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北畠生存戦略  作者: 親交の日
第十章
138/226

兜割り作戦 3

 



 ーーーーーー




 美濃方面に進撃していた勝頼率いる本隊は、這々の体で逃げてきた武田信豊隊と合流した。


「申し訳ございません。伊予守(木曾義昌)にしてやられました」


「よくも裏切ったな。一門の恥だ」


 勝頼は信豊の責任を問うことはしなかった。むしろ義昌を責める。彼の裏切りを知った段階で、甲府に使者を出して人質の処刑を命じていた。


 義昌を織田軍もろとも撃破してくれる、と気炎を上げる勝頼。そんな彼に冷や水を浴びせるような報告が入った。


「ご注進! 徳川軍が三河、遠江より侵攻! 飯田城を目指して北上中にございます!」


「このような時に!」


 織田軍を追い返すぞ、と言った矢先に新たな敵の来襲である。間が悪いとしかいいようがない。だが、織田軍も飯田城へ向かっていると聞き、勝頼は決戦を決断する。


「典厩(信豊)。先鋒を任せる。恥を雪ぐがよい」


「ありがとうございます」


 信豊を再び先鋒とし、飯田城の救援へ向かう。続報によれば、北上する徳川軍はおよそ三万。織田軍は五千強なので、合計すると自軍のほぼ二倍の兵力だ。かなり不利だが、勝頼は地の利があると判断した。


 とはいえ、兵力が少ないのは懸念材料のひとつ。本領に攻め込まれているような非常事態とはいえ、懸念はなるべく払拭したいところ。そこで勝頼は周辺の村落から兵員を募った。


「我こそはと思う者は参集せよ、との仰せである」


 村々に配下を派遣し、兵士を供出するように求める。字面だけでいえば希望者を募る形をとっているが、村に完全武装の武者と数百の兵士を派遣して脅しているのだから、ほぼ強制であった。


 兵士も数人というわけにはいかない。十代後半の若者は無論、四十代のこの時代でいえばもはや高齢者といえる人間さえも兵士にされた。防具など持っている者などまずいない。まともな武器があればいい方で、なかには武器がなく竹槍を急いで作って装備する者もいた。


「ほら、ちんたら歩くな!」


 何とか準備を整えると、本隊に追いつくために急き立てられる。若者ならまだしも、年配者には移動速度について来られない者もいた。そういう者は殴る蹴るの暴行を受けて無理矢理にでも動くことを強いられる。が、まともに歩行できなければ役立たずと罵られた上で放置された。


 現代ならば人権擁護だとかいってNPOなり何なりが飛んできそうだが、この時代にそんなものはない。領主こそが法であり、容赦なく人員が徴収されて軍隊へと放り込まれた。




 ーーーーーー




 武田軍が無茶苦茶な方法で戦力を整えているころ、徳川軍は飯田城を目指して驀進していた。先頭を進むのが三河衆八千。指揮するのは徳川信康だ。当初は遠江衆(七千、指揮官は酒井忠次)が先鋒とされたが、信康が志願して代わった。


「徳川家の跡継ぎとしての武威を示したく存じます」


 彼はわざわざ家康の許を訪ねてこのように嘆願した。ここまでされては無碍にはできず、家康はこれを認めている。軍監として鳥居元忠がつけられた。


「織田軍は既に城をひとつ落としたそうな。我らも負けてはいられないぞ」


「飯田城は我らの手で落とすのだ!」


「「「応ッ!」」」


 織田軍が初動に成功したということで、部隊の士気が上がる。武田軍が新たに兵士を募って動きを鈍らせていたので、徳川軍が先着した。


「さて、どう攻めるかーーと悩むところだ。普通なら」


 しかし、今回は予め決めてあった。今まで武田家には散々、苦しめられてきた。近年は北畠家の援助を受けて戦いを有利に進めていたが、彼らの援助がなければ領国の維持すらままならないという情けない状況だった。だから示さねばならない。自分たちは自分たちでやっていけるのだと。そのためにまず、独力で武田家の城を落とす。


 信康はそう考え、ずっと準備をしてきた。使う武器は北畠家で作られたものだが、それをきちんと購入し、取り扱いを学んだ。駿河で編制された部隊ほどではないが、信康の親衛隊もかなりの近代化が進んでいる。長篠の戦いで北畠軍の姿を見て、時間をかけて整備してきた虎の子部隊。何気にこれが初の実戦である。


 今回は徹底した火力重視の戦闘を行う。北畠軍の模倣だ。彼らの輝かしい戦果を見れば、その優秀さがわかる。多くの人々が、北畠軍の強さに疑問を持つ。なぜあれほど強いのか? と。だが、信康にいわせれば単純な話だ。以前、具房が言っていた。


『人命は高いが、弾薬は安い』


 と。つまりはこれまで人間が突撃していったところに、銃弾や砲弾が撃ち込まれるということだ。なるほど、北畠軍の姿勢をよく表している。そして、とても単純だ。


(誰にでも真似できる。……原理的には)


 しかし、現実には難しい。徳川家では駿河で北畠家に倣った統治が行われている。順調に進んでいて、領国すべてで行ってしまいたいほどだ。なのだが、遠江や三河では難しい。豪族やそこに領地を持つ家臣が反対するからだ。


 信康は以前、家臣たちの前で北畠家のことを褒めてみた。素晴らしい統治だと。無論、目の前ではそうですな、と同意される。だが、その表情はまったく歓迎していなかった。本音では領地を取り上げられるのが嫌らしい。


 そういう現実を目の当たりにしたからこそ、具房の手腕が際立つ。騒乱に乗じて制度を一気に変えた。反抗する最大勢力を圧倒的武力で倒す。その軍事力を背景に制度を受け入れさせるという見事な手際だ。徳川軍は肝心の軍事力を領地持ちの家臣や豪族に依存しているため、これができない。北畠家でも、順当に代替わりしていればこう上手くはいかなかっただろう。


 適切な時期に適当な判断を下す。やはり簡単なようで難しい。何より注目すべきは、内乱が起きなければこの一大改革は成功しなかったという点だ。このことからわかるのは、内乱の発生を織り込んで改革が計画されていたということ。信康はピンチをチャンスに変えるその手腕に恐怖さえ覚えた。


 たしかに具房の動きはそのように考えられる。本人からすれば内乱を面倒だなと思いつつ潰しただけなのだが、周りにはそのように映ってしまう。かくして具房の感知しないところで、彼の想像以上に過大評価が進んでいく。


 それはさておき、実際にやってみて人ではなく弾薬を投射するという戦術の難しさに気づかされる。何よりも生産力が足りない。広大な領地を持つ織田家でも、石山攻めでは中途半端に終わっている。徳川家では尚更だ。


 だから信康は諦めた。無理なものは無理なのだ。それに拘泥するなど馬鹿らしい。家康は駿府であれこれ工夫して頑張っているようだが、肝心要の火器を北畠家へ完全に依存してしまっている。何かの拍子に供給が途絶えればたちまち干上がってしまう。それではいけない。そう考えた信康は、独自路線を歩み始めることにした。


 まず、軍全体に銃砲を持たせることを諦める。徳川と北畠では工業力に差がありすぎた。真似をしようとして背伸びをしても倒れるだけである。ならば身の丈に合った軍備にすればいい。つまり、領内の工業力に見合う銃砲を装備するのだ。これならいざというときに困ることはなく、大きな負担になることもない。


 信康はそのような身の丈に合った部隊を編制していた。結果、出来上がったのは五百名足らずの小部隊。北畠軍でいえば一個大隊程度のものだが、他家からすれば十分な脅威である。鉄砲はともかく、大砲はまだまだ膅発が多く実用段階に達していない(なので北畠家から輸入)。それでも砲弾などは自前であり、大きな進歩といえる。


「砲撃始め」


「撃てーッ!」


 砲声が轟く。北畠軍の石山攻めを見た者からすれば大したことないと思うが、信越の人間は大砲の攻撃を経験した者は少ない。長篠の戦いも軍隊が壊滅しているため経験者はほとんどおらず、いても大多数の未経験者の喧騒にかき消されるという有様だった。


 落ち着かせることに成功した部隊も、ほとんど何もできなかった。反撃しようにも敵が弓矢や投石の届く範囲にいないのだから。彼らにできたのは身を潜め、自分のところに敵弾が飛んでこないことを神や仏に祈ることだけだ。


 そうこうしているうちに、城壁がズタボロに破壊された。信康はこれまで貯めてきた弾薬をすべて消費する勢いで、一切の遠慮をしなかった。彼のタスクは武田の援軍や織田軍が来る前に城を落とすことだ。そうして徳川家が自立してやっていけるのだということを示すのが狙いである。


「かかれ!」


 号令がかかり、将兵が城へと向かっていく。彼らの歩みを邪魔する城壁などは破壊されており、早々に白兵戦が展開された。城内に躍り込み、血みどろの戦いが繰り広げられた。


 矢が次々と飛来する。仲間が倒れるのも構わず進んでいく。最初はリーチの長い槍で。メインアームが使えなくなると、刀などのサブウエポンに切り替える。持っていなければ死体から剥ぎ取った。周りに使える武器がなければ石や木材。それすらもなければ拳や歯(噛みつき)など、ありとあらゆる手段を使って敵を倒す。


 とにかく徳川兵は必死だった。普段、生活していると諸国の噂というものが流れてくる。そのなかには、徳川は織田北畠の神輿というようなものがあった。つまり、お前たちは織田や北畠に支えられないと何もできない、ということだ。


 悔しい。


 ただそれだけが、徳川領の領民たちの思いだ。自分たちもやればできる。それを示すべき舞台はここ、飯田城。これを落として徳川の、ひいては自分たちの力を示すのだ。


 そんな使命感で動いているものだから、戦闘は壮絶なものとなる。矢が腕や足に数本刺さったところでそれがどうした? 何箇所か斬られたからといってそれがどうした? 自分は倒れない。身体が動かなくなるまで。一歩でも前へ! ひとりでも多くの敵を倒す!


 鬼気迫る攻撃に武田軍は怯む。城将・保科正直は前線に立ち、兵士を鼓舞する。しかし、その程度で兵士の士気が盛り返すことはなく、徐々に押し込まれていく。奮戦虚しく、正直は高遠城へと逃亡する羽目になった。


「やった!」


「武田に勝った!」


 喜びを爆発させる兵士たち。だが、信康は油断していなかった。


「まだ喜ぶのは早いぞ。すぐそこに武田の本隊がいるんだ。喜んでいる暇があったら、手を動かして城を直せ」


 自身の後見人である石川数正らを動かし、すぐさま城の修築に取り掛かる。こんなことになるなら城をぶっ壊すんじゃなかった、と信康はちょっぴり後悔した。


 しかし、勝つことが大事だったのだから城を壊したことは仕方がない。それに武田軍は近いが、織田軍も近い。粘っていれば増援がやってくる。武田軍は勝頼率いる本隊らしいが、こちらはまだ先鋒。時間の経過とともに主力(本隊)が到着する。時間はこちらの味方だ。


(だが、厳しい戦いになるな)


 信康は砲弾の備蓄がほぼないという現実に目を瞑る。まだ鉄砲の弾はあるし、勝利によって士気も旺盛だ。たとえ半数が討死するような戦いとなっても、戦い抜いてくれるだろう。その愚直さが三河武士の美徳だ。


 徳川軍は城壁の瓦礫を撤去、あるいは適宜再利用して簡易的なバリケードを築く。城壁を再建する(城を元通りにする)なんて夢は見ていない。とにかく障害物を作り、敵の侵攻路を塞ぐ。野戦陣地の構築法は、長篠の戦いで北畠軍から伝授された。それを愚直に実践する。


 だが、そんな信康たちの努力はいい意味で無駄になった。直前で武田の本隊が反転したからだ。これでとりあえず脅威は去ったわけだが、大きな疑問が残る。なぜ彼らは敵を目の前にして反転したのか? 余裕がないからよかったものの、そうでなければ猛烈な追撃を受けていたかもしれないのに。


「その程度のことがわからない愚将ではないはずだが……」


 信康をはじめ、一同困惑していた。そんな彼らの疑問が氷解したのは、家康から送られてきた書状を見たときだった。


「そうか。そういうことか!」


「どういうことなのです、若殿(信康)?」


 勝手に納得してないで説明してくれ、と数正。答える代わりに、信康は書状を彼らに見せる。書状には最近の情勢ーー武田討伐作戦である「兜割り」の進捗が記されていた。それによると、北条軍が上野へ向けて軍を出したという。勝頼は既に奪われた城より、これから奪われるかもしれない城を守ることを優先したのだ。


 かくして決戦は回避された。その後、信康たちは森長可率いる織田軍先鋒と合流。次なる目標をかつて武田信玄が信濃攻略の拠点とした高遠城と定め、進軍を始めた。







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― 新着の感想 ―
[良い点] 信康、いい後継者になりそうだなあ。 問題は親父が長生きしすぎて、切腹なくともぽっくり逝きそうなのがなんとも。
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