岐阜会議 後編
ーーーーーー
翌日の会議、その冒頭で具房たちから提案がなされた。
「はあ!? なんでオレが三七と共同で後見しなきゃならないんだ!?」
信雄はブチ切れた。同い年だから何かと比較されることも多い信雄と信孝。その評価は信孝の方が高く、信雄が勝っていることといえば母の出自くらいのものだった。そこに全力で乗っかっているうちに、信孝は自分より下にいて当然、という固定観念が生まれていた。それにしがみついている、同列に扱われることを許容できないため、猛烈に抵抗する。
一方、彼を支援している勝家からすると呑めない話でもなかった。北陸は自分の影響下に入ることになるし、信雄が単独で後見人になるチャンスも残る。前者が確定的な利益で後者は期待できる利益でしかないが、勝家は自分の利益になる方を選んだ。とはいえ、信雄に嫌われると少し面倒なことになる。彼を説得する時間が必要だと考えた勝家は、
「浅井様や徳川様はどう考えているのか、それを照会してからでもいいのではないか?」
という時間稼ぎに出た。動機はともかく言っていることはもっともなので、数日をかけて確認をとる。結果はどちらも了解というものだった。
会議の結果、三法師を信雄、信孝が後見する。養育は実母である雪が担当することになっていた。母子は安土にお引っ越しとなる。宗家は南近江のみの統治を行う。
尾張は信雄、美濃は信孝が治め、北陸(越前、越中、加賀、能登)は勝家とその与力たちに与えられた。秀吉は丹波を自らの隷下に加え、池田恒興は摂津、丹羽長秀は和泉、滝川一益は大和に入る。
具房は雪の依頼により、本来は宗家(三法師)に与えられるはずだった山城を統治することになった。長政は若狭、家康は甲斐と信濃をその版図に加える。以上のことが家臣たちの間で確認された。
「これで問題ありませんね」
秀吉が締める。信孝は信雄と同等の扱いを受けられる時点で異論はない。こうして後見人問題、領地配分も一応、解決した。
「なんでだよ……」
信雄は納得していないようで何かをぶつぶつと呟いていた。だが、具房たちは気に留めることもなくその場を立ち去る。散々に言い合っていたものの、誰もが終わりの見えない会議に疲れていた。ぶっちゃけ、早く終わってほしかったのだ。
「ふう。これで帰れるな」
「さすがお兄様。見事に収めてしまわれましたね」
雪から向けられる尊敬の眼差し。ぶっちゃけあまり褒められたものではない。政治的な意図などは抜きにしても、今回の件で明らかに損している人物がいる。そう、信雄だ。すべての損を彼に押しつけた形である。
そんな状態では異論が出そうなものだが、彼の人望はゼロに等しい。そのせいか誰も異論を唱えなかった。自分が利益を得ていればそれでいいのだから。
しかしながら、具房としても罪悪感を感じざるを得ない。ここまで損を押しつけられて、誰も同情する人間がいないとは最早哀れである。自戒を込めて思う。信用だけは大事にしよう、と。
心の中では罪悪感に苛まれていたが、それを隠して兄弟の時間を過ごす。伊勢にいた頃のようにまったりと、何をするでもなく時間を潰した。だが、不意に雪が何かを思い出したかのようにポン、と手を打つ。
「そうでした」
「? どうかしたか?」
まったりタイムは本当にただまったり過ごすだけ。終わりは夕暮れだったり、何か急用が舞い込んだりしたときだ。それなのに雪から雰囲気を壊すのはとても珍しい。
「先日、三七様(信孝)が訪ねてきたのですが、四国でお兄様に書を書いてもらったとか」
「ああ。見事な能を披露してくれたから、返礼に書を進呈したんだ」
具房が他人様に誇れるレベルの芸事といえば書道しかない。前世ではピアノを習っていたが、肝心の鍵盤楽器がなかった。高槻の教会に最近パイプオルガンが設置されたらしいが、さすがに遠い。現在、パイプオルガンを設置しようと宣教師に交渉、制作待ちである。他に歌も上手いと言われていたが、J-POP(しかも大半はアニソン)を戦国時代に熱唱しても意味はない。
そんなわけで、具房ができる芸事は書道のみ、というのが世間一般の認識だ。ただし、その作品はカルト的な人気を誇っていた。一芸に秀でているからこそ、それが研ぎ澄まされた感じだ。
公文書には直線的でメリハリがある顔真卿調の筆致、私文書には曲線を多用した流麗な王羲之調の筆致を用いる。王羲之、顔真卿の再来だと持て囃されて久しい。具房は誰もが認める今代の書の大家だった。
そんな彼の「作品」を一番持っているのは雪だ。題材は杜甫や白居易の詩文に『孫子』の一説、はたまた自分の名前の「雪」だったりと様々である。自分こそが一番のコレクターだと思っていたが、そのアイデンティティが破壊されかねない出来事があった。
『実は右府様(具房)から書を頂きまして……』
そう言って信孝が見せたのは書道アート。ぱっと見では亀の墨絵だが、中大兄皇子が百済救援軍を率いて伊予から九州へ渡ろうとする際に額田王が詠んだ「熟田津」の詩が書かれ、それが亀のように見えている。具房が信孝に披露した書道アートの作品だった。
「私も欲しいです!」
目をキラキラーー否、ギラギラさせて迫ってくる雪。彼女は具房を敬愛しており、彼のことに関しては彼の妻(義姉)たちにも負けない! と豪語していた、その熱意はお市たちも認めるところである。
「わかったよ」
ブラコン妹が自分のことについて負けられないと思っていることは具房も知っていた。求めを快諾。紙と筆を借りるぞ、とひと言告げて机に向かう。
弘法筆を選ばず、というがその出典は弘法大師の伝説だ。いわば創作。弘法大師の著作である『性霊集』には逆に「能書は必ず好筆を用う」とあり、本人としては筆を選ぶようだ。
具房もやはり最低限の品質はほしいところ。だから他人に筆を借りることは基本ない。だが、雪は例外だ。なぜなら、彼女が使っている筆は具房のお下がりだからである。新品を使えと言ったのだが、泣いて懇願するので仕方なく与えた。
昔使っていた筆を操り、具房は文字を書く。雪への思いを込めて。その思いを字で表す。
感謝
紙面にはその文字が浮かんでいた。
「あれ? 普通の字……」
雪はなんか違う、という顔をする。一見するとただの文字。オーダーは新しい書だったはず。なんで? と兄を怪訝な目で見る。
「よく見てみろ」
気づかないか? と彼女を試すように言う。そう言われると、兄に試されていると思ってやる気を出す。雪は聡明だが、具房限定でチョロくなる。それで知性が失われるわけではないため、隠されたギミックの取っ掛かりを掴む。
「あれ? 崩し方が……」
そう。楷書にしてはやや字体が崩れている。では行書や草書かというと、崩し方がおかしい。具房は楷書を基本としている。行書や草書で書くこともあるが、それにはある程度の決まりがあった。だが、目の前の文字はそのルールを逸脱している。そこに雪は違和感を覚えた。
それこそが謎を解く鍵であった。後は少し考えれば隠された文字が見えてくる。すなわち、
「あ、り、が、と、う、ご、ざ、い、ま、す」
見えた文字を素直に読んでいく雪。
「正解」
具房はそう言って、よくできましたと頭を撫でた。雪は子どもじゃないんですから、と抗議するもののその顔は笑っていた。なんだかんだ言って褒められて嬉しいらしい。
「三七殿に贈ったのは亀の絵になるよう書いたもの。これは、二通りに読める文字を書いたものだ。贈ったのは雪が初めてだぞ」
さらに具房は追撃。贈ったものは特別なものだと伝える。雪が書を求めてきたのは信孝への嫉妬からだ。具房の作品、自分が持っていないタイプのものを先にもらったことに対する嫉妬。ならば、彼女にも同じものを与えればいい。具房の初めてのものを。それで彼女は満たされる。
「っ! ありがとうございます、お兄様!」
雪は満面の笑みを浮かべた。こうして自分の求めを叶えてくれるからこそ、彼女は具房を慕うのだ。
そうこうしているうちに日が暮れようとしていた。具房は自分の宿所に戻ろうとする。雪は渋るが、まだ数日は滞在する予定だからと具房は彼女の部屋を後にした。雪も本気で止めようとはしていなかったので、必ず来てくださいね、と言って別れた。
宿所に戻った具房は届いた書簡を整理し始めた。大名をやっていれば必然的に色々な人と関わる。手紙が送られてくることも多い。季節の挨拶だったり、何かの依頼だったりと、内容はとにかく様々だ。手紙は現代でいうところのメールやSNSであり、割と気軽に送られてくる。転生した頃は面倒この上なかったが、既に日常の一部となっていた。
大体の内容を把握し、送り主の身分や用件などから優先順位を決定。返事を書き始めようと筆をとる。
「そういえば……」
ふと、雪の筆を思い出す。書を書くのに使ったそれは割とボロボロだった。大名が使う筆なので、この時代では最高級のものだ。耐久性も高い。大事に使っていれば長持ちする。だが、さすがに限界があった。結局は消耗品なのだ。
「新しいのをあげよう」
今持っている筆もかれこれ一年ほど使っている。程よい使用感があり、雪も満足するはずだ。善は急げと具房は彼女の許を訪ねる。今日はもう来ないと思っているはずなのでサプライズというわけだ。
というわけで雪の許へ舞い戻ってきた具房。そこで彼は違和感を感じる。
「? 何か騒がしいな」
かすかにドタバタと音が聞こえ、人間が激しく動き回る気配がした。しかも取り次ぎなどをする侍女もいない。
「何かあったのか?」
心配になった具房は、失礼な行為だが無断で足を踏み入れた。そしていきなり異変に気づく。侍女たちが屯しているのだ。彼女たちが目を向ける先には武士が数人。しかも何やら言い争いをしている様子だ。
「通してください!」
「いくらなんでも無作法というものです!」
年配の侍女たちが食ってかかる。武士たちは高圧的だった。
「黙れ!」
「無作法とは何だ!」
と大声を上げて威圧的に振る舞う。若い侍女はそれだけで萎縮し、酷ければ泣くものもいた。さすがに年配の侍女は引き下がらず、抗議を続ける。そのなかには気の短い者もいたらしく、
「話になりません! とにかく通していただきます!」
と強行突破を図る。
「ならん!」
だが、武士が突き飛ばしてそれを止める。侍女は尻餅をつき、痛そうに顔を顰めた。尻餅はとても危険である。小学生などが悪戯で座ろうとしているクラスメイトの椅子を引いて尻餅をつかせることがあるが、下手をすると骨折させてしまいかねない。年配の人間であれば骨粗鬆症を起こしている可能性もあり、そのリスクはぐんと高まる。それに、婦女暴行は感心しなかった。
「おい」
具房は堪らず声をかける。その場にいた人間が一斉に彼を見た。武士は何だ? と具房を睨む。一方、具房の顔を知っている侍女たちは伊勢様! と声を上げた。そしてひとりが懇願する。
「お願いでございます。姫様(雪)をお助けください!」
「ただならぬことが起きていることはわかるが、何があった?」
「それが……」
「三介様(信雄)が急にいらっしゃって、姫様に面会を願ったのです」
「遅いので後日と返答されたのですが、ダメだと押し入ってきたのです」
「止めようとしたのですが、この者たちに邪魔をされてしまって……」
「なるほど」
信雄の目的は知らないが、女性の部屋に押し入るのは感心しない。厳密にいえば具房も同じことを現在進行形でやっているのだが、自分のことは棚に上げる。非常事態ということで。
具房は話を聞いて武士の方へ向き直るとひと言、
「通せ」
と言った。具房の魂は現代人のものだが、北畠家の当主として近衛前久などの大物と渡り合ってきたためにかなりの凄みがある。武士は思わずたじろいだ。だが、信雄からはここを通すなと言われている。命令を破れば自分がどうなるかもわからないため、何とか踏み止まった。
「いやっ!」
一触即発の空気が漂うなか、絹を裂くような悲鳴が聞こえる。雪のものだ。具房が聞き間違えるはずがない。
「通せ!」
今度は言葉だけでなく行動も伴っていた。組打術の要領で相手を倒す。具房は剣術の達人だが、それに付随する技術も修めていた。そうすると他の武士たちが逆上するのだが、
「……大人しくしてて」
どこからともなく現れた蒔が静かに針を打ち込む。針には毒が塗られており、武士たちは身体が痺れて動けなくなった。
「ここは任せた!」
こうして道は切り開かれた。具房は蒔に声をかけながらダッシュ。雪の部屋に飛び込む。そこで目にしたのは、雪を組み敷く信雄の姿だった。彼女の着衣は乱れている。レイプ寸前といった様子だ。
「何をしている!」
「なぜーーっ!?」
言うと同時に一切の手加減なく信雄を蹴り飛ばす。机や衝立など、室内にあるものを巻き込みながら転がる信雄。その衝撃で気を失ったのか、ピクリとも動かない。それを確認した具房は雪に、もう大丈夫だと声をかけた。
「お兄様!」
最愛の兄の姿を見とめた雪は反射的に抱きつき、怖かったと具房の腕の中で声を震わせた。