第1章 ドラグーン・ゲヘナ〈16〉
織部は思わず目をこすった。夜目にかすんで人影がぼんやりとしか見えなかったのかと疑ったが、人影は黒い靄に全身をつつみこまれたかのように茫洋としていた。
「……オマエ、ガクエン、ノ、センキ、カ?」
黒い人影がノイズまじりの低い声でたずねた。
「……学園のセンキ?」
学園の生徒か先生ならわかる。聞きまちがいかといぶかしむが、黒い人影はゆらりと一歩を踏みだしながら、もう一度おなじセリフをくりかえした。
「……オマエ、ガクエン、ノ、センキ、カ?」
気がつくと、黒い人影の右手には織部に見おぼえのある洋風の剣がだらりとぶら下がっていた。その剣の正体に気づいた織部が黒い人影の言葉の意味を理解した。
「学園の戦鬼!?」
黒い人影の握る剣は『ドラグーン・ゲヘナ』で魔装剣鬼が最初に武装している〈鉄の剣〉である。
「シンジツ、ヲ、シレ。ゲンジツ、カラ、メヲ、ソムケル、ナ」
身体を大きく左右にゆらしながら黒い人影が一歩一歩近づいてきた。段々歩調がはやくなる。織部は英語の教科書をジャージのポケットへねじこむと、踵をかえして廊下の奥へかけだした。
「シンジツ、ヲ、シレ。ゲンジツ、カラ、メヲ、ソムケル、ナ」
織部の逃げた方向はいきどまりである。黒い人影の背後へまわって階段へ逃げるためには、教室のひろい空間を利用して迂回するしかない。
ヒタリヒタリと不気味な足音をひびかせて間をつめる黒い人影へ、織部はトイレわきに設置された消火器を手にとった。
織部は消火器をつかおうとしたが、消火器をつかった経験もなければ、手元が暗くてグリップをとめるシールのはがし方やストッパーの解除方法もわからない。
「くそっ!」
織部が重い消火器をふり上げて黒い人影の頭部へ投げつけると、黒い人影の右手が無造作に閃いて消火器を斬り裂いた。
バンッ! と云う轟音とともに消火器が破裂し、白い消火剤が煙のように四散した。
まっぷたつに切断された消火器が織部と黒い人影の頭上を飛びこえてガランゴツンと音をたてておちる。
白い消火剤にまみれた黒い人影が消火剤に足をとられて転んだ隙に、織部はとなりの教室へかけこんだ。
〈鉄の剣〉をたずさえた黒い人影は、ちょうど教室前後の扉をはさんでまんなかへ位置する廊下にいる。
織部はそのまままっすぐ教室のうしろ、窓際の掃除用具入れにとりついて中からモップをとりだした。モップの留め具やバネが鉄製なので、黒い人影の一撃をうけながすことができるかもしれない。
教室前方へまわった織部が、閉まる扉から距離をとってモップの柄を先にかまえた。黒い人影の一撃で扉ごと斬り裂かれるようなことはないだろうが、でてくるところを待ち伏せされている可能性はある。
(一体なんなんだあいつは!? そもそも人間なのか!? ……て云うか、あいつがウワサの殺人鬼か!? どうして『ドラグーン・ゲヘナ』の剣なんかもってるんだ!?)
ようやくすこしおちつきをとりもどしつつある織部が、おくればせながら黒い人影が件の殺人鬼であることに気がついた。
(〈鉄の剣〉をもつアイツがちまたを騒然とさせている殺人鬼だったとして、一体どこから校舎へ侵入したんだ? それに輪郭のはっきりしないあの黒い影はなんだ?)
つのる疑問は山ほどあるが、こまかいことはこの窮地を脱してから考えるべきであろう。
織部が扉のとっ手にモップの柄をひっかけて小さく扉を開けると、案の定、その隙間めがけて〈鉄の剣〉の切先が突きだされた。
「うおおおっ!」
扉を開けた動作を利用してモップの柄を回転させた織部は、モップをはさんでいる留め具の空隙に〈鉄の剣〉の切先を噛ませると、そのまま黒い人影の突きを押しもどす形で背後の壁面へ黒い人影をたたきつけた。
〈鉄の剣〉に噛ませたままのモップから手をはなして、ジャージのポケットに英語の教科書があることを片手で確認しながら、織部は階段へむかってかけた。
「シンジツ、ヲ、シレ。ゲンジツ、カラ、メヲ、ソムケル、ナ」
壁にたたきつけられた黒い人影がつぶやきながらゆっくりと身体を起こす。
(とにかくおれが校舎をでて、こいつを校舎に閉じこめれば、すこしは時間が稼げるはずだ! そのあいだに警察へ電話を……!)
足をもつれさせながら、なんとか冥い階段を転ばずにかけ下りた織部が舌打ちした。かれは〈リンクス〉をもってでなかったので、公衆電話を見つけて電話しなければならない。




