初陣
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永禄元年(1558年)、鶴松丸は戦国時代における成人式ーー元服を終えた。これで鶴松丸という名前は捨て、新たに具房という名前を得た。通称は太郎。よって彼の名前は北畠太郎具房となる。
「ようやく終わったか……」
堅苦しい儀式など前世では無縁だった具房には、元服という厳かな雰囲気で行われる儀式が苦痛でしかなかった。その反動から、ついだらしない素が出てしまう。そんな彼をたしなめる者がいた。
「若様。そのようなことを言ってはなりませんよ」
「ん? ああ、権兵衛か」
具房の側近である権兵衛。側近のなかでは武闘派に属するが、猪三のように完全な猪武者というわけではない。常識人だ。だからこうして常識外れの行動をたしなめてくれる。
この場には葵を含め、側近が勢揃いしていた。ただ、猪三は酒をバカ飲みしたため酔い潰れ、寝てしまっている。具房は暴れられるよりはいいか、と放置していた。彼らもそれぞれ成人を済ませている(男は元服、葵は特別に裳着を行った)。男性陣は具房に従って初陣を飾る予定であった。
「若様はあまりお酒を召されないのですね」
「そうだな。あまり好かない」
徳次郎の質問に、具房は素っ気なく答えた。ゼミやバイト先の付き合いで飲むことはあったし、酒も嫌いではない。しかし、この時代で「酒」といえば濁酒であり、なんとなく気が進まなかった。多少は嗜むかもしれないが、猪三のように潰れるまで飲むことはないだろう。
(それはそれで健康によさそうだな)
とはいえ、具房も酒は飲みたい。将来、清酒やビール、ワインの生産に挑戦しようと決めた。
「太郎様」
具房が将来の酒生産について考えていると、葵が隣にそっと座る。彼女は具房の側室となることが確定していた。側に居続けるためには猪三たちと結婚するか、具房の側室となるかーーその二択であった。そして葵は後者を選んだ。曰く、他の男連中は色々と頼りないとのことである。
そんな葵と一緒に過ごせるのは今日が最後となる。というのも、戦国時代には女性は穢れた者という考えがあり、武士は戦の数日前から女性との接触を禁じられるのだ。具房からすればとんでもない迷信であるが、今の彼ではそんな風習を覆すことはできない。
「ご武運を」
葵はそれ以上、何も言わなかった。ああ、と具房は決然と答えた。
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数日後。具房は鎧を身に纏い、馬に乗って霧山御所から出陣した。総大将は実父・北畠具教。具房は部隊長としての参加だ。総勢一万。具房はそのうち千の指揮を任されていた。
なお、祖父の晴具は城で留守番である。健康状態に問題はないが、合戦に出られるほど元気というわけでもない。今回は必勝を期して一万の軍を動員しており、国内が少し手薄になる。そのため万が一に備えて国の重石になってもらうのだ。晴具は戦上手でもあり、不安はない。本人も、もう少し連れて行ってもいいのだぞ、と笑っていた。
「目指すは安濃津! 今度こそ長野工藤家を打ち倒すのだ!」
「「「オオーッ!」」」
具教が宿敵打倒の気勢を上げ、将兵がこれに追従する。
「兄上! ごぶうん(武運)を!」
「おう!」
葵や生母である北の方は見送りの場にはいないものの、代わりに弟の智松丸が大きな声で見送ってくれる。具房は手を上げてそれに応えた。
軍は一気に安濃津まで進む。ここで長野軍と合戦になる。
「かかれ!」
具教の号令一下、兵士たちが一斉に前進して激突する。具房はそれを高みの見物だ。
「我が方が優勢ですな」
「そうだな」
「オレも行きたいぜ!」
権兵衛は戦場を冷静に分析する。その傍で、猪三は戦いたいとばかりにうずうずしていた。
「そう逸るな、猪三」
具房はそうなだめた。一方、佐之助は顔色が悪い。戦場の殺伐とした空気に呑まれてしまっていた。それを徳次郎が励ましている。が、それは微妙に励ましになっていなかった。
「佐之助。そんな顔を青くするなよ。今からそんなんじゃ、敵と戦えないぞ」
「いいよ、別に……」
戦う気なんてないし、とボソボソと小声で言う佐之助。徳次郎は上手く聞こえなかったが、具房には届いていた。このままだと軍の士気にも関わるため、ひと言だけ言っておく。
「安心しろ。我らは千の精兵に守られているのだ。敵は寄せつけない。そうだな?」
「「「オオーッ!」」」
具房の呼びかけに、兵たちは声援で応える。上手い士気の上げ方だ、と具房のお守り役である卜伝は感心する。
「しかし、そろそろ合戦も終わりのようじゃ。どうする?」
卜伝は敢えて挑戦的な言い方をした。お前を試しているのだ、というメッセージである。それはもちろん、具房も心得ていた。彼はニヤリと笑うと、おもむろに刀を抜く。それに対する反応は様々だった。
猪三と徳次郎は期待するように目を輝かせ、
権兵衛はやれやれと肩をすくめ、
佐之助はまさかと目を見開き、
卜伝は静かに闘気を滾らせる。
具房が抜いた刀は高く頭上に掲げられ、殊更ゆっくりと下された。そして静かでありながら、よく通る声で号令する。
「突撃」
と。
「いくぜ!」
これに反応したのが猪三。彼は弓弦から放たれた矢のように勢いよく飛び出す。さらに将兵も続いた。権兵衛も、
「徳次郎。佐之助は任せたよ」
と言い残してこれに加わる。
「「ええっ!?」」
徳次郎と佐之助はまったく同時に困惑した声を上げた。しかし、意味は異なる。前者は自分も行きたかったのに佐之助のフォローをしたのでは武功を挙げられない、という意味。後者は戦いの渦中に自ら行くなんて、という意味である。
そんな彼らの内心を汲んだ具房は、馬を二人の許に寄せる。
「徳次郎。佐之助のことは任せろ」
「本当!?」
「ああ」
「では!」
徳次郎も喜び勇んで馬を進めた。代わって具房が佐之助を守ることになる。佐之助は、主君が守ってくれるのに不満を言うわけにはいかず沈黙した。これは具房の狙い通りである。
(すまん)
と心のなかで謝る。しかし、慣れてしまえばあまり気にならないので、それまでの辛抱だと自己弁護した。
「行くぞ」
「は、はい」
具房に促され、自信なさ気に応じる佐之助。二人はぴったりと横に並び、千の軍勢の中央に陣取った。先頭にいるのは猪三。少し後ろに権兵衛、徳次郎と続く。
「錐となれ! 長野勢を刺し貫くのだ!」
北畠軍に押され、ジリジリと後退していた長野軍。ここにきて戦いに参加していなかった具房隊が攻撃をしかけたことで、軍は完全に瓦解した。
「ひ、引け! 引けーっ!」
敵が退却を開始する。が、具房はそれを逃さない。
「蹂躙せよ!」
馬に鞭を入れ、突撃させる。雑兵は蹴散らされ、まったく相手にならなかった。具房の軍勢は本陣まで突入する。そこには総大将である長野藤定はおらず、殿軍の大将で長野一門である雲林院祐基のみがいた。仕方なくこれを討ち取った。首を上げたのは猪三である。
「ひいっ! 雲林院様が討ち取られた」
「もうダメだ!」
殿軍は大将を失ったため潰走を始める。逃亡する者、降伏する者など様々だ。猪三は兜首を上げて誇らしそうにしていたが、そこに具房がやってきて叱る。
「猪三! まだ戦は終わっておらぬぞ!」
言葉で冷水をぶっかけて、猪三の興奮状態を治めた。さらに具房は矢継ぎ早に命令を出す。
「権兵衛には騎馬百を預ける。降伏した兵をまとめ、味方に引き渡せ。終われば直ちに追ってくるように」
「はっ!」
「残りは追撃だ! まず安濃津を陥れ、その勢いで北伊勢まで併呑する! 目指すは桑名! 先鋒は猪三だ。兜首ひとつで満足してはいられないぞ」
「任せろ!」
叱責されて消沈していた猪三も、その言葉で元気を取り戻す。具房隊は寡兵ながらも電撃的に北上を開始した。
伊勢湾の要地、安濃津城は即日陥落。その後も奄芸郡、河曲郡、鈴鹿郡、三重郡、朝明郡、員弁郡と落としていき、最終的に桑名郡まで平定してしまった。北伊勢には北勢四十八家と呼ばれる豪族が割拠していたが、具房の進撃速度が速すぎるためまともに兵も集まらないまま撃破されていった。
途中、父の具教から進撃を止めるようにとの使者が来たが、具房は無視した。逆に退路を確保するため、伊賀方面に押さえの兵を送るようにと要請している。
具房が北伊勢を平定して帰ってきたときには、既に長野家との和睦は成立していた。内容はほぼ史実通り。智松丸が養子に入り、長野家は事実上、北畠家の分家となる。だが、具房が北伊勢を平定したために、それらとの和睦という新たな外交課題が生じた。
「まったくお主は……」
具教は困ったように言うが、その割には嬉しそうである。伊勢を平定できたのだからさもありなん。伊勢国司としての面目躍如というものだ。もちろん具房はこのことも計算に入れている。結局、独断専行は北伊勢平定の功績によってお咎めなしとなった。
具房は父に連れられて評定の席に出る。そこでは具足姿の武者が詰めていた。普段よりもむさ苦しい。早く終わりますように、と願いつつ席についた。
「無事に太郎も戻った。これより論功行賞を行う」
ということで、手柄を上げた者が読み上げられ、適当な褒美を与えられる。一番手柄は兜首(しかも一門衆)を上げた猪三であった。彼には武勇に富んでいるということで『武富』の名字が与えられ、名も具房から偏諱を受けて房正となった。通称は引き続き猪三である。
一番手柄としてはいささか足りない感があるが、これは具房が待ったをかけたためだ。元は猪三に所領が与えられることになっていたのだが、所領を持つと具房の計画に支障が出る。そこで名誉を褒美としたのだ。
猪三に対する褒美が少ないのではと家臣たちが疑念を持ったが、そんなことよりも注目するべきものがある。それが具房に対する褒美であった。初陣ながら、合戦に決定的な勝利をもたらし、北伊勢を平定する快挙。これに対してどれだけの褒美を受けるのかと、注目されていた。
「ーー太郎には北伊勢と安濃津城を与える」
「「「おおっ!」」」
具教の言葉に場がどよめく。この処置はつまり、具房が切り取った領土はすべて彼のものとなったことを意味するからだ。その行政府となるのが安濃津城ーー位置的に、長野家に対しても影響を及ぼす。新たな領国の統治を具房に委任したに等しかった。
「ありがたき幸せ」
もちろん具房に受けない理由はなかった。その後、この方針に基づいて北勢四十八家との和睦が行われた。具房に城を落とされ、一族ほぼすべてを人質とされているために彼らは否といえず、条件を丸ごと呑む羽目になった。なお、小規模な抵抗勢力は統治を始めた具房によって排除されることになる。
こうして華々しい成果を挙げた具房。彼は一気に家臣たちの注目を浴びる。評定が終わると山のような面会要請があった。断る理由はないので、すべてに応じた具房。そこで決まって問われたのが、なぜこのように城を次々と落とすことができたのか、ということだった。
通常、城攻めは数ヶ月や数年の時間を必要とする。それがこの時代の常識であるが、具房は無数の城を立て続けに落とした。その期間は数時間。明らかに異常だ。城攻めのコツがあるならば是非とも知りたいーーというのは、武士共通の願望だった。具房は隠すこともないので事実をありのままに話した。
「それは事前の準備ですよ」
と。北伊勢平定は将来的な目標として持っていた。今回の合戦は絶好の機会。そこで具房は忍者を使って欺瞞情報を流し、軍勢を味方に偽装して城を落としたのだと伝えた。初歩的な手だが、敗戦の混乱に乗じてそれを可能にした。なお、旗幟を鮮明にしなかった者は利敵行為として攻めている(恭順した者は対象外)。
この話を聞いた諸将が必ず口にしたのは、敵中に孤立する可能性は考えなかったのかということだった。これに対して具房は、
「陸地すべてに兵が置けるわけではない」
と返している。たしかにそうだが、普通の感覚の持ち主であればそんなことはできない。具房を猪武者と見なす者と稀代の戦略家と称賛する者ーー諸将の反応は概ねこの二つに分かれるのだった。
【解説】
葵が具房の側室になったのは、いわば彼の性的な練習台になるためです。この時代、婚姻で重視されるのは家同士のつながりです。しかし、葵はただの村娘なので、普通は具房の妻にはなれません。そこで彼は、葵を練習台とすることで側に置くことに成功しました。普通、経験豊富な女性がその役目になるのですが、具房は色々と特殊なので……。そうご理解ください。この説明だと、側室というよりは妾の方が正しいかもしれませんね。