それぞれの反応 前編
信長たちの死を受けてのそれぞれの反応です。長いので、前後編としました。
ーーーーーー
「殿(明智光秀)。首尾よくいきました」
光秀の許に斎藤利三、明智光忠の両名から使者がやってきて、捕虜から信長と房信が自害したという証言がとれたとの報告がなされた。
「そうか」
それだけ言って使者を下がらせる。冷静に振る舞ってはいるが、心のなかでは安堵していた。上手くいく確証はない、行き当たりばったりの大博打。実際、危ない場面もあった。上手くいったのは幸運というほかない。
京にいた織田一族は逃亡した長益を除いて全員、死亡した。続いて光秀は京の親織田勢力を除くことを考える。その筆頭は北畠家。
光秀は軍を北畠屋敷へ差し向けようとしたが、それはできなかった。既に織田屋敷、村井屋敷へと御親兵が到着。明智軍を抑えていたからだ。光秀の許にも御親兵がやってくる。しかも、訪ねてきたのは具藤。御親兵のトップだった。
「日向守殿(光秀)。此度の事はいかなることか?」
「貴殿には関係ないこと」
「そうはいきません。事は京で起きたのですから」
「「……」」
ああん? おおん? とヤンキーがメンチを切るように、二人は無言で睨み合う。一万を超える明智軍を止めるためにはそれなりの数が必要だと考え、兵が集まるまで出動を見送っていた。その結果が信長、房信という要人の死亡であり、具藤はこれ以上の失態は許されない。何としてでも光秀を止める、と覚悟を決めていた。
具藤は御親兵という実力で明智軍の行動を抑制する傍ら、父親(具教)を使って近衛前久以下を動かして朝廷工作を行い、明智軍に対して京の町から出て行くよう勧告する。従わなければ実力で排除する、と。光秀は京の治安維持には明智軍が必要だと抵抗したが、御親兵という実力組織を持った朝廷の姿勢は強硬だった。
もし京で御親兵を相手に騒乱を起こせば、その時点で朝敵となる。それは謀反以上に危険な行為だ。光秀は仕方なく勧告に従い、軍を京郊外に駐屯させる。今後は織田家の生き残りが復讐に出てくるため、味方を増やすべく周辺の有力者に出す書状を認めるのだった。
ーーーーーー
具房が光秀謀反の情報を知ったのは、鳴門で船を待っているときだった。堺から早船が出て急報を伝えた。
「何だと!?」
それはまさしく青天の霹靂だった。具房は史実を知っている。光秀が本能寺の変を起こすことも。彼と交流していたのは、これを防ぐためだ。
とはいえ、やはり限界がある。信長にいつも警護をつけておくわけにはいかない。光秀の動向を監視してはいたものの、直前まで普通に中国方面へ向かっていた。だから警報を発することができなかった。
それに伴って、具房が張っていた予防措置も機能しなくなる。予防措置とはつまり、御親兵だ。京守護をお題目に掲げているが、実際は京に軍が入るのを防ぎ、本能寺の変を未然に防ぐことが狙いだった。しかし、その試みは失敗した。信長、房信が討たれるという最悪の結果である。
(京で会ったときは危うそうだったが、それにしても早い)
タイミング的には、長宗我部氏が降伏したと伝わってすぐのことだろう。引き金は長宗我部問題だったということになる。
(未来では、長宗我部の件で譲っておけば謀反はなかった、って言われるんだろうなぁ……)
後世の人々の反応を思い、具房は少し憂鬱だ。たしかにそうだが、そんなものは後知恵である。そもそも、長宗我部問題で譲れば北畠家の体制が動揺しかねない。危険な橋を渡って人助けするほど具房はお人好しではなかった。
「父上、どうします?」
「無論、弔い合戦をする」
京へ戻り、明智光秀を討つと具房。盟友である信長を殺されたとあっては看過できない。復讐しなければ気が済まなかった。親しかった光秀といえど容赦はしない。
「しかし、日向守もなかなかの人物。そう簡単に京へ行けますか?」
「たしかに。周りの有力者を取り込んでいるかも……」
具長、顕康は懸念を示す。具房もその可能性は考えていた。
「ならば、味方を増やせないようにすればいい」
具房は畿内に欺瞞情報を流し、光秀の仲間集めを妨害することにした。欺瞞情報とはすなわち、信長親子の生存説だ。二人の遺体は確認されていない。だから現時点で二人は「生死不明」ということになる。生きている可能性もなくはない。これは有効だと考えた。
「「なるほど」」
さすが父上、と息子たちが褒める。だがこれは史実で秀吉が使った手であり、褒められるほどのものではない。
「蒔、頼むぞ」
「……任せて」
欺瞞情報を流すのは忍の仕事。蒔はこの任務を自信満々に請け負った。
とはいえ、これで安心はできない。史実とは異なり遺体が発見される可能性も十分あるからだ。そうなれば周りの有力者は光秀に靡くだろう。京へ入ることは困難になる。それでも行くためには数が必要だ。手許の三旗衆、大和兵団、紀伊兵団だけでもかなりの数だが、余裕を見てもっと欲しい。だが、伊勢に戻って軍を編制していたのではかなりの時間がかかってしまう。
(仕方ない)
具房はここでジョーカーを切ることにした。所謂、奥の手というやつである。あまり使いたくないのだが、信長の仇を討つという目的の前には四の五の言っていられない。若干の躊躇いを覚えつつ、具房はある人物へ手紙を送った。
このように北畠家が具房のリーダーシップの下で信長の仇討ちに動き始める一方、信孝たちは揉めていた。原因は、信孝軍にいた津田信澄。信長の甥だが、その妻は光秀の娘だった。そのため信澄は、光秀の謀反に加担しているのではないかと疑われていたのである。
信孝は謀反に加担しているのだろう、と信澄を責めた。これに信澄は反論する。そんなことがしばらく続いていたが、ついに信孝が限界を迎えた。
「殿! 織田様が津田様を攻めております!」
「っ! 続け!」
具房はその知らせを受けるや、信孝の陣地に急行した。警戒にあたっていて即応可能な北畠軍が慌てて付いてくる。
「三七殿(信孝)! 待たれよ!」
「これは叔父上。いかがなさいましたか?」
「津田殿を攻めるのを止めるのだ」
「奴は謀反を企んだ輩。見逃すことはできません」
信孝は信長を討たれた怒りに思考を支配されていた。普段はこんな短慮を起こさないのだが、父が謀反で討たれるという異常事態を受けて視野狭窄を起こしている。
これに対して具房は落ち着けと言う。感情にはやはり理性だ。理屈でもって説得にかかる。
「いいか、もし津田殿が日向守と共謀していたとしよう。ならばなぜ何の動きも見せていないのだ?」
具房は共謀説では信澄の動きに説明がつかないと主張した。共謀していたとすれば、光秀が行動を起こした段階で信澄も信孝を討つなどの行動をとっているはずである。
「津田殿は『関係ない』と言っていたではないか」
謀反を起こす気ならそもそも話し合いの場には出てこない。行動を起こせばいいだけだ。そうしないということは、謀反に関わりないと考えるのが妥当である。
「しかし、それは欺瞞かも……」
「その可能性もある。それでも、今明らかな材料から考えれば関係ないと考えるべきだ」
議論は証拠に基づいて行う。具房はその姿勢を貫いているが、素養が培われたのは前世、研究者としての人生があったからだ。歴史学においては史料(証拠)が何よりの武器。史料に基づいて論を立てる。それが実証史学における研究だ。まるで歴史学の論文発表のようで少し楽しい。
信孝は怒りに支配されているものの、具房という逆らってはいけない存在に対して噛みつかない、という最低限の理性は残していた。反論が難しいと気づくと、トーンダウンする。それでも納得がいかない様子だ。
「ならば、わたしに津田殿を預からせてくれないか?」
身柄を預かるということは、信澄の兵権を剥奪するということだ。仮に謀反に加担していても実力がなければ問題ないだろう、というわけである。信澄へは具房から話すとした。
「それならば……」
信孝は渋々同意。ただちに攻撃が中止された。両軍の間には万が一がないよう北畠軍が入り、監視の目を光らせる。具房は信澄の許へ向かい、信孝との合意事項を伝えた。
「津田殿。貴殿は舅殿(光秀)と共謀しているわけではないのだな」
「はい。本当です。信じてください!」
「まあそう慌てず。実はわたしも両者は関係ないと思っていた。おかしな点が多いからな。そこで、三七殿に話をつけてきた。貴殿をわたしが預かることで、ひとまず事を収めたい。……どうだろう?」
「……右府様(具房)は某の無実を信じてくださっているご様子。わかりました。それで収まるならば喜んで」
「感謝する」
このままでは本当に殺されかねない。信澄は北畠家預かりとなることを承知した。これを見て、信孝も取り敢えず矛を収める。そして具房と一致協力して敵討ちをすると誓った。
ーーーーーー
中国で毛利攻めをしていた羽柴秀吉が信長の死を知ったのは、史実のように毛利家に宛てた密書を読んだからではなく、具房が使者を送って報せたからだ。
「何ということだ……」
秀吉は百姓にすぎなかった自分を取り立ててくれた信長に恩義を感じていた。彼はいわば、武将としての父。その死ーーしかも寿命ではなく謀反による非業の死に、秀吉は言いようのない悲しみを覚えた。
そこへ軍師である黒田官兵衛がやって来た。美濃で功績を挙げて以来、秀吉の躍進を支えてきた竹中半兵衛は既にあの世へと旅立っていた。信長が父とすれば半兵衛は妻のような存在。別に官兵衛が劣っているというわけではない。だが、半兵衛に対する感謝の念は大きく、彼までもがいないことで秀吉の喪失感に拍車がかかった。
しかし、そんな哀愁に浸っていることを官兵衛は許さない。
「殿(秀吉)。(備中)高松城の開城は間もなくですな」
「そうだな」
史実通り、秀吉は備中高松城を水攻めにしていた。城将の清水宗治は援軍が来ているからと粘ったものの、兵糧が今にも尽きかねない状況に陥っている。また、毛利家も家中が動揺しており織田家と戦っている場合ではなくなっていた。このような状況から、毛利家は秀吉に講和を申し入れている。
毛利家は備中、備後、美作、伯耆、出雲を割譲する代わりに城兵の助命を提示。一方、秀吉は五ヶ国の割譲と清水宗治の切腹を要求した。宗治の切腹は呑めない、と毛利側が交渉を断念した。
しかし、尻に火がついているのは毛利家の方だ。城へ交渉役である安国寺恵瓊を派遣。宗治に対して降伏を勧めた。城を降伏させ、交渉からその処遇を除こうとしたのである。ところが、
「自分は城と運命を共にしたく」
と言って宗治は降伏を拒否してしまう。恵瓊は切腹を要求されていると伝え、降伏すれば助命されるかもしれないと翻意を迫るが、宗治の意思は変わらなかった。首を望むなら差し出す、と宗治。ならばと恵瓊も宗治の切腹という秀吉が出した条件を呑むことにする。輝元ほか、毛利家首脳陣も了承した。
他方、秀吉も信長の横死を知ると、官兵衛と相談した上で軍を引き揚げることを決意。早期に講和を纏めるべく、割譲範囲を五ヶ国から三ヶ国(備中、美作、伯耆)に減らした。
再び交渉の席が持たれ、互いに条件を引き下げたことで交渉は妥結。和睦が成立した。秀吉はすぐさま軍を引き揚げたかったが、余裕を見せて信長の死を悟らせないようにすべきだという官兵衛の進言もあり、強者ムーブに徹する。
交渉の結果を伝える恵瓊に酒と肴を持たせた。最後の晩餐を楽しめ、というわけである。余裕を演出すべく、秀吉秘蔵の伊勢産最高級の清酒とイカの塩辛、鮎など豪華なものが贈られた。
翌日に宗治は兄と弟、援軍として来た小早川家臣と共に城を出て、秀吉と会見する。舞と辞世の句を披露すると四人は次々と切腹。介錯を担当した家臣も自害した。
「清水左衛門尉(宗治)、実に天晴れ」
秀吉は大げさなまでに宗治を称える。彼らの自害を見届けると、城の接収にかかった。杉原家次を城代に置き、宇喜多軍を毛利への抑えとして残す。他はすべて秀吉とともに上洛することとした。
「よし、陣を引き払え」
「お待ちください」
撤退命令を出そうとした秀吉だったが、官兵衛に待ったをかけられる。彼はあと一日待つべきだと主張した。
「備えはありますが、毛利が下手な動きを見せないよう一日は監視しておくべきです」
「官兵衛がそう申すのならば、しばらく待とう」
信長の仇を討つと息巻いていた秀吉だが、心のどこかでは毛利が襲ってくるのではないかと心配していた。背後から襲われたのでは光秀討伐どころではない。ゆえに知恵袋である官兵衛の意見に従った。
幸いにも毛利軍は約束を守るつもりらしく、怪しい動きを見せなかった。今度こそ秀吉は撤退を命令。官兵衛も反対しなかった。そして羽柴軍は昼から一斉に東進を開始した。
秀吉が去ったことで毛利家に対する情報統制が緩む。そのおかげで親しくしている公家からの手紙が輝元の許に届き、光秀の謀反を知らせた。
「今すぐ追うぞ!」
吉川元春は逆転の好機と見て講和を破棄し、秀吉を攻撃するよう主張した。これに小早川隆景が異を唱える。
「交わした盟約を理由もなく破れば我らの信用が失われます。そんなことをしてはなりません」
謀将とまでいわれた元就時代は毛利家の信用など無いも同然だった。しかしその死後、毛利家は天下を狙わない代わりに天下人を支えるという方針を打ち出した。以来、毛利家は信用を第一としている。理由なき和睦破りはそれを壊してしまう。信用とは築くために時間がかかるが、壊すのは一瞬である。お家のためにここは自重すべき、と隆景は説いた。
「その通りだ」
輝元もこれに賛同し、元春の意見は退けられた。秀吉は史実通り上手く話をまとめ、決戦の地である京へと軍を急行させる。
なお、後でこの話を聞いた義昭の機嫌が頗る悪くなったことは言うまでもないだろう。