兜割り作戦 7
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「おのれ北畠ェッ!」
えーっ。えーっ。えーっ。
という具合に、勝頼の雄叫びが甲斐の山々に木霊した。躑躅ヶ崎館が陥落したという報告を受けての絶叫である。
北畠軍が国境を突破。そのときの戦いで穴山信君が討死した、という報告は勝頼に衝撃を与えると同時に、口うるさいクソじじいがひとり減ったことを喜ばせた。まあ、ここまでは許容範囲だ。
侵入した部隊は数千ということで、勝頼は軍を反転させて迎撃に向かった。甲府がガラ空きだという理由もあったが、やはりこれなら勝てると踏んだから即座に決断できた。
が、次に入ってきた報告がいきなり躑躅ヶ崎館陥落である。しかも家族もろとも捕らえられているという。戦勝を予感して高揚しているところに、冷水をぶっかけられた格好だ。機嫌が悪くならないはずがない。
「それで、奴らは何をしている?」
「宴会をしております」
「「「は?」」」
この答えに、話を聞いていた全員が間抜けな声を上げた。大軍が迫っているのに、やっていることは籠城の準備でもなく宴会。完全に舐められていた。
伊賀兵団の意図としては、甲府の攻略にそれほど時間がかからず、余裕がある。そこで温かい食事の他に、多少の飲酒を解禁しようというのだ。強行軍に耐えた兵士たちへのささやかなご褒美である。事情を知らない人間から見れば、挑発行為以外の何でもないが。
なお、酒は甲府の商人から買っている。消毒用としていくらか携帯しているが、その程度では酔えない。北畠領内で流通しているものより品質は劣るが、それでも酔えれば十分だ。
「どこまでもバカにしおって……っ!」
「どうされる?」
軍に同行していた浅井久政が問う。
「目に物見せてやる!」
勝頼の答えは単純明快だった。武田軍は甲府奪回へ向けて動き出す。ところが、接近すると北畠軍は甲府を放棄して駿河方面へ逃走した。
「太郎! 無事か!?」
「あっ、父上」
躑躅ヶ崎館へ飛び込んだ勝頼は真っ先に嫡男・武王丸の無事を確認した。特に乱暴された様子もなく、安心する。
「ん? 律(北条夫人)はどこだ?」
「義母上は連れて行かれました」
「なっ!?」
勝頼はそれを聞いて愕然とする。彼女は北条家と交渉するための切り札だ。上野の割譲と無事の返還を条件に、何年か不可侵を結べればいいと思っていた。それが失われたのである。看過できない事態だ。
「取り戻すぞ! 追えっ!」
休みもそこそこに、勝頼は駿河方面へ向けて軍を進めた。すると、屯している北畠軍を発見する。
「敵は寡兵だ! 血祭りに上げろ!」
勝頼は攻撃を命じた。敵は木を切り倒して道を塞ぐ障害物にしている。とはいえ、見えているのはせいぜい百人程度。多少の被害は出るだろうが、軽く踏み潰せると思っていた。だから『血祭りに上げろ』と言っているのだ。
命令に従い、突撃を始める武田軍。北畠軍は障害物に到達するまで射撃をしなかった。そして、丸太を乗り越えようとしたところで順次発砲。足が止まっているので、かなり狙いやすい。
丸太に邪魔をされて流れが止まり、手前に兵士たちが屯する。そこへ迫撃砲弾が飛んできた。もちろん、こうなることを見越して予め照準を定めておいたのだ。これで敵を効率よく倒していく。
「怯むな! 敵は僅かだぞ!」
勝頼は発破をかけて、言外に撤退は許さないと言う。兵士たちもそれを察し、必死の突撃を繰り返した。それによって前線がじわじわと上がっていく。
「ちっ。挿弾子があと三本だ。お前たちは?」
「自分は四本です」
「二本しかありません」
「撤収線もそろそろか……よし、後退するぞ」
隊長の判断で部隊は後退を始める。道なりに行っては捕捉されるので、森の中へ入った。隊長は最後まで残り、残っている者がいないかの最終確認を行う。誰もいないことを確認すると、意味もなくスッと手を上げてその場を去っていった。
やや間を置いて、武田軍が陣地へ殺到する。もっとも、撤収するときに持てるものはすべて持って逃げているので、残っているのは遮蔽物としていた丸太と薬莢程度だ。他には壺がひとつ。
「どうします?」
北畠軍はバラバラに逃げたため、兵士は指示を仰ぐ。
「お前たちは右、残りは左にーー」
と言ったところで言葉が途絶える。陣地で爆発が起こり、薙ぎ倒されたからだ。そのままもの言わぬ骸と化す。隊長が手を上げたのは、後ろにいる味方に退避完了を知らせるため。武田軍が陣地へといい具合に集まったところで、狙撃手が壺を撃った。壺には火薬が詰め込まれており、それが撃ち抜かれて爆発したのだ。なかには屑鉄などが含まれており、爆轟のみならず飛散したもので多数の死傷者を出した。
「卑怯者め!」
と勝頼は非難するが、戦いに卑怯もへったくれもない。勝った者がすべてである。だから北畠軍では、やってはいけないと明確に指示されていること以外は何でもやっていいということになっていた。
追撃する武田軍に仕掛けられた罠はこれだけではない。森を歩いていると、木々の間に張られた何に足を引っかける。倒れた先には落ち葉で覆い隠された穴。その下には竹槍があり、哀れ何人もの兵士が串刺しとなった。
今度はあからさまに縄が張られ、こんもりと落ち葉が盛られている。縄の先には罠があると周知されたため、兵士たちは左右に迂回。が、本当は左右に落とし穴があり、やはり何人かが串刺しになった。それは免れても、捻挫や骨折して負傷する者が少なからず出た。
北畠軍に翻弄され、イライラが募る。そんななかで北畠軍の部隊が現れた。するとどうなるか。鬱憤を晴らさんと凄まじい追撃が行われるに決まっている。
が、視界の悪い森の中ではすぐ見失ってしまう。そういうことが何度も続き、勝頼をはじめとした武田軍の将兵はかなりのストレスを溜め込んでいた。なかには深追いして戻ってこない者も現れている。迷ったか、突出しすぎてやられたと考えられていた。それは正しい。途中で味方からはぐれたら狩られ、小部隊だと囲まれてフルボッコである。ちまちまと戦力が削られ、二千ほどが脱落していた。
甲斐や信濃が山国で山地の移動に兵士たちは慣れているとはいえ、戦いの緊張があればその分、余計に疲弊する。肉体もそうだが、何より精神的にかなり疲れ、判断力が鈍っていた。そこへひょっこり現れる北畠軍。
「追えーっ!」
追撃にかかる。北畠軍に会えば追撃、と頭が思い込んでしまっており、最早、条件反射の域に達しつつあった。
「しかし、ここの地面はやけにデコボコしているな」
「歩きにくいですね」
離れていく味方を見送りつつ、そんなことを言う武田軍の武将。直後、その意識は途絶えた。離れた部隊が敵を見失って帰ってくる。そこで目にしたのは、息絶えた味方の姿だった。
「な、何だ……?」
何が起こったのか理解できない。だが、死体を見てあることに気づく。北畠軍にやられたときに見られる無数の切り傷があることに。
「敵が近くにいるぞ。注意しろ」
その情報は勝頼にも伝わった。しかし、河内領(穴山信君の領地)に入っており、駿河との国境も近づいている。あと少しだということから、進撃を止めることはなかった。偵察を多く出したくらいだ。そして、そのなかの一隊が北畠軍を発見した。
「前方に敵主力と思われる部隊を発見しました! 旗印は笹竜胆!」
「見つけたぞ」
勝頼は獰猛な笑みを浮かべる。部隊を集め、全軍での攻撃を命令した。
殺到する武田軍を見て、具房は笑いを隠しきれない。それを鶴松丸が注意する。
「不謹慎ですよ」
「わかっているのだが、どうしても堪えられないんだ」
扇子で口許を覆っているため、前にいる兵士たちには具房の目しか見えない。だが、横にいる鶴松丸にはその下で彼の口が弧を描いていることに気づいていた。
可笑しくて堪らない。
愉快でならない。
こちらが描いた通りに敵は動くのだから。
「あれの準備はできているな?」
「もちろんです。ご指示があればいつでも」
「大変結構」
具房は満足気に頷いた。戦いはいつも通り、遠距離から銃砲撃によって敵を倒す北畠軍に対し、肉薄しようと遮二無二突撃する武田軍という構図で進む。
「殿! 藤堂様(房高)より伝令! 『狼は伏せた』です」
「よし、旗を掲げよ!」
笑みを引っ込めた具房は、凛とした声で命じた。それに従い、一本の旗が掲げられる。たかが旗だが、効果は絶大だった。
「あれは!?」
「と、止まれ! 止まれ!」
勝頼は度肝を抜かれ、信豊がすぐさま攻撃中止を命じた。
「なぜ北畠が錦旗を掲げている!?」
「わかりません!」
わけがわからず武田軍は混乱した。
なぜ北畠軍が錦旗を掲げているのか。それはかつて、勝頼が具房を襲撃したからだ。かなり昔の話だが、武田攻めにあたって具房はこれを上奏。天皇より武田討伐を命じられた。勅使を害そうとした者は天皇に刃を向けたも同然、というわけである。
錦旗は具房のみならず織田、徳川も掲げることを許された。後、北条にも。具房が氏邦に渡したのはこれである。そして勝頼と決戦する段階になって掲げる約束だった。彼を心理的にも追い詰めようという、鬼畜な作戦だ。仕掛け人は具房である。毎度毎度、何かにつけて突っかかってきた勝頼を具房は快く思っていなかった。だから潰せると聞いたら容赦なく潰す。慈悲はない。
「武田四郎(勝頼)! そなたが勅使であったわたしを害そうとしたこと、既に明白である! ゆえに主上はそなたを討つよう我らに勅を下された! しかも、錦旗に向けて刃を向けるなど言語道断! 許されざる大罪と知れ!」
具房は馬に乗って前に出ると、武田討伐の口上を述べる。ずっと考えていた台詞だ。これからわかるように、具房はかなりノリノリである。
言ってることはかなり無茶苦茶だ。一応、正しいものの、勝頼が具房を襲ったのはかなり前の話で、今さら蒸し返されても……というのが正直な感想である。だが、具房は勝てばいいのだとそれで押し通した。
「言わせておけば……っ! 構わん! 者どもかかれ! 逆賊は北畠である!」
いちゃもんに近しいとはいえ、既に自分たちは完全に朝敵扱い。具房は許す気はないようだし、勝頼にしても許されるなど御免である。だってあいつ嫌いだし。だから勝頼は戦いを継続して北畠軍を押し返し、その間に朝敵認定を撤回しようと考えた。
かくして戦いは再開された。が、北畠軍は大いに士気を上げたのに対し、武田軍は盛り上がりに欠ける。それもそうだ。自分たちは朝敵ーーつまりは悪者であり、討伐されるべき存在ということ。やる気が失せるのは当然である。
劣勢だが、勝頼は何とか戦況を打開しようと重点目標を定めてそこを専ら攻撃させていた。犠牲は多く出ていたが、前線は少しずつ上がっている。が、その努力を嘲笑うかのように具房は新たな一手を打った。
開戦してからこの方、ずっと続いている砲撃。すっかり当たり前となってしまい、誰もが意識の外に追いやっていた。気にしても砲弾は見えない。避けようがないからだ。だから、そのなか一発が信号弾になっていても、その場の人間は誰も気にしなかった。
ではこれを見ていたのは誰か。それは、密かに武田軍の背後に回っていた房高たち伊賀兵団である。
「よし、合図だ。押し出せ!」
伊賀兵団が背後から襲いかかった。前ばかり気にしていたために後方の備えはほとんどなく、勝頼の旗本衆に深く食い込む。
「よし、行け!」
さらに具房のところからは可児才蔵など、刀剣類の扱いに長けた精鋭部隊ーー抜刀隊が突出した。サンドイッチされた武田軍は精神的動揺に拍車がかかり、崩されていく。彼らが得意とする近接戦だが、錦旗や挟撃といった精神攻撃を絡めてくるあたり、具房は周到だった。
「ダメです! 保ちません!」
戦線が崩壊し、兵士が窮状を訴える。が、この状況では何もできない。勝頼は敗北を悟った。
「退け」
悄然とした様子で勝頼は撤退を命じる。が、挟撃されて退路を塞がれている状況だ。そう易々と撤退させてくれるわけがなかった。当然、激しい追撃を受ける。次々と将兵が討たれていく。大物としては信豊が討死した。
また、勝頼も無事ではない。狙ったのか、はたまたただの流れ弾かは不明だが、一発の銃弾が彼の右大腿部を貫通した。馬に乗るだけなら痛みを我慢しているだけでよかったが、前後に敵が居座っている以上は森の中を抜けていくしかない。そこでは馬が使えないため痛みに顔を顰めながら歩く。だが歩行が困難で、家臣に背負われて逃げ延びた。
「四郎殿!? どうされた!?」
「御屋形様は敵弾に撃たれました」
館にいた浅井久政が、負傷した勝頼を驚きを以って迎えた。彼は北畠軍の接近を聞くと、適当な理由をつけて甲府を脱出している。武田軍の主力が甲府を奪還したというので戻ってみれば、勝頼が負傷して帰ってきた。急すぎる展開についていけない。
しかし、そんなことは武田家にとってどうでもいい。久政は義昭の家臣。特別優秀というわけでもないので、あくまでもお客様だ。それ以上でもそれ以下でもない。そんな人間の相手をしているより、心配されるのは勝頼である。中継ぎとはいえ、武田家の当主なのだから。
勝頼は割と重症だ。北畠軍の銃器はどれもライフリングが刻まれており、弾はジャイロ回転しながら飛んでくる。おかげで貫通力マシマシ。当たりどころがよほど悪くない限り、弾は人体を貫通するようになっていた。勝頼も弾は貫通したが、甲冑を着込んでいたため鉛が変形。ダムダム弾のように、弾頭がキノコ状になって身体に入ったのである。結果、右の太腿の組織がズタボロにされた。正直、直視したくない有様である。
かなりの重症であったが、何とか応急処置を施す。まあ、できることはそれだけなので、後は化膿しないことを祈るだけである。
さて、命からがら躑躅ヶ崎館に帰り着いたはいいものの、問題はこれからだ。甲府を守る兵力は先刻、消し飛んでしまった。敵はここにやってくるだろう。だが、防ぐ兵力はどこにもない。
「諏訪へ向かう」
勝頼は甲府の放棄を決めた。諏訪で防衛し、捲土重来を期すのだ。あるいは激しく抵抗して甚大な被害を出させれば、敵が講和に応じるかもしれない。領土は大幅に減るかもしれないが、家が滅ぶよりマシである。
「叔父上(武田信廉)。お任せいたす」
甲府には武田信廉、一条信龍が残ることとなった。任せるとは言うが、要は最後まで抵抗して死ねということだ。
「どうする?」
「甘んじて受けるーーわけがなかろう。我は降るぞ」
「では自分も。内府様は兄上(信玄)が目をかけていた人物ですし」
二人は相談した上で北畠軍に降伏した。死ねと言われて喜んで死ぬほど忠誠心は高くない。具房もまた無駄な戦いをしなくて済む、と家族の無事を保障した上でこれを受け入れた。さらに、
「降伏するなら一族であっても受け入れよう」
と具房が武田一門の切り崩しを(事実上)指示。相模、武蔵方面にいた小山田信茂や武田信友などがこれに応じている。
かくして甲府は北畠軍の手に落ち、勝頼は本拠地を失うのであった。