は軽い男性恐怖症になっていた。あの野郎(信雄)、ぶっ◯してやろうか、と具房の胸中に殺意が宿る。可愛い妹を間接的にだが傷物にされ、内心穏やかではない。
「そうか……まあ、焦る必要はない。ゆっくり傷を癒すんだ」
ここでいう傷とは無論、心の傷のことだ。まずはリラックスするためにも、紀伊白浜にでも行ったらどうかと勧める。あそこには北畠家の保養地があり、他人との接触を回避できるからだ。温泉に浸かってリラックスもできた。数ヶ月単位で滞在するのもいいだろう。領地のことは家臣に任せて。
「白浜……それもいいですが、やっぱりお兄様のお側にいたいです」
「いや、それは……」
さすがに問題だ。三法師は幼いので、雪と家臣が統治を担う。南近江(安土)しか領土のない織田宗家とはいえ、それを他家の人間が統治するわけにはいかなかった。
しかし雪は引き下がらない。先ほどからの笑みを引っ込め真剣な顔になる。何か真面目な話らしい、と具房も身構えた。果たして、雪はとんでもないことを言い出す。
「失礼ですがお兄様。お兄様は少し、覇気が欠けていますよ?」
「覇気?」
「平易な言葉でいうならやる気、でしょうか? お兄様は今や日本一の実力者です」
「それは織田家だろう?」
「いえ、違います。岐阜での会議を思い出してください。……もう、強い織田家はいないのです」
ふふっ、と薄ら笑いを浮かべる雪。その笑みはとても暗く、具房は背筋が震えた。周りからは凄い人間だと思われているが、心根はただの小市民なのである。雪の怖い笑みに恐れを抱くのは自然だった。
彼女が言いたいことはわかる。織田家は信長、房信の死によって分裂しつつあった。三法師が後継者ということにはなっていたが、その後見人の座をめぐって信雄と信孝が争い、家臣もそれぞれの派閥と中立の三派に分かれている。やがて激しい争いになるだろう。この争いでうまく立ち回れば、北畠家が天下を握ることも不可能ではない。実際に、史実の秀吉がそうだった。
だが、具房は常々こう思っている。自分は天下人の器ではない、と。そんな苦労はしたくない、といういかにも現代的な若者の考え方だった。太平の世で、北畠家が苦労しないようなポジションを確立できればそれでいい、と本気で思っている。そのとき自分が天下人であることは必要条件というわけではない。
「しかし、三法師はどうする?」
具房は甥っ子である三法師を見る。馬車のなかではしゃいでいた彼は、遊び疲れたのかすうすうと眠っていた。この子が無能ならともかく、まだ力量は未知数。切り捨てるには早いのでは、と具房は言いたいのだ。しかし、雪は現実的だった。
「この子には無理です。私たちはもう、誰かに縋るしかないのですから」
南近江しか所領がない。もちろん他にも織田領はあるが、事実上の別勢力だ。それを統御するためには家柄とかだけでなく実力が必要。しかし、今の織田宗家にその力はない。ゆえにそれを外部に求めざるを得ない。その後ろ盾に、雪は北畠家を選んだ。この世で誰よりも信頼できる兄を。
「だが……」
なおも抵抗しようとする具房の口を、雪の人差し指が塞ぐ。そしてこれまで以上に真剣な目で、
「言い訳はしないでください」
と言う。逃げるなということだった。彼女は北畠家の内情をよく知っている。これまでも具房は逃げてきた。織田家と提携して勢力を拡大したが、その前に例えば美濃斎藤氏と組んで織田家を滅ぼすという手もあったはずだ。あるいは、信長が包囲網に苦しめられているとき、裏切れば致命的な一撃を与えられた。
チャンスは色々なところに転がっている。それをなぜしなかったのか。具房が逃げたからだ。もちろん、お市の存在など躊躇わせる要因はあった。それでも具房が逃げたことに変わりはない。義理堅い兄の性格を、妹はよく知っている。ずっと近くで見てきたから。だから、枷となる柵を自分が取り払う。
「お兄様。私たちにはもう、お兄様しかいないのです」
具房は身内(特に家族)をとても大事にする。今回、自分が強姦されかけたことに怒りを露わにしたことからも明らかだ。それを梃子に具房を動かす。自分を守るために、天下人になってくれ、と。
「……わかった。お前たちが苦労しないよう全力でやるよ」
敢えて「支える」という表現はしなかった。明言は避けたが、具房は天下人になる可能性について排除しない、ということだ。それを聞いた雪は満足そうに笑った。
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具房は雪を連れて白浜を訪れていた。目的は雪の療養だ。具房はあくまでも付き添いなのだが、折角なので伊勢から家族を呼び寄せる。一週間くらいならば支障はない。そこで、新たに増えた家族も含めた顔合わせを行う。
「雪です」
「律です」
初対面同士の挨拶は実に淡白だった。嫁と小姑みたいな関係はない。数日過ごしても特に問題は起きず、表面上というわけでもないらしかった。警護にあたっているくノ一たちからの報告で裏もとれている。
最大の懸案事項だった雪と律の折り合いはいいようで安心する具房。それでもまだ気になることがあった。雪が妙にお市と話しているのだ。それも二人きりで。
(変なことを言ってなきゃいいけど……)
というささやかな具房の願いは叶わなかった。くノ一報告によると、織田家の取り込み、具房天下人化計画をよりにもよってお市に話したらしい。
なんて馬鹿な真似を、と思った。泥棒が今からお宅の宝物(天下人の座)を奪いますよ、と持ち主に言ったようなものだからだ。ただ、あまりにストレートすぎたためか、お市は怒らず困惑したらしい。突飛すぎて訳がわからなかったようだ。その心の隙間に、雪はスルリと入り込む。
まず、雪は岐阜での会議の様子を詳かに語った。顕在化した織田家内部の対立、そうして宙に浮いた宗家の立場を。その寄る辺として北畠家を選んだ。織田宗家はもはや北畠家に庇護される立場となり、両者の立場は逆転した。ゆえに天下人の地位が北畠家に移っても何ら問題はない、というロジックを展開。お市を説得にかかる。
話の筋は通っているのでなるほど、と思ったのだが、やはり感情的には納得できない。雪とお市の関係は、やはり日に日に悪化していった。具房は仲を取り持とうと思ったのだが、表面的に仲良くするだけで効果はない。
「はあ……」
具房は湯船に浸かりながらため息を吐く。温泉は気持ちいいし、風呂からの眺めも最高だ。だが、家内で生じている不協和音を思うと憂鬱になる。雪の前ではいい格好をしてみたものの、その弊害を見て嫌になってしまう。やっぱり止めようか、なんて考えも脳裏をよぎった。
そんなとき、白浜の具房に来客があった。北条に上野を追われた滝川一益である。彼は北条軍と寡兵ながらも互角に戦った。しかし力及ばず敗北した。道中、甲信の制圧に乗り出していた徳川家の支援も受けつつ、美濃へ帰還。合わせる顔もないが、帰還の報告をと三法師がいる白浜にやってきたのだ。まあ、相手は子どもなので実際には雪が応対することになる。
しかし、雪は信雄の件がトラウマになって男性恐怖症になっていた。なので代理として具房が会う。
「上野から遥々……さぞ大変だったでしょう」
「ありがたいお言葉……敗軍の将にそのようなお言葉を賜り、恐れ多い限りです」
一益はただ恐縮していた。なお、雪が会わない理由については既に話してあり、納得している。三法師は遊び相手となっている茶々たちに言ってそれとなく話をしている庭先に連れてきてもらった。
「さて、岐阜での話し合いで貴殿には大和を任せることにした」
そう話した上で、引き継ぎなどもあるため一緒に大和入りしてくれと具房は依頼する。大和では引き継ぎの準備が進められ、大体終わっていた。学校は閉校となり、希望する生徒は領外の学校へ転校することになっている。行政文書も伊勢の施設へ移管されていた。残るは最近まで出征しており、論功行賞などやることが山積みの大和兵団だ。
「わかりました」
一益は特に断る理由もないため、この依頼を受けた。
「しばらく白浜に滞在する予定だ。そなたも湯に浸かって長旅の疲れを癒してくれ」
「ご配慮ありがとうございます」
一益は具房が用意した宿に泊まり、温泉と美食を楽しんだ。無論、用意したのは白浜にある宿のなかでも最高のところだ。具房の都合で引き留めてしまう迷惑料も込みである。
白浜を発つ日。具房は雪と蒔、一益、護衛を伴い大和へ向かう。城を一益へ引き渡すと、大和兵団の駐屯地を訪問する。少し早いが、兵団の解団式を行うためだ。
式次第は、
①開会の辞
②訓示
③団旗返還
④閉会の辞
である。具房の担当は②と③だ。この日のためにいい言葉を考えてきた。
「諸君、長い間ご苦労だった。四国出兵での奮戦は記憶に新しいところである。残念ながら兵団は本日で解散となるが、諸君の武勇は長く記憶されることとなるだろう」
具房は端的に訓示を述べた。
その後、このためだけに戻ってきた島左近(団長)が団旗を具房に手渡し、これにて式を終わるとの言葉でセレモニーは終了。最後に左近が壇上に立ち、
「解散!」
と号令。兵たちは被っていた陣笠を投げ、ダッシュで会場から離れる。一見すると奇行だが、予定された行動だ。式が防衛大学校の卒業式を参考にしているため、このようになった。
大和での仕事を終えた具房はすぐさま伊勢に帰還。溜まりに溜まっていた政務を処理する。しばらくは仕事に集中していたが、目処がつくと家族にも構うようになった。子どもたちとも暇さえあれば遊ぶ。
いつもの日常を取り戻しつつあったのだが、安穏とはしていられないようだ。間もなく、尾張と美濃ーーつまり信雄と信孝の間で深刻な対立が発生した。
具房は天下人になることに消極的で、むしろ二番手くらいが丁度いいと思っています。自分は裏から支える参謀みたいなポジションが相応しいと思っているんですね。作者も同じで、学生時代も副委員長とか副部長とかやってました。