雪の嫁入り
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遂にこの日がやってきた。
この言葉が、具房の心を最も的確に表している。
今日、雪が嫁入りする。婚姻可能な年齢(十六歳)になった具房の姉妹のなかで、最も遅い。まあ色々なことがあったし、具房は結婚は個人の自由だからやらなくてもいいじゃん、という考えだ。もっとも、立場がそうさせてくれないのだが。
婚儀は岐阜で行われることになった。京でやる予定だったのだが、房信を呼び寄せたときに武田が動いたら拙い。最悪、いくらか領地を削られてしまう。武田は近年、勢力の回復に努めているため油断はできない。防衛体制に穴を作らないため、岐阜での開催となった。
なお、敵対している勢力のなかで最も強大な毛利が攻めてきたらどうするのか? という疑問が浮かぶのは当然だ。その答えは、問題ない、である。彼らは山名が旗幟を鮮明にするまで動くつもりはないらしく、必死に調略を仕掛けていた。だが、但馬山名氏が首を縦に振らない。山名祐豊は織田家に対抗するために毛利家と結んだが、だからといって積極的に織田家に逆らうつもりはないようだ。見事なまでの蝙蝠外交である。
「ではお兄様、行って参ります」
「ああ」
白無垢に身を包んだ雪が挨拶をする。嫁を出す側の家族がやれることは少ない。現代のように、両家の親族や関係者が集まって式をやるわけではないのだ。具房は心配でならない。送り出される雪もーー注意して見なければわからないがーー寂しそうだ。
しかし、そんなしんみりした空気を纏うのは兄妹だけ。お市をはじめとした家族、そして家臣たちは盛大に祝っていた。
「おめでとう、雪さん。兄上(信長)は気難しい人だけど、私たち(女性)には優しいから」
「はい。ありがとうございます」
お市は雪の輿入れを祝うとともに、信長に対する接し方のレクチャーをしていた。彼女の言う通り、信長は女性に優しい。彼は雪の才覚を気に入っていたようだし、具房との関係もある。無碍にはされないだろう、と具房も考えていた。理性と感情は別物だ。少しでも雪が苦労しないよう、信長やその正室・濃姫に贈り物をするとともにくれぐれもよろしく、と言っている。先方も丁重に扱う、という主旨の返事をしてくれていた。
「身体には気をつけて」
「葵さんも」
身体を気遣う葵に対しては、貴女も身重なんだから……と雪。これには葵も苦笑する。だが、彼女の口からおめでとうとの言葉はない。なんだかんだで、二人は幼少期からの付き合いだ。本音もわかる。雪が嫁入りを快く思っていないことにも気づいていた。だからこそ『おめでとう』とは言わない。
「……また会おう」
「ええ。必ず」
蒔は再会を約束した。普通、大名の妻となれば滅多に会える機会などない。だが、彼女であれば忍び込んで会ってしまいそうだ。雪が小声で蒔さんが羨ましい、と言ったのを具房は聞き逃さない。蒔が護衛のために四六時中具房と行動を共にしていることを羨んだのだ。自分がそうなりたい、と。土台、無理な話ではあるが。
「お茶でス。飲んでくださイ」
「相変わらずね、毱亜さんは」
毱亜はお茶の入った水筒(竹筒)を差し出す。そのお茶への拘りを見て、雪は苦笑する。だがそれは、知らず知らず入っていた肩の力を抜くことにつながった。果たしてこれが意図されたものなのか、はたまた偶然か。毱亜以外にはわからない。
この他、京にいる敦子からも祝電が届いている。両家の婚姻は前々から決まっていたこともあり、京ではいつやるのか? という噂がちらほら囁かれていた。その辺りは、さすがは政治の中心である京の人間といえよう。
祝電と一緒に送られてきた手紙には、公家たちがご祝儀の調達に苦労していることが書かれていた。北畠ブランドの品が使えないためだ。嫁の実家の商品を贈るバカはいない。だからこそ困っている。お祝い事には、何も考えずに北畠ブランドの品を贈っておけばよかったからだ。公家たちは久しぶりに目利きという言葉を思い出した。それは公家に限らず、商人も同じようだ。
雪の花嫁姿を見て目を輝かせているのが、結婚の決まっている宝を筆頭とした具房の娘たちである。まだ早いんじゃないか? と思う具房だが、お市はいい傾向だと思っていた。具房がいかに抵抗しようとも、娘側から言わせれば断らない、と考えたからだ。花嫁姿を見せるのも、情操教育の一環である。
「それでは。お世話になりました」
そう言って雪は輿に乗り、岐阜へと旅立つ。具房たちは輿が見えなくなるまで見送るのであった。
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輿に揺られて岐阜へ向かう雪。その心中は憂鬱であった。
(お兄様とお別れしてしまうなんて……)
残念でならない。他の姉妹は家臣に嫁いでいる。自分もそうなると思っていた。領内であれば、具房の許へ遊びに行くこともできる。正直、京で信長と房信に見初められたことは想定外だった。つい、悪態を吐きたくなる。
だが、花嫁行列を見ると心が救われる気がした。嫁入り道具を運ぶ人夫は約一万人、護衛するのは具房直属の親衛隊・三旗衆。具房が、どれだけ自分を大切に思ってくれているかがわかる。自然、笑みが溢れた。
『文(手紙)を送ってくれ。せめて、愚痴は聞いてやるから』
最後の夜、雪を訪ねた具房はそう言った。場合によっては、信長に諫言するという。
(そのときのお兄様のお顔、何て凛々しいのかしら)
語尾に♡がつきそうなテンションになる雪。回想は、京でのデートに及ぶ。そのとき買ってもらった櫛は、今でも大切に使っている。というか、やむを得ない場合を除いて肌身離さず持っていた。
旅の間、雪は具房との思い出に浸り、ときにニヤニヤしつつ過ごした。だが、時間は無限ではない。岐阜へと着いた、という無情な言葉が雪にかけられた。
夜に到着するよう道程が調整されており、そのまま式が行われる。輿から降りると、化粧をして房信と対面。式三献(三三九度)をして身を清めると床入りする。
「雪。遂に夫婦となれるのだな。嬉しいぞ」
「わたしも同じ気持ちですわ」
房信が興奮を隠し切れていないのに対して、雪は恐ろしく平坦な声だった。両者の温度差が凄まじい。同時代の武将としては、房信はかなりの優良物件である。絶対はないが、このままいけば雪は天下人の正室となるのだから。
しかし、雪からすればちっとも魅力がない。時代の異端児といえる具房を間近で見てればさもありなん。彼と比べれば、他の男が霞んで見えるのも仕方がない。
二日後、お色直しをして婿の親族と対面する。信長とは京で一度会っていた。
「雪殿が勘九郎(房信)の正室になってくれて、我は嬉しいぞ!」
信長は上機嫌。最近、アルコールが少ないためよく飲んでいるビールをガブ飲みしている。翌日、二日酔いに悩まされることだろう。
「恐縮です」
と雪は控え目に返答した。
信長を皮切りに、織田一門との顔合わせが始まる。家内の序列通りの順番で。房信は夫。なので次席の信雄から挨拶を受ける。
「いい女だ。オレの能を見るといい」
「三介様(信雄)は能がお上手と伺っております。機会があれば是非」
上から目線の言葉に、内心で腹を立てる雪。だが、表には出さずにやんわりと受け流した。
三席は庶長子の信広。しかし、彼は信長の代理として京に留まっているため欠席だ。なので、四席の信興となる。
「お美しいですな。さすがは左大将様(具房)の妹君。左大将様にはお世話になりました。何かお困りのことがあれば、微力ながらお力添えしますぞ」
「お気遣いありがとうございます、彦七郎様(信興)」
今は敦賀の領主となっている信興はかつて、具房から割譲された尾張海西郡を統治していた。近場ということもあり、北畠家との交渉を担当。おかげで家中で大出世し、兄の信包を抜いて序列四位を獲得していた。なお、滝川一益も同様の出世コースに乗っている。
そんな前歴を持っているため、信興は具房に感謝の念を抱いており、また雪とも面識があった。具房が妹(特に雪)を溺愛していることも知っており、彼から雪のことをよろしくと頼まれたひとりでもある。無論、出来る限りのことはやるつもりだ。
雪も具房からいざというときに頼りにする人物として信興を挙げており、挨拶を通して彼の誠意を感じた。
五席は信孝。こちらは物腰が柔らかい。
「織田三七でございます。今後ともよろしくお願いします」
「雪です。こちらこそ、よろしくお願いしますわ」
そんな信孝に、雪は好印象を抱いた。以下、信包、信澄と挨拶は続く。だが、その相手をしつつ雪はあることが気になる。それは、信雄と信孝兄弟の確執だ。
「おい、三七。いい子ぶりやがって。女から兄貴に取り入り、オレを追い落とすつもりか?」
「そんなつもりは毛頭ありません、兄上」
「はっ。どうだか」
信雄は一方的に因縁をつけると、そのまま席へ帰っていった。信孝は不愉快そうだ。無理もない。
「三介殿のなさることです。気にしてはいけません」
「あっ、帰蝶様」
声をかけてきたのは義母の帰蝶だった。彼女は具房からの依頼もあり、雪が過ごしやすいよう便宜を図るつもりだ。
(左大将様から贈られる品はいずれも素晴らしいものですし)
動機は俗なものだが、具房としては雪の快適な暮らしが保証されるのならば一向に構わない。
だが、やはり織田家での生活はなかなか苦労するものだった。その理由は人間関係ではない。生活水準だ。
具房によって文化レベルが大幅に向上されている北畠家では、料理ひとつとっても洗練されている。織田家もその影響を受けているものの、本家と比べれば質が落ちることは否めない。また、毎日のように風呂に入れないのも辛かった。
(あ〜あ、お兄様に早くお会いしたいわ)
知らず知らずのうちに贅沢に慣れていた雪は、実家での思い出を糧に過ごしていくこととなる。