信長の天下
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畿内で四国攻めに向けた準備を進めている具房。そんな彼の許を父・具教が訪ねてきた。ニヤニヤしている。
(あ、嫌な予感……)
この笑みを浮かべている具教がまともな話を持ってきたことがない。具房は適当な理由をつけて今すぐ逃げ出したい気持ちになる。無理だが。
「聞いたか?」
「何を?」
「右府(信長)が職を辞したそうだ」
「えっ?」
寝耳に水だった。そして、彼がニヤニヤしていた理由を察する。順番的に信長が辞めた後の右大臣候補は具房だ。実力からしても最有力。そして具教のニヤニヤだ。恐らく内示を受けたのだろう。
「誰が次の右大臣なのでしょう?」
「そなたに決まっておろう」
(ですよね〜)
そうじゃないかと思っていた。僅かな可能性に賭けたが、幻想にすぎない。
(え? 拙くない?)
無官とそうでないのとでは立場が違う。しかも官位が下ならばともかく、ノータイムで同じ官職に就く。しかも具房の方が年下で、総合すると格上ということになってしまう。天下人より格上の武士ーー粛清される要因になりかねない。具房は自分も官位を辞すべきかと考えた。
(いや待て。それはそれで心象が悪いか?)
あからさまに気を遣うと逆に印象が悪くなるかもしれない、と具房。彼は迷った末、信長に訊くことにした。あれこれ考えて地雷を踏むより、お伺いを立てようという自己防衛策である。
アポをとり、信長に面会。その場で自身の進退について訊ねた。
「はははっ!」
返ってきた反応は爆笑。具房は困惑する。
「何かおかしかったですか?」
「いや、すまん」
信長は気を悪くさせたと謝罪した。公式の場ではないので、二人とも砕けた態度だ。
「別に我に気を遣う必要はない。むしろ、これからも栄進して左大臣、太政大臣になってもらいたいところだ」
元々、朝廷は具房が押さえるという話だっただろう? と信長。さらに彼は裏話も話してくれた。曰く、房信に自分の官位を引き継がせるよう求めたのだが、次の天下人といえども色々とすっ飛ばして大臣職というわけにはいかないという。なら、具房がなる方がマシだと。
「しかし、なぜ急に?」
信長の辞職は急なことだった。その理由が気になり、訊ねてみる。すると、信長の表情が真剣なものになった。
「義弟殿(具房)。世が乱れるのは、上に立つ者に力がないからだ。しかし、それから与えられる権威なくば、民草は納得せぬ……。だから我は、その力を取り入れようと思うのだ」
「……つまり?」
「権威を与えられるのではなく、与える側になるのよ」
信長は壮大な構想を語って見せた。つまり彼は官職を辞して自身を朝廷の組織から外れた存在とし、その立場で政治を行う。これによって、信長本人は朝廷の影響下から脱することができる。それが、彼の思い描く天下であった。
(やっぱりな〜)
そうではないかと薄々思っていた。彼の構想がわかれば、自ずと自分に期待される役割にも察しがつく。
「義弟殿は朝廷を押さえておいてほしい」
やはり信長は具房に朝廷を掌握する役目を与えようとしていた。信長の天下構想では、信長の下に朝廷がくる。だから、具房が朝廷内でどれだけ高い官職に就こうが関係ない。具房の懸念は外れていた。
(ひとまず安心?)
とりあえず具長の代までは問題ない。それ以降は不透明だが、それを気にしても仕方がないだろう。
訊きたいことはなくなったので、以後は情報共有。関心事は二つ。ひとつは北陸戦線の状況、もうひとつは中国戦線だ。
まず、北陸戦線について。北陸は雪深く、冬は軍事行動が難しい。よって雪解けから秋までが勝負となる。そしてその時期に合わせて浅井長政率いる北陸方面軍は大規模攻勢に出ていた。
「上杉軍は守りに徹しておる。城だけでなく森などにも潜んでいるらしく、苦戦しているようだ」
「わたしのところにも同じような報告が来ました」
情報源は同じなので、二人が持っている話もほぼ同じだ。ただ、具房は密かに上杉家に武器を売りつけているため、内情を信長よりも少し詳しく知っている。上杉家の行動をひと言で表すと堅忍持久。山岳や森など自軍に有利な場所に籠もり、ひたすら耐える。そうして時間を稼ぎ、国内の不穏分子を粛清。越後を再統一して、反攻に乗り出そうとしている。
「商人の報告によると、上杉は奥羽の勢力との和睦を画策している様子です」
「伊達などには話をしておくか」
具房が持っている情報のなかで、表に出しても問題ないものはちゃんと開示する。景勝は外交努力によって状況を打開しようとしていたが、信長たちの話し合いひとつで水泡に帰す。何とも憐れな話であった。
「義弟殿。そなたが行って突破口を開いてはくれぬか?」
「そうしたいところですが、北陸は厳しいですね」
北畠軍の強さを支えているのは、絶大な工業力を背景にした物量戦。そのためには兵站の確保が必要不可欠だ。物資が保管されている長島から北陸は遠い。陸路で輸送していたのでは何年かかるかわからないし、海路を使うにしても本州をぐるりと回らなければならず、これにも時間がかかる。敦賀から日本海の海運に乗せるという手もあるが、船数が足りない。派遣できる兵力はわずかだろう。
「そうか……」
信長は残念そうだ。ジョーカーともいえる北畠軍を投入しようとしたのは、なるべく早く東国の戦に決着をつけたいからだ。焦っているのは、中国戦線の状況が緊迫してきたから。
小早川隆景が浅井久政の越後での活動を援護しようと始めた大規模動員。思いの外、上杉家が粘っていたため、かなりの効果を上げていた。
「北陸からは増援の要請。中国からもだ」
どっちにしよう? と迷う信長。上杉を潰せば東の軍を西に回せるが、毛利に中国を突破されると敵が中枢へと雪崩れ込んでくる。それを考えると、西に兵力を割きたいところ。非常に悩ましい。
「義弟殿。中国に派兵できぬか?」
「できますけど、四国攻略が遅れますよ?」
物資の蓄積は進んでいるので、中国(山陽道)方面での作戦は可能だ。しかし、部隊の運用計画に中国での作戦は想定されていない。ねじ込むことはできるが、四国攻略作戦の計画を抜本的に見直す必要がある。それは四国攻略の遅延を意味していた。
「う〜む」
唸る信長。手許の戦力をどこにどう振り向けるのか。難しい判断を迫られていた。悩んだ末、中国へ軍を送ることにする。北陸で上杉に攻められることはないはず。なので、毛利への対応が優先された。
「四国は任せたぞ」
「はい」
二人は方針をある程度共有して別れる。屋敷に帰ると敦子に会談の内容を訊かれた。具房たち有力者の会談は公家たちの関心事である。京での外交を担う敦子はこうして内容を訊ね、情報をある程度リークすることで恩を売りつけていた。
「中国に兵を?」
「そう。毛利軍が集結しつつあるらしい。義兄殿(信長)はこれを大規模攻勢の予兆だと考えているそうだ」
「なるほど」
質問されて答えるのは、なんだか総理や大臣の記者会見のようだという感想を具房は抱く。もっとも、それらのように質問を予め通告されて官僚が答えを用意してくれているわけではないので、回答は慎重にしなければならない。普段、具房と敦子は仲のいい夫婦で会話は和気藹々としているのだが、このときばかりはそんな雰囲気はなく、互いに真剣そのものである。
しかし、それが終わればすぐ仲睦まじい夫婦に戻った。雰囲気の変化は合図でもあり、オフレコの話も出る。具房が語ったのは当然、信長の天下構想であった。
「不敬です」
敦子はご立腹である。当たり前だ。彼女は久我家のご令嬢。その父・晴通は近衛尚通であり、近衛家は五摂家筆頭の公家でも最高位の存在だ。朝廷はかつてのように日本を直接統治する力こそ失ったものの、統治者を選ぶという権威は残っていた。それこそが公家たちのアイデンティティーであり、それを失わせようとしている信長に悪い印象を抱くのも無理はない。
「あなた様からも織田様に言ってください」
「それは難しいな……」
諫言しようものなら粛清対象だ。慎重な立ち回りが要求される。が、そう言うと敦子の機嫌が目に見えて悪くなった。信長の肩を持つのか、と言わんばかりだ。
「気を悪くしないでくれ。俺だって反対だ」
具房は本音を漏らす。朝廷とは異なる独自の権威を構築するという信長の構想は近世初期の構造だ。豊臣秀吉は関白を辞して太閤となり政治を行った。徳川家康、秀忠も将軍を辞して大御所として政治を行っている。「太閤」も「大御所」も朝廷の官職ではない。彼らはある程度、朝廷から自立して政権基盤を築いた。
だが、江戸幕府の歴史を見ればわかるように、その権威は薄弱だ。西洋の存在(脅威)に晒されると体制は動揺した。明治維新によって政治の主体は結局、天皇に帰している。だからこそ、具房は朝廷(天皇)の力を高め、天皇の権威で世を治めるべきだと考えていた。失敗することがわかっているのに、敢えて誤った選択をする者などまずいない。
「何とか考えを改めてもらえるよう、努力する」
具体的には近衛前久などの公家を動かす。彼らも自分たちの立場が危ういとなれば必死になるはずだ。それに、五摂家レベルになるとさすがの信長も手を出せないはず。そんな計算の下、具房は前久など信頼できる公家に情報をリークした。
公家たちと話し合い、信長を再び朝廷機構に取り込むしかないという結論になった。与える官職は太政大臣。関白や将軍なども検討されたが、血筋(織田氏は平氏)や現実問題(義昭を解任したところで、世間が信長を将軍として認めるのか)から流れた。太政大臣就任を断られたら再検討、ということにはしていたが。
(上手くいけばいいが……)
具房の構想が実現するか否かは今、重大な岐路に立たされていた。
【補足】首相会見
安倍晋三前首相は答弁(令和二年三月二日、参院予算委員会)で首相会見では記者と広報室との間で打ち合わせが行われているという主旨の答弁をしています。防衛省や警察庁などの省庁も、会見には記者クラブに所属している記者(大手メディア)しか参加できない閉鎖的な環境になっている。もっとも全部の省庁がそういう体制ではなく、厚労省や外務省はフリーの記者が入れるようなものになっています。