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北畠生存戦略  作者: 親交の日
第十一章
150/226

具房と宣教師

 



 ーーーーーー




 具房はいうまでもなく、織田政権における重要人物だ。信長に次ぐナンバー2であり、彼との太いパイプを持つため、人々から注目されている。具房個人を見ても、国内で並ぶ者がいない資産家で、領地からは様々な名産品が売り出されていた。面会を希望する者は多く、北畠屋敷は人が頻繁に出入りしている。そのなかには宣教師もいた。


「ふう……」


 畿内における布教の責任者であるルイス・フロイスが紅茶を飲み、ひと息吐く。北畠屋敷は具房が当主となってから京の拠点として建てられたものだが、当初は具教とその家族が住んでいた。父親が統治に干渉しないよう、体よく追い払ったわけである。


 だが、最近は具房が京で活動することも増えてきた。そのため、屋敷は増築されている。目玉は珍しい西洋式の家屋。履物スリッパを履いたまま過ごす空間で、モデルは具房が前世、友人に連れられて参観した記念艦三笠の長官公室だ。真っ先に思い浮かんだ西洋風の部屋はベルサイユ宮殿やエカテリーナ宮殿など、キラキラしたものばかり。これでは落ち着けない、とあれこれ悩んだ結果、質実剛健であるが、必要最低限の華美さを併せ持つ三笠の長官公室となった。


 そしてこの西洋式の家屋がある北畠屋敷は宣教師の人気を集めている。雰囲気や様式がヨーロッパ(故郷)のそれと似ているからだ。おかげで落ち着くことができる。南蛮寺(教会)は既存の寺院を流用するか、日本の建築様式に従って建てられていた。北畠屋敷は本来の生活環境に近いので、宣教師たちは機会を見つけては訪れる。しかも、ここが使われるのは具房在京時のみなので、訪問は戦争にも等しい激しさを見せた。


 しかし、そんな戦争はヒラの宣教師の話。フロイスはトップという立場を利用して具房が上京する度に屋敷を訪ねていた。このことから察せられるように、具房と宣教師(キリスト教勢力)との関係は親密だ。真珠や絹といった特産品は北畠領で生産され、売られている。ヨーロッパ向けの商品は、今井宗久などの堺商人を介する形で卸していた。その量は具房の裁量であり、その増大のために宣教師は色々と利益供与している。


 最近の大きな仕事は奴隷狩りに遭った日本人の救助だ。北畠軍以外では、未だに戦の報酬を略奪による成果としている。対象となるのは穀物や金品だけではない。人もそうだ。特に九州では海外へと売り飛ばしているという有様である。制止がかかっても、秘密裏に行われている状態。これを憂慮した具房は輸出される前に捕捉し、買い戻していた。既に海外に連れて行かれた者も、見つければ買って帰国させている。それにイエズス会は全面協力していた。


「我が国(日本)の民を奴隷として売買することは止め、買い戻しに協力していただきたい。我々は好意には好意で返す。ゆえに、友好的な関係を築けると確信している」


 と、具房は宣教師たちを脅している。要するに、協力してくれなければ布教を認めないということだ。彼らの目的は交易ではなく布教である。その弱みを突いた。


 こうした脅迫が奏功したのか、イエズス会は積極的に日本人奴隷を探索。その保護を行なっていた。対価は特産品である。この程度なら安いものだ。


 きっかけはあれだが、布教を至上命題とするイエズス会側はこれに応じ、日本人奴隷の海外流出阻止と買い戻しに協力。具房もこの好意的態度に応え、イエズス会に金銭を寄付したり、領内に教会建設の許可を与えたりしている(ただし、体制に武力反抗を試みた場合は取り締まることとしている)。


 また、毛利家との交戦、長宗我部家との関係悪化に伴って北畠領に移住することとなった元奴隷たちの輸送が困難となると、イエズス会は自分たちの船でこれを輸送していた。とはいえ船数はそれほど多くなく、長崎や平戸に人が渋滞するという事態が起きる。これに対しても具房が資金を出し、現地に一時的な収容施設を建設してイエズス会が対応していた。


 このように、具房とイエズス会は良好な関係を築いている。食事に関しても伊賀で飼育されている牛をはじめとした畜産物を食べていた。和牛の特徴は豊富なサシだが、この時代は品種改良されていないので赤身肉だ。それを宣教師たちは盛んに食べている。食肉の分野でもお得意様のひとりだった。


 具房からの文化ハザードも起きている。そのひとつがお茶だ。日本人が抱くヨーロッパ人(特に中世)のイメージは、豪華な服を着て優雅に紅茶を飲んでいるというものだろう。だが、紅茶が一般に飲まれるようになったのは十七世紀のことだ。それがおよそ一世紀早まった。


「九州の施設の件、感謝する」


「ワタシタチニキョウリョクシテイタダイテイルオカエシデス」


 具房とフロイスは椅子に座ってお茶とお菓子を食べながら会談する。冒頭で具房は九州で奴隷を受け入れる施設を造ってくれたことへの感謝を伝えた。奴隷返還運動を始めて数年が経ち、海外にもそのことは伝わっている。情報伝達が遅いこの時代だが、ようやく人々に周知されつつあった。その結果、返還に反対する人間を除いて奴隷の返還(買い戻し)に応じている。


「帰国者は増えそうか?」


「ハイ」


「そうか……」


 かなりの数が移住している。これでもすべてが奴隷というわけではなく、帰郷を望む人間は省いての数だ。だが、まだいるらしい。具房は当初の想定より、事態は深刻だと気づかされた。だからといって余裕がないわけでもなく、止めるつもりは毛頭なかったが。


(それに開拓村も増えているし)


 領内が安定している上、戦争が起きても常備軍であるため戦いに出る人間はある程度、限定されている。おかげで治水工事などの大工事も行えていた。これが進めば宅地や農地をさらに広げることができる。食糧も足りていないわけではないので、ここで少し多めに人口を抱えて必要なときに吐き出すことも考えていた。その間も遊ばせておくわけではなく、都市で労働者として働いて自立させることもできる。


 加えて、北畠領は他領からの人口流入が激しい。家族ごとの移動は禁止されている場合もあるので、多くは単身もしくは子どもひとりを連れてということが多かった。そういう場合はほとんど男親であり、女性人口が過多となりがちな伊勢の男女比を均衡に近い状態に修正してくれている。


「ヤメマスカ?」


「いや、そのままでいい。船もいくらか融通しよう」


 具房は輸送力を強化するため、ガレオンを供与することにした。イエズス会の船ならば攻撃される心配はない。収容施設から出る人間を増やさなければパンクしてしまう。対応は急務だった。


 会談の内容は政治の色が濃いものばかりではない。文化的な話もしている。今回は、具房が前々から依頼していた物が届いた。ひとつは炒るといい匂いがする豆ーーそう、コーヒーである。


 具房は海外に興味があった。しかし、今の身分では行けないし、何よりも危なすぎる。そこで、ヨーロッパで生まれて地球をほぼ半周して日本にやってきたフロイスに、旅の思い出を語ってもらっていた。そんななかで、


「イキョウトガヘンナモノヲノンデイマシタ」


 という話題を出した。イスラム教徒が珍妙な物を飲んでいた、と。この話を聞いた具房はすぐにそれがコーヒーであることに気づく。研究者の必需品である。前世ではカフェイン中毒になりそうなほど飲んだ。存在を聞かされると飲みたくなってしまう。


「面白そうだ」


 好奇心が湧いたという体で、フロイスにその入手を依頼した。そして今回、コーヒーが届いたのである。トルココーヒーのように上澄みを飲む。お湯を注げば独特のいい香りが立ち上る。


「苦い。が、なんとも言えない美味さがあるな」


 具房は顔を顰めて見せた。いきなり美味い美味いと飲んでは違和感を与えてしまう。そこでこうした演技を挟み、自然さを演出する。


「キニイリマシタ?」


「ああ。これからも仕入れてくれ」


「ワカリマシタ」


(よし、コーヒーゲット!)


 心のなかでガッツポーズする具房。コーヒー好きの彼としてはとても嬉しい。フロイスが帰ってから、今度はトルココーヒースタイルではなく、布で漉して飲む。粉に注意しなくていいため、こちらの方が楽に飲めた。


 余談だが、いい香りに誘われて敦子や蒔も飲みたいと言い出した。オーダーに応えたのだが、


「うっ!?」


「……苦い」


 案の定、苦いという苦情が出る。敦子は良家の子女ということも忘れ、うえーと小さく舌を出す。蒔に至っては、(忍者)修行に使えるとまで言い出した。


「はははっ。やっぱり苦いか?」


 コーヒー初心者あるあるで、具房は笑ってしまう。修行でヤバいものを色々と食べている蒔の言い草はとても面白かった。が、そういう態度は人を不快にさせるもので、


「「……」」


「ぐふっ!?」


 嫁二人に無言の肘鉄を食らう。いくら肉体を鍛えても脇腹は弱い。しかも不意打ち。具房は悶絶した。が、同時に嬉しくもある。別に具房が痛みを快感に変えるドMだからというわけではなく、最初は暴力沙汰に困惑していた彼女が遠慮なく振る舞えるようになったことが嬉しかったのだ。


 閑話休題。


 話は戻って具房・フロイス会談。フロイスが用意した品物、もうひとつはゴムだった。


「おお、これがゴムか」


「フシギデショウ」


 コロンブスがよく弾むゴムボールを見て驚いたという話。旅の話を好む具房を冒険好きだと考えたフロイスは、稀代の冒険家であるコロンブスの話をした。そのなかで新大陸の不思議なもの、としてゴムの話をしたのだ。


 これに具房は食いついた。生ゴムだと。加工すればゴム製品ができる。色々な用途で使えるが、大規模に生産するわけではないので自ずと使途は限られてしまう。そうなったとき、真っ先に考えられるのは軍事利用だ。


 まず思いつくのはタイヤ。ゴムタイヤの利点は摩擦係数の大きさ。これによって滑りにくくなり、坂道なども少しは楽に運べるようになる。また、伸縮性があるため衝撃を吸収し、移動による損耗を抑えてくれることも期待できた。大砲や大八車など、車輪のついた装備すべてをこれにしたいところだ。空気入りは難しいかもしれないが、ソリッドタイプでも効果が見込める。


 加えて、ゴムは避妊具にも使えた。軍隊で怖いのは病気だが、特に梅毒などの性病は恐ろしい。罹患すれば兵士は使いものにならず、部隊の戦闘力が低下してしまう。しかも、感染原因が生殖という人間の根本的な欲求に由来するものだから我慢しろとは言えない。そんなことをすれば暴発して、近隣住民を強姦しかねなかった。


 適度に発散させる必要があるため、具房は専属の娼婦を用意。各部隊の駐屯地に置くとともに、出征に際して拠点を置いて長期間駐屯する場合は陣地へと派遣していた。これまでは厳しい制約(兵士は妻と娼婦のみ、娼婦は兵士のみを相手する)を課していたが、違反者はやはり出る。ひとりが感染していると、それが複数人に行為を介して伝染してしまうため、対応に苦慮していた。ゴムの登場は、地味に頭の痛いこの問題を解決してくれるかもしれない。


(まあ、今は試作だけだけど)


 あくまでも興味本位で注文したので、それほど多くのゴムは用意されていなかった。ヨーロッパでも不思議な物質ということで珍しいがられているだけである。有効利用できることはたまたま発見したという体で明らかにしなければならず、本格的に輸入するのはしばらく先のことになるだろう。


 それから話は海外市場の動きになる。気になるのはドル箱商品である真珠。アクセサリーにするなどの加工もしているが、その需要はどうなっているのかはかなり気になっていた。需要が減るようなら、財政に打撃を受ける。だが、


「トッテモニンキデ、モットタカクウレマスヨ」


 ヨーロッパにもたらされた日本産の真珠は、徐々に王侯貴族の間に広まっている。ご婦人やご令嬢は真珠の品質で競っているらしい。高位の貴族は他所に負けてはいられない、とより大きく美しいものを求めているそうだ。


(よし、需要はまだまだあるな)


 国内の需要はまだ少なく、真珠に関しては対外貿易が主力になる。ヨーロッパでの需要の落ち込みは痛い。この時代、真珠を買えるだけの購買力を持つ層は少ないからだ。具房としては、このまま日本産の真珠を持つ者はすごい、みたいな風潮ができればいいなと思っていた。


 このようにフロイスたち宣教師を介して海外市場の動向を把握し、ビジネスチャンスがあれば掴もうと思っていた。具房はヨーロッパのことはあまり知らず、予備知識はエリザベス一世やフェリペ二世が活躍している、ということくらいである。だから情報収集には余念がない。


 情報交換も済み、宣教師との会談は終わる。だが、彼らとの話は長時間にのぼり、午前中なら昼食、午後なら夕食の時間にかぶることは常だった。だから、


「食事を一緒にどうだろう?」


「イタダキマス」


 と食事に誘い、フロイスたちは喜んで応じる。こういうとき、料理人も気を利かせて洋食を用意していた。


「パンガヤワラカクテオイシイ」


 彼らが気に入っているのは小麦で作られた白パン。ヨーロッパにおいて、庶民が食べるパンにはライ麦などの混ぜ物がされている。また、皿として使われるほど硬いパンが普通だ。なので、混ぜ物がなくフワフワしたパンはヨーロッパ人にとって新鮮だった。


 伊勢において主食は米である。裏作として麦を作っているが、あくまでもメインは米だ。それで主食はある程度賄えているので、パンは主食というより嗜好品にカテゴライズされる。嗜好品は生活に必ずしも必要ない。食べるのは余裕のある人間で、質が高くなるのは当然といえた。


(この力は危険だ。カブラルを止めなければ我らの立場が危うい)


 フロイスはにこやかに具房と会食しながら、改めて北畠家の強大さを確認する。このような強力な勢力を擁する日本を、現在の布教区責任者であるカブラルがやっているように、強引に自分たちの習俗に馴染ませようとすると反発を招く。無事でいられる保証はない。


 活動拠点である南蛮寺に戻った後、フロイスは九州のカブラルに書簡を送り、布教方針を日本の習俗に適合させたものに戻すように要請するのだった。








【解説】イエズス会


 キリスト教には大きく三つの宗派(カトリック、プロテスタント、ロシア正教)があることは皆さんご存知だと思います。カトリックではさらに「○○会」のような細かな組織に分かれていまして、ザビエルが所属したイエズス会の他にフランシスコ会、ドミニコ会などがあります。このような修道会は現在ざっと九十くらいあるとか。宗教ってややこしいですね。


 そんな数ある修道会のなかで、戦国時代の日本ではイエズス会が最も初期に活動していました。歴史の教科書などにもあるように、伝来したのは1549年。イエズス会はその辺りから布教活動を始めます。他の修道会が日本にやってきたのはフランシスコ会1593年、ドミニコ会1592年のこと。ローマ教皇が日本での布教をすべての修道会に許したのは1600年のことです。


 イエズス会は当初、日本に布教するために日本の習俗に倣った生活をし、社会へ浸透していくという方針をとりました。これを適応主義といいます。ところが1570年、新たに布教責任者となったフランシスコ・カブラルはガチガチの人種差別主義者で、日本人を低俗な人種と蔑視。適応主義を放棄し、日本のヨーロッパ化を目指します。これは人々の反感を買い、布教活動は難航する結果となりました。この状況をアレッサンドロ・ヴァリニャーノが問題視し、カブラルは81年に布教責任者の職を解任されます。その後は適応主義に回帰し、勢力を回復します。ただ、適応主義はイエズス会が日本でとった独特の方針で、基本的には自分たちの様式を押しつけるというスタイルをとります。


 この時代のキリスト教は宗教改革の影響もあり、かなり自己中心的なものとなっていました。その点からいうと、日本を最初に訪れたのがイエズス会でよかったと思います。もし他の修道会だったら、日本の歴史は今よりもはるかに混乱していたかもしれません。

 

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