播磨救援戦
あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。
というわけで、新年一発目の投稿です。作者多忙につきクリスマス、お正月などのイベントを完全にスルーしてしまいました。今年はイベントに合わせて何かできればと思っています。本作は恐らく、今年で完結すると思いますが、今後も応援していただけると幸いです。
あと、某世界的感染症も何とかなればいいな、と祈っています。ちなみに、作者はワクチンなぞ打ちません。危ないと思っているので。某国では罰金が科されるらしいですが、それでも一番最後でいいです。国会議員の大先生がコロナ疑いで死去されたので、やはりここは偉い偉い国会議員や都道府県知事、その他の政治家や官僚といったお歴々の健康を担保するためにも、そういった方々に先に投与すべきでしょう。別に他意はありませんよ? ええ、ないったらないのです。作者がないと言ったらそれは真実なのだ!
……と、与太話はともかくここまで。以下、本編です。
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人々の懸念は杞憂に終わった。上杉軍は京へ攻め上る動きを見せず、能登の平定を終えると春日山へと撤退している。そのことが確認され、騒ぎが収まったのは年末だった。
その間、具房はやることもなく暇を持て余していたのだが、何もイベントがなかったわけではない。
まず、敦子が妊娠した。いつも護衛をしている蒔は育休中。そのため夜はいつも彼女が相手だった。妊娠も当然といえる。
「ようやく授かれました」
と本人は嬉しそう。希望は女の子。
(まあ、敦通殿がいるからな)
久我本家の当主・敦通は今年にも公卿に列することになっている。具房はこれを見て官位を退こうかと考えていたのだが、そうは問屋が卸さない。朝廷から慰留されてしまった。理由は、遠くないうちに昇進するから。
昨年、信長が内大臣に進んだ。一年後、彼は右大臣になることが決まっている。それで空位となる内大臣に具房が進むのだ。清華家なので、家格での問題はない。問題は、中継ぎとして登板したはずの具房が続投していいのかということだ。
「何を申すか。そなたが大臣になることに文句がある者の方が少ないぞ」
父である具教に相談した具房だがそう言い切られた。曰く、天下人である信長を補佐する家臣ではない存在。それが人々の具房の認識であり、いわば第二の天下人だ。さらに朝廷から見れば、信長よりも朝廷に近いスタンスをとる有力者。意地でも離さない。離すわけがない。
「ーーというわけだ。右大臣までは確定だな」
具教は楽しそうだ。子どもが栄達する様は見ていて気持ちいい。だが、そんな気持ちはほんの少しだけ。大部分は、苦労し苦悩する様が面白いというものだ。他人の不幸は蜜の味、とはよく言ったものである。正確には「他人」ではないのだが、他人事としているのは信頼の証。具房からすれは、まったく嬉しくもないが。
そんな不満を抱きつつ、天正六年(1578年)の年始を迎えた。新年早々、具房は羽柴秀吉の訪問を受ける。年始の挨拶とともに、手取川の戦いの賞罰で彼を庇ったことへの感謝を伝えることが目的だった。本来ならすぐに伝えるべきところだが、担当する播磨方面で動きがあり、すぐにそちらへ向かっていたため遅くなっていた。
「前年はありがとうございました。それと、遅くなって申し訳ありません」
「まあ、柴田(勝家)の行動も問題があったからな」
どちらも悪いので、信長が喧嘩両成敗としたことを妥当な裁きだ、と具房は評価していた。
それから二人は茶を飲みつつ、互いの近況を話しあう。具房は播磨攻略の進捗を訊ねる。
「内府殿が、上月城の攻略と尼子の取込を褒めていたぞ」
「いえいえ、そんな……」
秀吉は謙遜する。これこそ、秀吉がすぐに播磨へ戻った理由だ。以前から進めていた上月城の攻略が最終盤を迎えるとともに、因幡から毛利家に追い出された尼子主従を迎え入れた。特に信長からの評価が高かったのが後者。尼子家の再興を名目に、山陰へと侵攻できるようになったからだ。大義名分があるのとないのとでは、調略などの成功率ーーひいては攻略の難易度が変わってくる。
「尼子殿は上月城へ入ってもらいました。その威光で国人たちを切り崩し、毛利を牽制するつもりです」
尼子家は京極氏から分かれた家で、室町時代には中国地方八ヶ国(出雲、伯耆、因幡、美作、備前、備中、備後、隠岐)の守護を務めた。かなりの名門であり、山陰山陽の両道で活躍してくれるだろう。
だが、具房は一点だけ気になることがあった。それは上月城を秀吉が見捨てないか、ということだ。史実では三木城の別所氏が信長から離反すると、既に毛利軍に攻められていた上月城を放置し、そちらを滅ぼしに向かっている。結果、上月城は落城。尼子兄弟は切腹、家臣団も壊滅した。
戦略的な観点からいえば秀吉の行動は正しい。だが、後方にはまだ味方がおり、中国攻略のキーパーソンである尼子氏を見捨てる判断をしたのは、いささか早計といえる。その後、宇喜多氏や南条氏が毛利家から離反したからいいものの、それがなければ中国攻略は泥沼化していた可能性が高い。また、山中鹿之介など尼子家臣には優秀な者もいる。確保しておいて損はなかった。
「尼子は中国を大内と二分していた名門。その名は間違いなく、攻略の助けになってくれるはずだ。言うまでもないことだが、くれぐれも丁寧にな」
「はい」
秀吉は頷く。この時代の面倒なところだが、世間は下克上でも何でもありの実力至上主義の世界。ところが、未だどこかに前時代的な風潮が残っている。だから朝廷や幕府の権威が通用するのだ。朝廷を保護し、旧守護たちに一定の敬意を払わなければならないのもそのせい。
具房は伊勢国司北畠家に生まれたので、支配の正統性とかそういう面では困っていない。だが、守護代のそのまた分家から身を立てた信長は相当な苦労がある。そういう面も、具房が信長を立てる理由だ。人間の器が違う。
「それでは失礼します」
「健康には気をつけて」
「ありがとうございます」
挨拶をして秀吉は帰って行った。
動きがあったのは、それから間もなく。播磨の別所長治が離反して毛利軍に味方したのだ。秀吉が中国地方の責任者となったことが気に入らないらしい。賎民が何を偉そうに、と。
この動きを報せてくれたのは赤井直正。長治の妻は波多野秀治の娘で、その縁を使って裏切りを催促してきたという。だが、有力国人である赤井家(直正)は反対し、もし毛利につくなら敵対すると伝えた。「丹波の赤鬼」と恐れられる直正が賛同しなかったことで、それなりの数の丹波国人が反対に回る。
国内の支持を得られなかったことで、秀治は裏切りを思い留まった。国内の第二勢力(力的には第一勢力)である赤井家は敵に回したくない。娘を見捨てるという非情な決断だが、秀治は決断する。幸い、娘は離縁されるだけで済んだ。
しかし、本当の問題はここからだ。現在、中国方面軍を率いる秀吉は播磨と備前、美作の国境で毛利家の尖兵である宇喜多家と戦っている。瀬戸内海の制海権は毛利家のものなので、補給は陸路で行われていた。別所氏の支配する三木城は京へ至る交通の要衝。補給線の寸断は、秀吉の軍に深刻な影響を及ぼすことが予測された。
間の悪いことに、毛利軍が動員を開始したとの連絡があった。それだけなら九州や四国への出兵とも考えられるのだが、残念なことに宇喜多家や山陰の南条家でも動員が行われている。畿内へ向けた出兵であることは明らかだ。
困ったのは秀吉。三木城を野放しにしていては退路を断たれる。だが、毛利家が動員を始めている以上、その標的は前年確保した要衝、上月城。ここの防衛も重要だ。秀吉は難しい判断を迫られていた。
(毛利の狙いは間違いなくここ、上月城。でも迎撃態勢を整えたところで、三木城が健在であれば補給が心配だ)
瀬戸内海は毛利方の水軍が支配している。だから陸路で物資を受け取らなければならないが、その道中に三木城があった。ここを放置しておくと、やがて物資が不足するだろう。対応は必須。しかしどう対応するかでも盤面は変わってくる。
最悪のシナリオは、三木城を落としきれない(湧き出るゲリラによる補給路の寸断を許した)ままに毛利軍本隊との戦闘になること。間違いなく秀吉軍は壊滅する。それどころか、播磨からも叩き出され、一気に畿内が前線になる、というのも強ち夢物語ではない。
(ここは三木城に全力を注ぐべきか?)
秀吉は思案する。毛利軍が来るにしても、かなりの大軍ゆえにその歩みは遅いはず。人が多ければ多いほど、何をするにも時間がかかるからだ。その間に三木城を落とすか無力化し、然る後、攻め寄せた毛利軍と戦う。秀吉はそんなプランを描く。
「どうじゃ?」
それを参謀である竹中半兵衛、小寺官兵衛に相談した。
「それがよろしいかと」
「現状打てる最良の策です」
という具合に二人の賛同を得る。尼子勝久も先に三木城を落とすことに同意し、全軍に布告した。内容は尼子家臣団とその手勢のみを上月城に残し、他は三木城へ向かうというものだった。
秀吉軍はその方針に従い行動を開始する。折しも信長から三木城を攻略せよ、との指令が届いた。自分と同じ考えだと秀吉は喜ぶ。上月城の尼子氏は見捨てろ、という指令の含意を敢えて無視して。
だが、信長からの連絡は嬉しい報告もあった。それは荒木村重を援軍として送るというものだ。まったく進展がないまま数年にわたって数万の軍勢を石山に張りつけている。必要ではあるが、現実には遊兵と化していた。信長としては、これを少しでも役立てたい。そこへ別所氏が離反した、との報告が上がる。信長はすぐさま石山軍から救援を引き抜くことを決めた。
なぜ村重が選ばれたのかといえば、所領が近い有力な家臣だから。石山軍は佐久間信盛配下の織田家譜代家臣団と、村重を筆頭とした畿内家臣団とで構成されている。前者は領地が遠い。尾張などから軍勢を呼んでいたのでは時間がかかりすぎる。ゆえに後者から援軍を出すことになった。村重は戦も上手く、三木城攻めと毛利軍との戦いでも活躍が期待できた。
ところが、信長の判断は裏目に出る。
「なぜ羽柴などに従わねばならぬのだ!」
指示を受けた村重は憤慨した。秀吉は百姓ーー下手をすると河原者出身だという。生粋の武士である自分が、なぜそんな賎民の指示を受けなければならないのか。普通は逆だろう、と。我慢の限界を迎えた村重は、居城の有岡城に戻って秀吉軍の救援を名目に軍を増強。そして謀反した。
「なにっ!?」
さすがの信長も驚く。別所はともかく、荒木までもが寝返ってしまった。それを見た播磨の豪族たちも、その多くが織田家から離反している。丹波でつながっているものの、秀吉軍は事実上、播磨で孤立した。
石山から増援は送れない。荒木軍が抜けた今、石山軍は戦闘正面が増えてしまった。過剰だった兵力は、むしろ足りないレベルになっている。北陸は上杉の再侵攻に備えて準備中。東海道は武田や北条がいつ動くかもわからないため動かせない。織田家は既に限界を迎えていた。
信長は止むなく具房を頼った。北畠家は兵力の多くを東海道へ置いているとはいえ、まだ数万の兵を出す余力がある。信長にとっての最終兵器だ。
「お引き受けします」
具房がこの話を断るはずもない。織田家の窮状は理解していたし、助力しようともしていた。これまで信長には断られてきたが、そのときのために準備も怠っていない。石山決戦へ向けての準備もあったが、それはそれだと具房は軍を有岡城へと差し向けた。
派遣されることになったのは大和兵団と三旗衆。両者は京で合流し、有岡城下に到着するや包囲する。いざ攻撃、といったところに小寺官兵衛が現れた。
「攻撃を待ってほしい?」
「はい。某が荒木殿を説得して参ります」
「内府殿が許すか?」
「……何とかしてみます」
具房は信長を持ち出して思い留まらせようとしたが、官兵衛は譲らなかった。幽閉されるよ? とは言えない。具房に止める術はなかった。仕方なく許可し、裏では忍をつけて動向を監視させている。
「で、見事に捕まったわけか」
忍が報告に来た。それによれば、官兵衛の説得はやはり失敗。本丸の地下牢に囚われたという。嘆息する具房。だから止めたのに、と。
「ですが、本丸でよかった」
側にいた房高は何の感慨も抱くことなく、合理的に思考する。彼に言わせれば、官兵衛が捕まったことはどうでもいい。それよりも、いかに城を落とすかが大事だ。具房に教えられたように、最小限の犠牲で。
思考の途中、具房から官兵衛救出も考慮に入れてくれとの注文が入る。最高尊厳である具房のオーダーであれば、と房高は従った。とはいえ、彼が編み上げたのは芸術的な作戦ではない。
「砲で城壁を破壊して本丸まで進みます。その後、本丸へ繋がる城門を破壊。小寺殿を救いつつ、落城させましょう」
いつもの大砲で解決なアメリカン作戦。誰でも思いつくような攻め方である。これも具房の教え。作戦はなるべく単純に、だ。微に入り細を穿つような作戦は、戦史に残るだろう。だが、リターンあるところにリスクあり。両者は比例関係にある。つまり、大きなリターンを得るためには、大きなリスクを背負わなければならないのだ。
事前に行動が細かく決められていた場合、何らかの理由で予定が狂った瞬間に作戦が瓦解する。典型例はレイテ沖海戦だ。この戦いは三つの艦隊が別々の進路をとり、攻撃目標(レイテ湾)で合流。突入してアメリカ軍を壊滅させるというものだった。ところが、栗田艦隊は度重なる空襲を受けて遅延。西村艦隊は単独で突入する羽目となり、壊滅した。
このように、精巧に作られているものは、わずかな狂いで異常を生じる。シンプルにすればそれが余裕となり、柔軟な対応が可能になるのだ。だから具房は作戦を単純に、と教えた。
房高が立案した作戦に従い、北畠軍は攻城戦の準備を始める。その間に官兵衛絡みでひとつ騒動があった。彼は秀吉に村重の説得を止められたにもかかわらず強行したらしい。折しも小寺家が毛利家に鞍替えしたため、信長は官兵衛の行動を裏切りと判断。人質の松寿丸の処刑を命じた。具房はこれを止めるべく奔走した。官兵衛の知略は大いに役立つからだ。
同時に竹中半兵衛も動いていた。だが、二人はアプローチの方法が違った。半兵衛は身代わりを用意し、その首を松寿丸の首だといって救おうとする。対する具房は、信長に直談判した。
「小寺殿が荒木に捕らえられたのを忍が確認しています。彼は裏切ってはおりません」
だから松寿丸は殺さなくてもいい、と。この説得が奏功し、松寿丸の処刑は保留となった。信長は具房に有岡城を落とし、官兵衛を救出するように言う。真偽は官兵衛から直接聞く、というのだ。
有岡城を攻略する重要性が一段と増した状態で、北畠軍は攻撃を開始した。状況は変わってもやることはひとつ。有岡城の攻略だ。二の丸まで、城門や城壁を砲撃で破壊しながら進む。反撃してきたら、そこへ砲弾を撃ち込むというオーバーキル。荒木軍も城門を補強するなどの対策はとっていたが、そんなことはお構いなし。一撃でダメなら二撃、三撃と加えてとにかく施設を破壊する。
こうして北畠軍はわずか一日で二の丸まで制圧した。日没が近いということで、その日は攻撃を中止する。ーーというのは建前で、実際は官兵衛を救出する手筈を整えるためだ。日没を理由に攻撃を中止したのは事実だが、そうなるよう北畠軍側で調整した結果である。
夜に荒木軍が夜襲を仕掛けてきた。まともに戦ったのでは勝ち目がないと思ったのだ。しかし、その程度は具房も予測している。陽動などもない単純な夜襲であったため、警戒していた北畠軍に返り討ちにされた。
「準備が整いました」
「よし、攻撃開始だ」
忍から(官兵衛を救出する)準備が完了したとの報告を受け、具房は攻撃を開始した。時刻はまだ払暁。夜襲が終わり、荒木軍が束の間の休息をとっていたーーつまり最も気が緩んでいるタイミングでの攻撃で、初動が遅れる。それが致命的なミスだった。
城門が破れ、北畠軍が雪崩れ込む。城内では凄まじい乱戦が展開された。その喧噪に紛れ、忍が地下牢に囚われていた官兵衛を救出する。忍に護衛されつつ、官兵衛は北畠軍の本陣に脱出した。
「伝令! 『至尊は隠岐を出た!』」
「よし、お遊びは終わりだ!」
伝令が後醍醐天皇の隠岐脱出の故事に倣った符丁を伝える。これは官兵衛が脱出したことを知らせるものだ。北畠軍は符丁を聞くや白兵戦を切り上げ、遠距離戦に移行した。こうなると荒木軍に逆転の目はなく、有岡城は陥落した。正味二日の早業である。
村重は落城のどさくさに紛れて逃亡した。城に抜け道が確認され、そこを通って逃げたものと考えられる。信長は村重を含む荒木一族の徹底した追討を行い、発見され次第、捕らえて処刑した。具房は関与しない。こういう中世的な価値観からくる殺生が無益に思えてならないからだ。家臣たちにも荒木一族を見つけても無視するよう伝えた。
落城に伴うドタバタが収束した段階で具房は官兵衛に面会する。彼が捕らえられていたのはわずかな期間だったが、衰弱していた。冷遇されたのか、それとも村重の説得に失敗したことを気に病んでいるのか……具房には判然としなかった。
「大納言様(具房)……。お助けいただきありがとうございます」
「無事で何より。だが、羽柴殿は心配していたぞ」
官兵衛が捕らえられたと聞いた秀吉は動揺していた、との報告が上がっている。有岡城を攻める具房に彼の救出を求める手紙を何通も送っていた。それだけ彼の才能を買っているということだ。
「此度の件、内府殿はそなたの謀反ではないかと疑っておられた」
「そんなつもりは!」
「わかっている。わたしもそう思い、松寿丸の処刑は保留にしておいた」
「あ、ありがとうございます」
官兵衛は息子の命を助けてくれたことに礼を言った。具房はそれを受け取りつつ、
「竹中殿も何か手を回していた様子。帰陣した際には礼を言っておくといいだろう」
と助言する。が、まずは信長に対する弁明から。京へ向かう官兵衛に、一筆書いて与えておく。これで官兵衛にかけられた嫌疑も晴れるだろう。ついでに秀吉に助言し、官兵衛に休養を与えさせた。心身の回復のためだ。有馬温泉で少しの間だが湯治ができるよう手配する。
「何から何までありがとうございます。このご恩は決して忘れませぬ」
「ははっ。これくらい当然だ。疲労が抜けたら内府殿の許へ行くといい。なに、悪いようにはせぬ」
「はっ」
このときのことを官兵衛は生涯忘れることはなかった。
本来、信長は76年に内大臣、77年に右大臣に進んでいます。しかし、この世界では一年遅れ。理由は具房が上にいたからです。