公方と諸侯
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甲斐を脱出。勝頼の子どもを連れて織田、徳川、北畠の勢力圏を突破するという、毛沢東もびっくりする大胆不敵な行動をとった浅井久政。彼はやっとの思いで鞆に着いた。
「あ、浅井殿!? 何というお姿で……」
鞆にいた穂井田元清が久政の姿に驚く。乞食のように薄汚れ、着物は襤褸となっていたからだ。
久政はかくかくしかじかと事情を説明。身なりを整えた後、義昭に面会して武田家の末路を伝えた。すると義昭は、
「この愚図が!」
と怒り、久政を罵倒する。なぜ止めなかった、武田が滅ぶとどうなるのかわからんのか!? と激しく責め立てた。
義昭に言われるまでもなく、東国における武田家の重要性は理解している。だが自分がどうこう言ったところで、あの場はどうにもならなかった。言いたいことは山のようにあるが、久政は黙って受け入れる。信長たちへの復讐のためには旗頭として義昭が必要で、反感を買うわけにはいかない。黙って耐えた。
ひとしきり言いたいことを言ったらしく、義昭は一度大人しくなる。しかし怒りは治らないのか、以後は同じことを何度も繰り返した。そして満足したところで、
「下がれ」
と命令される。
「浅井殿、あそこまで言われて悔しくないのですか?」
退出した久政に声をかけてきたのは元清だった。ボロクソに言われたのに、それを黙って聞いていた彼に何とも思わないのかと。
「愚問だな。思うところはある」
「だったらーー」
「だが、今は耐えねばならんのだ」
それだけ言って、久政はその場を去っていった。久政はその地位を義昭によって保障されている。大名としての復帰が約束されているのも、義昭がそう言っているから。どんな扱いをされようとも、彼の許を去るわけにはいかなかった。
「……」
元清は複雑な視線を久政に送った。ああ言われたが彼のなかでは納得できず、そのことを隆景に書状で伝えた。元清は山陽に所領を持っていたため兄のなかでも隆景と特に親しかった。包み隠さず己の心情を吐露する。
「返書か」
数日後、返事が送られてきた。早速、開いて読み進める元清。そこには予想通りというべきか、気にするなという主旨のことが書かれていた。曰く、浅井家(久政)と毛利家では立場が違う。何もかも失い、義昭が最後の寄る辺である浅井家のことを、大きな所領を持つ毛利家にいる元清がわかるはずもない。だから気にするな、と。
「『明日は我が身と思い、そうならぬよう心を配れ』か……」
言われてみればその通りだ。敬愛する隆景の言うことということで、元清はとりあえず納得する。他方、そんな書状を書いた隆景はというと、
「憐れよな」
と、久政を憐んだ。そして自分たちはそうならないようにしよう、と決意を新たにする。
図らずも毛利家の同情を得ていた久政は数日後、義昭に呼び出された。そこで新たな任務を言い渡される。
「越後へ向かえ」
越後の上杉氏の許へ行き、足利将軍の威光を使ってこれを支援せよとの指令を受けた。かの家も三方からの圧迫を受け、滅亡へ向けてのカウントダウンを順調に刻んでいる。それを何とかしろというのだ。
「武田の子息も連れて行け」
さらに義昭は武田家の復興を求めた。勝頼の子どもはその旗頭にするのだ。子どもの面倒は見ていられない、ということで厄介払いという側面もある。もっとも、危険度が高いのは義昭も承知の上。スペアのスペアとして勝頼の次男を越後へ派遣、三男は鞆に置いておくことにした。
「失態を挽回する機会を与えよう」
「ありがとうございます。必ずや成功させて見せます」
久政は課せられた任務の成功率が絶望的なものと知りながらも任地に赴く。
「憐れなものだ。だが、あれも味方。助けてやろうではないか」
「ですが、越後をどう助けるので?」
隆景が久政を助けようと言ったことに首肯しながら、元清はどうするのかと訊ねる。上杉と毛利では離れすぎており、支援などとてもできそうにない。物資や軍を送るにしても、山陰から越後を直接結ぶなど不可能である。
「少し派手に動いて、織田を混乱させればいい」
それが越後にいる久政の支援になる。隆景は善意からそうするわけではない。毛利家は大勢力とはいえ、織田家の相手をするのはかなりきつい。今までは武田のおかげで戦力が分散されていたが、今度からはそこに割かれていたかなりの戦力が毛利に集中する。万が一にも上杉が早々に滅びれば、全力の織田家を相手にすることになるのだ。とても支えられない。
軍事行動の活発化は、間違いなく織田家を刺激する。戦いに備え、戦力が集まるだろう。それは一見、戦力を分散させたいという目論見に反する行動に思える。だが、攻めるのと守るのとでは勝手が違う。守るつもりでいて、いきなり攻めてくることはない。結果、戦力の誘引につながる。どれくらいの期間、敵を引きつけられるかはわからないが、その間に上杉が持ち直してくれれば負担は減るはずだ。
無視し得ない強大な勢力に挟まれる織田家は戦力をどう振り向けるかで悩むだろう。それこそが隆景の狙いだ。迷って動きがとれなくなるのが理想。最低でも、戦力を逐次投入してほしい。
(淡路での動きも確認されているしな)
北畠軍が淡路へ物資を集めているという情報は掴んでいた。本当は島を襲って奪ってしまいたい。だが、村上水軍は島に近づくことを嫌がった。前回の手痛い敗北がトラウマになっている。現状では、島を越えた行動は厳しかった。
とにかく、上杉に潰れられてしまっては困るので、隆景は支援のために動きだした。義昭の側近に面会し、東国情勢は厳しいことや支援の必要性をそれとなく伝える。取り巻きはそれをさらに義昭に吹き込んだ。そうして有能ぶりをアピールし、義昭が権力を掌握したときに重用されようという魂胆からの行動である。隆景はそれを見抜き、利用していた。
危機感を煽られた義昭は輝元に対して「何とかしろ」と命令する。具体的にどうしろとは言わない。そんなことはわからないし、変な命令をして失敗し、己の権威が傷つくことを恐れた。だから曖昧な命令を出して、失敗したらやった側の責任とするのである。
命令を受けた輝元も判断は下さない。彼はまだ若く、家臣も力量には不安を抱いている。変な命令をされて死ぬのは自分たちなのだ。そのあたりは酷く現実主義である。なので実務は吉川元春や隆景、その他の重臣が回しており、輝元には神輿でいてくれることを期待していた。彼もまたそれを察し、神輿に徹している。
「叔父上、どうすればいいか?」
軍務ーー特に軍略については隆景が担っていた。だから相談も彼になされる。完全なマッチポンプで無駄なことに思えるがとても重要だ。義昭から輝元に命令が出たということは、それに従った行動に伴う責任を義昭に負わせることができる。隆景はもし負けたときのことを考え、こういう保険をかけていた。その大義名分を盾に、隆景は軍勢の動員を始める。
しかし、隆景の考えには少し誤算があった。義昭は毛利家を頼りにはしていたものの、依存はしていなかったことである。彼も彼で独自に動いていた。それが大名へのアプローチだ。武田、上杉、北条の連合が崩れ、東国の有力大名はほとんど織田に靡いた。このことから、義昭は従来の挟撃策を放棄。東西決戦策に転換していた。
東西決戦策とは読んで字のごとく東の織田、西の足利で戦うというものだ。足利尊氏が南北朝時代に九州から東征して幕府を創ったという故事にもあやかっている。義昭的にはとても縁起がいい戦略だ。構想実現のためには西の大名たちを義昭の下に結集させる必要があり、手紙を書きまくっている。
「龍造寺はこちらにつくか。まあ、大友と島津と対する上では余に縋るしかないからのう」
義昭は龍造寺家からの色よい返事に満足していた。北九州では大友を除き、室町以来の守護は壊滅している。ならば実力のある人間に統治させればいい。義昭もそこまで頑迷ではなかった。それに大友は毛利と仲が悪く、度々争っている。おかけで上洛できずにおり、邪魔な存在だった。それを排除できるのだから多少の見返りは渡すつもりだ。
「ふん。公方の意向と言えば、こちらに靡く者も増えるか」
龍造寺隆信に義昭(室町幕府)への敬意などはなかったが、勢力拡大に利用できると表面上は喜んで見せた。
そして、九州の問題児が島津。隼人の血を引く荒くれ者が集まる薩摩を支配する守護大名だ。木崎原の戦いでは十倍の敵を撃破しており、以後も寡兵で敵を次々と破っている。日向をめぐって大友と激突した耳川の戦いでも倍以上の大友軍を壊滅させた。
ここまでは大友との対決姿勢を打ち出す義昭と近しい行動をとっているが、彼らはさらに龍造寺を攻撃するような振る舞いを見せている。義昭は北を龍造寺、南を島津で分けて自分の上洛に協力せよと命じていたが、まったく聞き入れてもらえなかった。強いが、完全にコントロール不能の問題児である。
「九州の夷狄を駆逐するは我らの役目ぞ」
島津義久はそう言って義昭の仲介案を無視する。薩摩、大隅、日向三国守護という強烈な自負を抱く島津は、その一国である日向を荒らし回った大友を敵視していた。室町幕府の機構は各地の有力武士の連合政権であり、足利将軍はそのなかで血筋がいいから将軍になっているに過ぎない。実力主義の戦国時代にあっては、将軍権威などほぼないに等しかった。
そして何よりも肝心なのが四国。ここを押さえられるか否かで優劣がはっきりするからだ。もし四国が味方になれば、東へ兵力を集中させることができる。だが、もし敵になれば瀬戸内海から豊後水道にかけて、敵の来襲に備えなければならない。その分、東に割ける兵力は少なくなるし、防衛のために多くの兵士が必要となる。それだけの余裕があるのかといえば、ない。だから、四国の確保は絶対といえた。
義昭が四国における提携相手に選んだのは長宗我部。かつては三好一択だったが、あいつらには何度か裏切られた上、近年は著しく弱体化している。信用できないし弱いしで、提携相手には心許ない。対して長宗我部はここのところ勢力を拡張し、三好を滅ぼすのも時間の問題だ。どちらを選ぶか、考えるまでもなかった。伊予は毛利が手を入れているので、伊予北部を除いた四国を任せるということで勧誘していた。
「(伊予北部を除く)四国を与えるからこちらにつけ、か……」
「いかがなさいますか?」
「どうもせん。今は三好打倒が先だ」
元親は義昭からの書状を読み、そう言って問題を棚上げにする。形勢は織田有利だが、慌てても仕方がない。まだまだ逆転の余地はある。両者を天秤にかけ、確実に振り切れた瞬間につく。そんな蝙蝠外交ができるのは、四国が畿内から中国、九州を睨むことのできる場所だからだ。敵に回られると困るので強くは出れない。
有利な立場にあることを利用して、元親は最大限の利益を得ていた。三好との和睦を勧める織田に対しては適当に対応しつつ議論を引き延ばし、その間に三好領を切り取って既成事実化を図っている。義昭からは味方するという姿勢を見せ、三好討伐の許可を得ていた。
それぞれが様々な思いを胸に行動する。西国の情勢は織田家の強大化とともに緊迫の度を増していった。