第1章 ドラグーン・ゲヘナ〈18〉
一方、黒い影の殺人鬼が『ドラグーン・ゲヘナ』マニアであると云う線も捨てがたい。
彼は織部に「学園の戦鬼か?」と問うたし「真実を知れ。現実から目をそむけるな」などと云うセリフは『ドラグーン・ゲヘナ』に登場する覚者のものだ。
しかし『ドラグーン・ゲヘナ』に幽鬼のごとき殺人鬼など登場しないし、覚者が夜な夜な人を殺して歩くなどと云ったウワサも寡聞にして知らない。『ドラグーン・ゲヘナ』で狩るのは人ではなくドラゴンだ。関連性が見あたらない。
ただ、昨晩の一件が織部の妄想か『ドラグーン・ゲヘナ』マニアの殺人鬼か、となれば、織部の妄想へ軍配が上がる。
学園の校舎に織部と黒い影の殺人鬼があらそった痕跡や証拠が一切見いだせなかったからだ。
じつはやっぱり現実で、織部が登校してみたら廊下に斬り裂かれた消火器や派手にぶちまかれた消火剤がのこっていて騒ぎになっているなどと云うことも危惧したが、それもなかった。
織部がピンチの際に御厨紫峰が登場したのも、意識下で学園一の美少女と謳われる彼女に惹かれていたのか、昨日の朝、教室で目があったことの印象によるものと思えば、すべての説明がつく。
いつの間にか、彼女の手に細剣が握られていたことも、マンガやアニメやゲームでなければありえない。
『ドラグーン・ゲヘナ』プレイヤーの妄想とは不本意かつ不名誉なことだが、それでカタのついた方が織部としてはこれ以上悩まずに済んだかもしれない。
しかし、昨晩。帰寮後、自室でジャージのポケットからとりだした英語の教科書の縁が消火剤で白く汚れていた。
織部の目は自然と窓際最前列の席でひとり文庫本を読んでいる御厨紫峰のうしろ姿に吸いよせられた。よしんば、昨夜の一件が織部の妄想でなかったとしたら、すべての真実を知っているのは彼女だけだ。
織部はすぐにでもかのじょの元へかけよって昨晩の一件を問い質したかったが、万が一にも自分の妄想であったら、と云う気分がそれをためらわせた。
妄想を見ているあいだに自分でも知らないところで消火剤に触れた可能性もないとは云えまい。自分が信じられない状況で他人を問いただすほどの度胸はない。
昨晩、織部の前にあらわれたのが御厨ではなく『ドラグーン・ゲヘナ』でパーティーを組んでいる草壁市姫や篁芳乃であれば、気軽に話を聞くこともできただろう。『ドラグーン・ゲヘナ』への理解があれば、それが織部の妄想のたぐいであっても説明をすることはたやすい。
しかし『ドラグーン・ゲヘナ』と云うゲームのことすら知らないであろう御厨へ一から説明するのは酷だ。
ただでさえ、とりつく島のない御厨にゲームオタクの妄想狂と認定され、軽蔑され、話すら聞いてもらえなくなったら、いかな朴念仁の織原織部とて再起には相当の時間を要する。
織部の視線に気づいたのだろうか、御厨が文庫本から顔を上げると、織部の方をふり向いた。一瞬、御厨と目があったが、彼女は目礼するでもなく、なにごともなかったかのように、ふたたび視線を文庫本へおとした。
「ジャマだ。どけよ、チビ」
教室のうしろ扉の前へ立っていた織部の背中を、集団登校の長宗我部が肩で押した。長宗我部は軽いイヤガラセのつもりだったが、織部はなにかに気をとられたまますなおに謝った。
「……ああ。済まなかった。ゴメン」
(なんだ、こいつ?)
長宗我部は拍子ぬけした。




