タイムスリップ症候群《シンドローム》〜近未来精神科医の示す道〜
モノクロの診察室で、若い白衣の男性が優しく問いかける。
「名前は言えるかい?」
うなだれた少女は彼を一瞥し、かろうじて頷いた。
「心詠……」
風の音にかき消されてしまいそうな、細やかな囁き。
それを正面から受け止め、男性は微笑む。
「うん、素敵な名前だ。とっても……」
彼の憐れみも温もりも、彼女には届かない。
丸椅子に体重を預けているのがやっとの様子だ。
「歳は?」
「十五歳……“だったはず”です」
彼女に許された精一杯の誠意を汲み、白衣の男性は大きく頷いた。
「質問を変えよう、僕に会うのは初めて?」
「はい」
「それじゃあ……」
そこまで口にして少し言い淀む男性。
喉元につかえた空気を鼻へ通してから尋ねる。
「“今朝”の事故は何度目?」
その後、しばらくの沈黙が続いた。
質問の意図が解らない……というわけでは勿論ない。その証拠に彼女の唇は忽ち青ざめ震え出す。
呼吸は次第に荒くなり、そしてーー
「……んども、何度も何度も何度も……!」
呟きは徐々に声色を強め、次いで涙のニュアンスが乗る。
「何度も何度もやり直した! けど……結局何も変えられなかった」
「いいや、君は百人以上もの命を救った」
「でも一番大事な人を救えなかった!」
「そうか……やはり君は、午前中に起きた一連の事故を数え切れないほど繰り返して来たんだね?」
「ええ、それでもようやく辿り着いた果てにあったのは……皆を救えば彼が死ぬ、彼を救えば皆死ぬ……そんな絶望的な状況だった」
時を呪い、世界を憎み、自分自身を責め立てるように少女はその身を震わせた。
「何もかも無駄だったのよ……」
「心詠さん……いや、“心詠”。顔を上げて」
白衣の彼は変わらず穏やかな表情で続ける。
戸惑う少女はゆっくり男性の顔を見上げた。
「方法がまだ残されているとしたら、再び立ち上がる覚悟はあるかい……?」
一瞬、時が止まったような感覚がその場を支配する。
心詠は一度見開いた目を泳がせ、そらし、伏せる。
「もう一度戻れれば……けど無理、もう石は輝かない」
「これを見てもそう言えるかい?」
彼は懐から小さな輝石を取り出す。
「僕も諦めが悪くてね。妻との生活はこの上なく幸せだったけれど、ついに本当の笑顔は見られなかった」
「それって……」
「安心していい……君は彼を救える。そして良いお嫁さんになれるよ」
石はさらに発光し、モノクロだった部屋を虹色に染めた。
少女の目には数千数百の過去とたった一つの未来が確かに映し出されていた。