怒らせてはいけない人
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具房は雪が泣き止むと同時に事情を訊ねた。彼女が語ったところによると、いきなりやって来て自分の妻になれと言ってきたそうだ。
「妻って……正室はまだいるだろうに」
信雄は佐久間信盛の娘を正室にしていた。本来の歴史なら雪がその立場にいるはずだったが、彼女は房信の正室になった。信雄、信孝が養子に入った伊勢の諸氏族は具房の配下であるため、彼らは織田家に留まっている。必然的に正室は家中から選ぶこととなり、上位の信雄が筆頭家老だった佐久間信盛の娘を娶っている。
信盛の娘はまだ存命だった。独り身ならいざ知らず、妻帯者で言い寄るーー否、手籠めにしようというのだから驚きだ。しかも相手は右大臣の妹で兄嫁。しかも嫡子を産んでいる。そんな相手に手を出して、目的を達しようが達しまいがただで済むと思っていたのだろうか? 具房には信雄の思考がさっぱりわからない。
「いきなり手を出してきたのか?」
ふるふると頭を振る雪。曰く、断るうちに強引になってきたらしい。そして最後は無理矢理ことに及ぼうとしたという。
その日は話を聞きながら、夜通し彼女に付き添った。翌日、具房は緊急で諸将に招集をかける。会議の場で雪に変わって洗いざらい、ありのままのことを説明する。
「そんなバカな」
「三介様(信雄)がそんなことを……?」
家臣たちは懐疑的だった。だが、具房の横にいる雪を見れば尋常じゃないレベルで表情が暗い。秀吉が進み出て確認をとる。
「お方様(雪)。本当なのですか?」
コクン、と。雪は小さく、だがしっかり頷いた。
これは問題だ。大問題だ。集まった家臣は恐る恐る具房を見る。入室した瞬間からただならぬ気配を感じていた。それは怒り。よくもやってくれたな、と具房は怒りを隠さない。
反対意見が非常に言いにくい環境だった。そんなことを言える雰囲気ではないし、言ったら最後、具房が問答無用で切り捨てそうだ。さすがに具房もそこまでするつもりはなかったが、そう思わせるくらいの猛烈な殺気を放っている。柴田勝家ですら、そのプレッシャーを前に置物と化した。
「さて、言いたいことは山ほどある。が、それを呑んで何よりも先に究明すべきことがある」
「そ、それは何でございましょう?」
「此度の一件はなぜ起きたのか……だ」
信雄がどのような動機で雪を襲ったのか、それが一番の問題だ。とにかく本人からも話を聞く必要があるので、具房は信雄を連れてくるように命じる。ひと晩軟禁したためか、かなり大人しくなっていた。
「筑前殿(秀吉)」
「は、はい!」
「究明のため、筑前殿が質すといい」
具房は秀吉に検事役を任せた。これは絵踏である。具房に協力するのか、それとも信雄に味方をするのか。秀吉は逡巡を見せるも、信雄に向き直った。
「……三介様。お方様にその、乱暴を働いたというのは事実ですか?」
「違う」
信雄は最初絞り出すように、だがもう一度はっきりとした声で、
「違う!」
と言った。
「ほう……」
そんな声が具房から上がる。胡座をかき、右肘を膝につけて信雄を睨んでいた。その視線にたじろぎながらも、信雄は弁解を続ける。オレはやっていない! と。
「では、昨日何があったのですか?」
双方の主張が真っ向から対立する。信雄は今まで「やっていない」と言うのみ。当然の質問だった。
信雄は数秒ほど沈黙した後、雪を指さして、
「あ、あの女の出鱈目だ!」
そんなことを言い出した。自分が雪を襲ったのではなく、自分が雪を襲ったかのように彼女が演出した、というのである。
「なるほど。お方様は違うと?」
雪は頷く。具房はあんまりな言い訳に呆れていたが、気を持ち直して秀吉に質問を求めた。
「ならば、貴殿の家臣が侍女たちが部屋に近づくのを妨害していたことについてはどう説明する?」
「さ、さて。何のことかな?」
飛び出したるは伝家の宝刀「記憶にございません」。だが、この場面では竹光である。ため息を吐いた後、具房は何人かの侍女とあの場で捕らえた武士を連れてこさせる。
「そなたは津川玄蕃(義冬)!」
「土方勘兵衛(雄久)!」
織田家臣のなかでは知られた存在らしく、名前が挙がる。具房が知らないのは、信雄との関係が薄かったからだ。
侍女に向けて秀吉が問う。
「昨日、お方様が三介様に乱暴を働かれそうになった、というのは事実か?」
「はい。左様です」
「そのとき、そなたらはなぜ傍観していた」
「違います。傍観していたわけではありません。止めようとしたのですが、そこの津川様、土方様に止められてしまったのです」
「なるほど。……このように申しているが津川殿、土方殿。これに相違ないか?」
「違う」
「我々はただ、殿がお方様と話しやすいよう人払いをしていただけだ」
そのように主張する。
「それは三介様の指示なのですか?」
さすがは秀吉。痛いところを突く。命令されたのか否かでは責任の所在が変わってくるからだ。うっ、と二人は返答に詰まる。すらすらと返事していたのが嘘のよう。そしてこっそり、信雄に視線を送る。
ジト〜。
わかってるだろうな? みたいな視線が返ってきた。変なことをすれば冗談抜きに首が飛ぶ世界なので、二人は覚悟を決める。
「……我々の独断だ」
絞り出すように言った。
(忖度したな)
現代の官僚が得意とする権力者への忖度。戦国時代では家臣が上手かったようだ。同じく権力者の顔色を窺わなければならないという性質を持つ以上、両者の行動が似るのは当然だった。
「なるほど」
秀吉は納得した雰囲気を出す。彼も同じようなこと(忖度)をやっているので、あまり厳しくは言えなかった。
「二人の処分は謹慎と減封が妥当と考えますが?」
その声に、場からは異議なしの声。具房は発声しなかったため秀吉が改めて視線を向ける。不足ですか? という意味だ。しかし、具房は首を横に振る。問題ない、ということだった。かくして両名は謹慎、減封の処分が確定する。
ここで秀吉が重臣と具房、信孝を集めようとした。重臣たち、信孝は応じたが、具房は雪が不安だからと残る。結果を伝えてくれ、とだけ注文した。しばらくして秀吉が現れ、具房に結果を耳打ちする。
(三七様は断固とした処分をすべきと仰ったのですが、今ここでそれをするのは適切ではないというのが我々の考えです)
(それで、どうするつもりだ?)
(三介様は酒に酔って前後不覚に陥っていた。お方様への行い、家臣の行動への責任はとらねばなりませんが、酒に酔っていたということで、謹慎としてはどうか? となりました)
要は、酒のマジカルパワー(笑)で解決しようということらしい。信雄もさすがに自分が不利だとわかっているはずだから、この提案には乗るだろう、ということだった。
(まあ、いいぞ)
(真ですか!?)
(ただし、筑前殿から切り出してくれ)
彼らの妥協案に反対はしない、というのが具房の意向だ。ただ、雪に妥協したと思われたくないので、あくまでも秀吉が言い出して、具房はそれに渋々賛成したという体裁をとる必要がある。それでも大きな貸しだ。
秀吉は納得し、別室にいる重臣と信孝に伝えられる。彼らがぞろぞろと議場に戻ってきた。
「そういえば三介様。先ほど、津川殿から『殿は昨日、酒を飲まれて酔っていた』と聞きました」
は? と秀吉に怪訝な目を向ける。突然何を言い出したんだと。昨晩、信雄は酒を一滴も飲んでいない。酒に酔うはずがなかった。
雪を襲ったのは後見人として信孝よりも優位になろうと、三法師の生母である雪を自分の妻にしようと考えただけだ。関係を持てば彼女も断れないだろうと。なお、今の妻とは離縁するつもりである。実家の佐久間家が力を落とした以上、妻にしておく価値はなかった。
とはいえ計画は失敗。こうして崖っぷちに立たされている。後見人レースから脱落しないためにもこの場を切り抜ける必要があった。そのために頭をフル回転させている。そして、秀吉の意図に気づく。これは自分を助けようとしているのではないか? と。全力で乗っかることにした。
「そ、そうだ。そうだった」
忘れていた、はっはっはと笑う信雄。それを見ていた具房は、軽薄な行動に再び怒りがふつふつと沸いてくる。だが、一度問題にしないと言った以上、前言を翻すような真似はしなかった。
結局、雪を襲った件については有耶無耶のままに、酒を飲んで前後不覚に陥ったことを問題にして謹慎処分が下る。領土配分や後見人の地位についてはそのままということになった。
だが、このままでは何となく納得できない具房。後日、伊勢から戻ると、紀伊から十河存保を呼び出した。
「仕事には慣れてきたか?」
「はっ」
とは言ったものの、三好家とは全然違う統治方式なので戸惑っていた。それでも早く慣れるべく奮闘している。
「今年は残っている兵団で演習を行うつもりだ」
「演習、ですか?」
「訓練のことだ。兵団が集まってやるのだが、今年は海軍も参加する」
織田家のごたごたを一応治め、伊勢に帰ってきたときには秋になろうかという時期だった。北畠軍の秋の恒例行事は兵団の演習である。久しぶりに正規兵団がいるので演習を実施することになったのだが、今回は陸海合同の大規模なものとなりそうだった。
「見学に来ないか?」
北畠軍がどのような戦いをするのか。敵として戦っただけではわからないような内側を理解するには演習が一番だ。なぜなら、そうなればいいなという理想を体現しているから。
「是非」
上司に誘われては断れない。存保は具房の誘いに応じた。今回の演習は長島で行われることになっている。織田家や徳川家、浅井家などの友好勢力の要人を招待。今回からは北条家からも呼んだ。
外部から人を呼んで行う演習は公開されるために演出が加えられている。とにかく派手で、見た者が恐れを抱くような内容だ。つまり、火力を見せつけるものになっている。
「効力射!」
長島から古い弾薬を運び出して使う。運搬にそれほど苦労しないので、使用される弾薬は例年より多い。着弾を示す砂煙が間断なく上がる。
海上ではフリゲートが高速で疾走しながら複縦陣で進む部隊が単縦陣へ移行。しばらくして単横陣へ陣形を変える。その横では戦列艦が単縦陣を組み、岸へ砲弾を叩き込む。
圧巻なのは長島城に備えられた重砲。炸薬量も多く、特に派手な爆炎を上げていた。音も際立って大きく、演習で目立ちまくっている。
「す、すごい迫力ですな……」
存保は圧倒されていた。クレーターが無数にできて地面はデコボコに、草が青々と茂っていた野原が荒野に変わっていく。
「……」
信雄もまたその光景に押し黙る。彼は具房が招待した。謹慎で塞ぎ込んでいるから、たまには新鮮な空気を吸ったらどうかと。もちろんそんな意図はまったくなく、目的は脅迫だ。もし次にバカな真似をしたらこうしてやるぞ、という。その真の目的は彼以外のほとんどの人間が察していた。半ば無理矢理招待したことで明らかである。
あまりの迫力にポカーンと間抜けな顔をする信雄。それを見て具房はとてもいい笑顔だった。愉快痛快、といった様子である。笑顔の分類的には悪い笑みだろう。真意に気づいている人々はそれを見て、具房を怒らせてはいけない、と固く心に誓った。