148 捨てられないもの
――野球の代わりになるもの。
俺だってそれを探さなかったわけではない。もう野球は出来ないのだと心の底から実感したとき、俺は野球の代わりになるものを探そうとして放課後に街をぶらついたりもした。
映画を見たり、色んな店を回ったり、今までだったら興味を持つことはなかっただろうものにも、積極的に目を向けるようにして――。
――けれど、何も見つからなかった。
面白いものや、かっこいいと思えるもの、よく分からなくても何となく良いなと、そう思えるものは確かにあった。
そんなきっかけで興味を持って、触れていくうちに楽しくなって、そうしていくうちに好きになることだって、もしかしたらあったのかも知れない。
しかしそう頭では分かっていても、どうしてか熱くなれない。夢中になれない。熱中出来ない自分がそこにはいた。
楽しそうだなと思っても、俺が今までやってきた野球はもっと楽しかっただろうと、ついそんな風に考えてしまうのだ。
そんな俺が、夏休みとはいえ今はこうして毎日ゲーム三昧の日々を送っている。熱中していなければ、きっとこんな生活はあり得ないはずだった。
「ゲームは、凄く楽しいよ。だから誘ってくれたハルカには感謝してるし、一緒に遊んでくれてるみんなにもお礼が言いたいと思ってる。……だけど、ゲームが野球の代わりになるかと言われると――」
――答えは、ノーだ。
ハルカがゲームを送ってくれて、一緒にこうして遊んでくれたおかげで、確かに俺は今まで知らなかった世界を知ることが出来た。ハルカたちがゲームに熱中する理由だって理解出来た。
野球が出来なくなってから触れたどんなものよりも、このLLOというゲームは楽しかった。それでも――やっぱりダメだった。俺が人生の全てを捧げてきた野球には届かない。
俺にとっての野球は、俺と同様に野球に全てを捧げた人間との戦いだった。負ければ今までの人生を、自分という人間の全てを否定されたような悔しさと絶望に襲われる。
けれどそれ以上に、勝ったときに得られるめくるめくような快感と自己肯定感。俺が今までやってきたことの価値を、生きてきたことの意味を、他の何者でもない勝利という結果だけが認めてくれた。
こんな話をしても、ほとんどの人には大げさだと思われるだろう。もちろんそんなことは分かっているし、たぶんおかしいのは俺の方だ。俺は一般的な子供がやるであろう娯楽の全てを捨ててこれまで生きてきた。
だからこそ――歪んでいる。
初対面のミヤコさんにすらそう言われたのだから、きっとそんなことはハルカだってお見通しに違いない。
「……やっぱり、そっか」
ハルカは少し悔しそうな声でそう呟く。
「本当を言うとね、私ちょっと安心もしてたんだ。お兄ちゃんがゲームを楽しそうに遊んでたから……だからきっとそれは、お兄ちゃんの心の傷を癒す手助けになっているんだって。でもやっぱり、甘かった」
「悪い……ハルカが心配してくれてるのは分かってるけど、結局それは俺自身の問題だから」
「……まあお兄ちゃんはそう言うんだろうなって思ってたけどね」
俺が怪我をして野球が出来なくなったのも、それでも未だに野球に未練を持ち続けているのも。そんなものは、俺が自分で解決するしかない問題だった。
「そうだ。それじゃあ一つだけ訊いてもいい?」
「ああ、何だ?」
「お兄ちゃんさ……辛くないの?」
そのハルカの問いかけは、グサリと俺の心の深いところに突き刺さる。
大怪我をして、もう二度と野球が出来なくなって。それが辛いか辛くないかで言ったら、辛くないわけがない。けれどそれを認めてしまったら、自分がどうにも惨めになるような気がしていた。
そもそも辛いと認めたところで、俺はどうすればいいのだろうか。誰かに甘えて泣き言でも言えばいいのだろうか。
いや、そんなことをしたって結局何も変わらない。周囲からあれだけ期待をされていながら、何一つ結果を残すことが出来ずに終わったという事実は、もうどうしようもないことだった。
だからこの痛みも苦しみも、俺だけが背負っていればいい。
そう思っていたはずなのに――。
「……辛いに、決まってるだろ」
気付くと俺の口からは、そんな弱音が発せられていた。そんな情けない言葉は言いたくなかった。だから絶対に言わないようにしていた。
けれど一度溢れてしまったそれは、際限なく流れ出てしまう。
「辛いけど、そんなことを言ったら周囲はみんな俺を慰めるんだよ。よく頑張ったとか、辛かったねとか言って、そんな風に期待に応えられなかった俺の弱さを肯定する。俺自身がまだそれを受け入れられていないのに、受け入れるように周囲が促すんだ。……正直怖いんだよ、今まで野球しかしてこなくて、強さでしか自分の価値を証明出来なかったから。今の自分が弱くて、何の価値もない人間だって認めることがさ」
周囲が俺の弱さを肯定するということは、もう今の俺には何の価値もないと言われているのと同じことに思えた。
だから慰めてなんてほしくない。だから弱音なんて吐きたくない。だから平気な振りをして笑っていたんだ。
でも今は妹のハルカにこうして、情けない泣き言を言ってしまっている。そしてそれを聞いたハルカは、少し怒ったような表情で静かに言った。
「……自分に価値がないとか、そんなこと言わないでよ。野球が出来るとか出来ないとか、私からしたらそんなのお兄ちゃんの一部分でしかないんだから。野球を始める前からお兄ちゃんはお兄ちゃんだったし、野球を始めてからだってゲームに熱中する私に干渉しないで、趣味を尊重してくれたのがお兄ちゃんでしょ? 確かに地元の人たちとかは、お兄ちゃんが野球で結果を残したから凄いって思ってるのかも知れない。でも私やマコトは、お兄ちゃんは元々凄かったから野球でも結果を残しただけだって思ってる……こんなこと言ったらお兄ちゃんは怒るかも知れないけど、野球が出来なくなったくらいでお兄ちゃんの価値は下がらないよ」
「……ハルカには分からないだろ、そんなこと」
それは言ってはいけない言葉だったように思う。だから一瞬だけ躊躇ったけど、それを押しとどめられるだけの余裕が、今の俺にはなかった。
「そういう言い方……ああもう、分かるわけないでしょ! だってお兄ちゃんは何も言ってくれないんだから! 辛いときは辛いって言ったらいいじゃん! 助けてって言ってよ! 遠慮しないで何でも相談してよ、私たち家族でしょ!?」
俺の言葉が引き金になってか、ハルカもずっと俺に対して溜まっていたであろう不満をぶちまけた。
こうなってしまえばあとはもうただの兄妹喧嘩だ。お互いに言いたいことを気が済むまで言い合う他ない。
「家族だから心配させたくなかったんだよ! 弱ってるところなんか見せられるか!」
「野球が二度と出来なくなるくらいの大怪我をして、心配しないわけないじゃん! どうせ最初から心配かけてるんだから、素直に頼ってくれたら良かったのに! そもそもこっちを気遣ってる余裕なんて、お兄ちゃんにはなかったでしょ!?」
そんな風に、俺たちは何年振りかの兄妹喧嘩をすることになった。
俺とハルカがこうして衝突することは滅多になくて、特にお互いに不干渉を貫くようになってからは喧嘩をすることなんてなかった。
気付けばそれくらい、俺たちの距離は遠くなってしまっていたということなのだろう。
俺は昔から意地っ張りで頑固だった。特に野球に関することでは、譲れない思いやこだわりがいくつもあった。誰にも負けたくないから、一秒でも多く練習がしたかった。
昔ハルカに話かけられても「野球の練習があるからあとで」と言っていつも断っていたのはそんな理由だ。ただハルカにとっては、断られたのではなく「あとで」約束をしたつもりだったから、それが喧嘩の理由になったりもしたのだけれど。
何にせよ一つ確実に言えることは、こういった言い合いをする上で、いつだって正しいことを言っているのはハルカの方だということだ。
そうして俺とハルカはしばらく感情と感情をぶつけ合って、激しい言い争いを続ける。
「――じゃあお兄ちゃんの自慢は何? 野球の上手さ? 鍛えた体? そんなものがないと私たちに胸を張れない? それが無くなったら私やマコトがお兄ちゃんに幻滅するって? 見損なわないでよ!」
「そうは言ってないだろ!」
「お兄ちゃんが自分に価値がないって言うのは、それと同じことだって言ってるの! そもそもお兄ちゃん、野球留学するって話も私とマコトに全然してくれなかったよね? お兄ちゃんが家を出る日、マコトは応援するって言って笑って見送ったけど、あのあと寂しいって言って泣いてたこと知らないでしょ? マコト、お兄ちゃんがいなくなることも寂しかったけど、一言も相談されなかったことが一番寂しかったってさ。お兄ちゃんにとって、私たちはどうでもいい存在なんだって、そう言って泣いてたんだよ!」
「それは……」
マコトは近所に住むハルカの親友ではあるけれど、俺にとっても小さい頃はよく一緒に遊んだ幼馴染だった。そんなマコトを泣かせてしまったことに関しては、何も言い返すことが出来ない。
マコトを蔑ろにしていたつもりはなかった。それでも俺は両親の了承を得たのであれば、より良い環境で野球が出来るということに関して、自分の選択を曲げるつもりは無かった。だから相談する意味はないと思って、全部決定した後に報告するに留めた。
けれど今考えれば、仮に俺の気持ちがすでに決まっていたとしても、先に一度くらいは話をしておくべきだったと思う。そこは確かに俺の失策だった。
そしてそれは別にマコトだけに限った話ではない。本人は決してそう言わないけれど、ハルカだってマコトと同じように、寂しさを感じていたはずなのだから。
「――というかお兄ちゃん、このゲームをやってて気付かなかった?」
「気付かなかったって、何が」
「お兄ちゃんの野球のことを知らない人たちが、お兄ちゃんを褒めたり頼ったりしてることだよ。シャルもヒヨリも、あとギョクとかそれ以外にもお兄ちゃんがゲームの中で出会った人たちはみんな、お兄ちゃんの野球のことなんて知らないよ。だってゲームの世界では、リアルのことなんて関係ないんだから。だからみんなはチトセという一人のプレイヤーのことだけを見て、純粋にその価値を認めてくれてるんだよ。……お兄ちゃんはそれじゃあ不満? やっぱりゲームで出会った人たちのこともどうでもいい?」
「……そういう言い方はずるいだろ」
「それはお互い様でしょ」
ハルカはそんな風に俺の文句をはねのける。
ハルカの言う通り、俺が自分という人間に価値がないと言ってしまうことは、その価値を認めてくれている全ての人を軽んじているのと同じことに違いない。野球のことしか考えない生き方をしてきたから、そんな当たり前のことにさえ俺は気付けないのだろう。
いつだって正しいことを言っているのはハルカだ。理屈では俺もそう分かっている。だから俺の過去の失策については、ハルカに責められても仕方がないと思う。
けれど俺が今抱えている怪我と野球の問題は、俺の感情の話だった。理屈だけで解決できるなら、最初からこんなことにはなっていない。
野球はもう出来ないんだから綺麗さっぱり忘れて、別のことを代わりに好きになれなんて言われたところで、簡単に「はい、そうします」とはいかない。
だって俺は――今でも野球が好きだから。
怪我をして野球がもう出来ないと医者に言われたときは、野球の神様に見放されたと思った。俺は野球の神様に嫌われたのだと。だったら俺だって野球のことを嫌いになろうと思った。でも、出来なかった。
好きなんだよ。どんな目にあっても、嫌いになんてなれない。嫌いになれたら楽だったのに――大好きなんだよ馬鹿野郎!
そんなことを考えながら、俺は強く拳を握って歯を食いしばる。気を抜くと涙が流れそうだったけど、さすがに妹の前でそんな格好の悪い真似は出来ない。
そうして俺たちはしばらく沈黙していたが、その時間のおかげで俺とハルカはお互いに少し冷静になる。
そんな中で、先に口を開いたのはハルカだった。
「……ごめん。今さらこんなことを言ってもあれだけど、私は別にお兄ちゃんを責めるつもりなんてなかった。一番辛いのがお兄ちゃんだってことも分かってる。でも一つだけどうしても言いたかったんだよ……お兄ちゃんの価値は、野球だけじゃないって」
「……俺も悪かったよ。ハルカたちをどうでもいいって思ってたわけじゃないんだ。ただ野球が絡むと……ごめん」
「いいよ。お兄ちゃんが野球バカなのは昔からだし」
ハルカはそう言ってにやりといたずらっぽく笑う。
「ゲームが楽しいのは本当だ。でも野球を綺麗さっぱり忘れることは、今はまだ出来そうにない」
「……? 別に野球を忘れる必要はないと思うけど」
「え?」
「怪我をしたって、野球を好きな気持ちは無くならなかったんでしょ? そんなのゲームを一緒してるだけでもお兄ちゃんから伝わってくるし。だからお兄ちゃんは野球が一番好きなままでいいと思うよ」
「いやでもハルカはさっき、ゲームは野球の代わりにならないかって」
「うん。お兄ちゃんは今まで一番好きな野球だけで全部埋まってたけど、今の空いちゃったところにゲームを、二番目でも三番目でもいいから代わりに出来ないかなってね」
「……俺はてっきり、野球が出来なくなった現実を受け入れろってハルカは言ってるかと思ったんだけど」
「そんなこと言わないよ。私だってゲームなんかやめて現実を見ろとか言われても無理だからね」
そういってハルカは続ける。
「だいたいお兄ちゃんが野球を捨てられるわけないよね。確かにさっきお兄ちゃんの価値は野球だけじゃないとは言ったけど、野球がお兄ちゃんの一部であることは間違いないし、野球バカじゃないお兄ちゃんなんて今さら考えられないから。……まあ選手はもう出来ないのかも知れないけど、だったらコーチとか監督とかさ、どうせお兄ちゃんは一生野球と付き合っていくんだと私は思うよ」
そんなことを、ただまっすぐに俺のことを見つめてハルカは言った。
――ああ、そうだったのか。
俺は今までずっと、自分のことは自分が一番分かっていると思っていた。だから自分の決断には絶対の自信があったし、誰に何を言われても曲げることはないから人に相談することも無意味だと思っていた。
けれど、違った。
俺のことをいつだって傍で見てきた人間は、時として俺以上に俺のことをよく理解していたのだ。
俺が野球を捨てられるわけがない。どうしてか俺はそんな当たり前のことを忘れてしまっていた。もしかしたら怪我で野球が出来なくなってから、俺はまっすぐな気持ちで野球のことを考えられなくなっていたのかも知れない。けれど今はそんな理由なんてどうでも良い。
――野球を捨てなくていい。
その事実だけが今の俺には大事だった。
「私はゲームが一番好き。でもマコトと現実で遊びに行ったりするのだって好きだよ。だからお兄ちゃんは野球が一番好き、二番目は私たちとゲームってことにならないかな?」
「ははは。……そんなの、もうすでになってるだろ?」
ハルカの問いかけに俺がそう答えると、ハルカはどこか満足したように微笑んだ。
もし俺が意地を張って強がったりせず、最初からハルカや両親に正直な気持ちを話して相談していたら、もっと早く俺の悩みは解決していたのかも知れない。
けれど仮にそうなっていたなら、今こうしてゲームで遊んでいる俺も存在していなかった可能性もある。そうなるとキリカやシャルさん、ヒヨリたちとの出会いだって無くなってしまうだろう。
結局何が正しくて、何が間違っていたのか。本当はどうすることが正解だったのか、正直なところ今の俺には分からない。
ただ一つだけ確実なのはハルカの言うように、俺は野球が出来なくなっても、何かしらの形で野球と関わり続けていくということだ。
そして同時に、俺はハルカたちと一緒に遊ぶゲームを、二番目に好きなこととしてこれからも続けていくのだった。
最初この作品を書き始めるときに、一つの区切りとして考えていたのがこの話でした。ここまで続けることが出来たのは読んでくださった皆様のおかげです。ありがとうございました。
ここで完結、と出来れば綺麗なのかも知れませんが、この作品でまだ書きたい話がたくさんあるのでまだ続く予定です。今後もよろしくお願いいたします。