109 これからのこと
「これから、っすか?」
ヒヨリは意外そうな顔でそう言う。
「ああ。さすがに過去のことはどうすることも出来ないけど、これからのことなら俺だって協力出来るかも知れないだろ?」
「さっきまで過去の話をしてたのに、もう未来の話っすか。さすがチトセさんは前向きっすね」
「脳筋なりの長所だと思ってるよ」
「確かに、同感っす」
そう言ってヒヨリは笑った。
けれどその表情と声は、やっぱりまだ少し無理をしているように感じる。
「……まあ実際、頭で分かってはいるんすよね。《LF》のやり方と自分が合わなかっただけで、それならさっさと次の居場所を探せばいいってことは。でも、《LF》の仲間と一緒にやってきたことが一番楽しかったのも事実なんすよ」
「つまりヒヨリは、《LF》のやり方を否定することは、楽しかった日々を否定することになるって言いたいのか?」
「さすがにそこまでは言わないっすよ。でも近い気持ちがあるのは確かで、簡単に割り切れないって話っす。もし叶うことなら、最初の頃みたいに手探りで攻略法を探しながら、みんなで楽しくゲームをしていた頃に戻りたい……なんて、叶うはずがないことを願ってみたり……」
ヒヨリはそんな風に、かつての楽しかった日々を追憶する。けれどそれは二度と戻らないものだ。今の《LF》に、ヒヨリの帰りたい場所はない。
――ヒヨリが本当に欲しいものは、もうどこにも存在しない。
その事実をヒヨリは頭では理解していても、心ではまだ整理出来ないでいるのだろう。
「あれ……何で……あっ、嫌っす……チトセさん、見ないで欲しいっす」
気付くと大粒の涙が彼女の頬を伝ってこぼれていた。見ないで欲しいと言われたので、俺は慌てて後ろを向く。
正直言うと、ヒヨリが泣くとは思っていなかった。失礼な話だけど、ヒヨリはそういうキャラクターじゃないという先入観があったからだ――本当に失礼な話だな。
そういえば俺は人生の中で、数多くの涙を見てきた人間だったりする。その中でも一番多く見たのは、やはり最上級生の引退がかかった最後の大会という場だった。
一発勝負のトーナメント。負けたらそのチームで野球をするのは、それが最後になる。苦楽を共にしたチームだからこそ、一秒でも長く一緒に野球をしたい。
どのチームのそんな思いを胸に戦い――そしてどちらかが敗れていく。
俺の所属していたチームは昔から強かった。だから勝ち上がるたびに、そうした場面を数多く目にすることになる。もちろんそのうち俺たちも負けて、同じように涙を流したのだけど。
そうした場面に遭遇するたびに思う。何度経験しても、俺は涙というものが苦手だった。
さっきはハルカで、今はヒヨリ。今日だけで二人だ。泣いている人を見ると、こっちまで感情が強く揺さぶられる。落ち着かない。
そうしてしばらくヒヨリが落ち着くまで待つ。すでにデスペナの時間は終わっていてパーティーの集合時間はとっくに過ぎていたけど、こればかりは仕方がない。ハルカたちには後でちゃんと謝ろう。
「すみませんチトセさん……困らせちゃったっすよね?」
「ああ、めちゃくちゃ困った」
「あはは」
俺が正直にそう答えると、それを冗談と受け取ったようでヒヨリは笑ってくれた。
俺が困ったのは事実だ。けれどそれは、ヒヨリのことを友達だと言っておきながら、泣いているヒヨリに気の利いたことの一つも言えない自分の不甲斐なさが理由だった。
――友達なのに、俺はヒヨリに何もしてやれない。
だったらせめて、自分の気持ちくらいは正直に伝えたいと思う。恥ずかしくて照れくさかったりはするけど、まあそれは今ならお互い様だ。
「俺はヒヨリとゲームをするのは楽しいよ。ヒヨリは戦闘中も周りのことをよく見てて、みんなが戦いやすいように色々と気遣ってくれてるのが分かるんだ。さっきのボス戦でも俺が罠を踏みそうになる前に声かけをしてくれたし、もっと言えば最初の二人でダンジョン周回したときだって、デーモンエグゼクターのターゲットを俺が受け持ちやすいように動きを工夫してくれてただろ? ああいうのってさ、やってもらった側からしたら、やっぱり凄く嬉しいんだよ」
「……もっと」
「え?」
「もっと褒めてほしいっす!」
ヒヨリのそれは意外な言葉だった。けれど同時に、凄く納得のいく言葉でもあった。
言ってしまえばヒヨリは、《LF》の攻略パーティーから必要ないと言われて追い出されたようなものだった。それはカインと比べて、ヒヨリというプレイヤーの価値が劣っていると言われたに等しい。
誰だって自分という人間の価値を認めてもらいたい。他の誰かではダメなんだと、そう言って必要とされたい。
そんなヒヨリの気持ちが分かるから、俺は思いつく限りの言葉でヒヨリを褒めた。
まだ出会って数日だからすぐに弾切れになるかとも思ったが、意外と褒めるところはたくさん出てくる。まあそれだけヒヨリという人間が魅力的だという話だ。
そうして俺の褒め言葉を一通り聞いたヒヨリは、少し締まらない顔で笑いながら言う。
「えへへ。チトセさんに褒められると、何だか自信が湧いてくるっすね」
「そうか? だとしたら小学校の頃の野球のコーチに感謝だな」
俺が人を褒めるときは、具体的に何が良かったのかを必ず言うようにしていた。そうしないと成功体験が曖昧になってしまって、次に同じことを再現するのが難しくなるからだ。
というのは全部受け売りで、昔のコーチがそんなことを言っていたというだけだったりする。
当時の小学生の頭で理解できるような話ではなかったけど、そのコーチに褒められると単純に心地が良かった。だから俺も他人に野球を教えたりして褒めるときは、そのコーチのことを極力真似するようにしていたのだ。
「……チトセさん」
「ん?」
「自分、チトセさんたちのクランに入ってもいいっすよ?」
「え、マジで?」
今日の最初に誘ったときは、すぐに別クランに移籍すると《LF》に対して角が立つといった形で断られていた。
まあそれはヒヨリにとって表向きの理由であって、本当はまだ《LF》への未練を断ち切れていないことが最たる理由だったのだろう。
――もしかしたら、もう一度楽しかったあの日々に戻れるかも知れない、と。
「チトセさんに話を聞いてもらって、ひとしきり泣いたら一応は気持ちの整理も出来たっす」
「そうか。少しでも役に立てたなら良かったよ」
「ただし、一つだけお願いがあるっす」
「お願い?」
「さっきみたいな誘い方じゃなくて、もっと情熱的に口説き落として欲しいっす」
「……なるほど、そう来たか」
確かに俺が最初に誘ったときは、加入してくれたらラッキーと言った感じの雰囲気で、言ってしまえば誰でも良さそうな適当さがにじみ出ていた。
それに俺はあのとき誘ってみて断られたらすぐに引き下がっている。あの時ヒヨリが思わず「え、それだけっすか?」と言ったのも、今となってはよく分かる話だ。
あのときもっと強くヒヨリのことを求めて強引に押していたら、もしかしたら返事はもう少し違うものになっていたのかも知れない。
まあ何にせよそれは終わった話だ。今は目の前の難題について考えよう。
――情熱的に口説き落とす。
もちろん俺にはそんなことをした経験はない。でも望まれた以上はやるしかない。
たとえそれがどんなにダサくても、俺が恥をかくだけでヒヨリが俺たちの仲間になってくれるなら、軽くおつりが来る。
何にせよこういうことは思い切りが肝心だ。そう思って俺は口を開く。
「仮にカインという人がどんなに凄いプレイヤーだとしても、俺が一緒にゲームをして遊びたいのはヒヨリだ。俺たちが楽しくゲームをするためには、他の誰でもないヒヨリが必要なんだ。俺たちのクランは出来たばっかりでまだろくに活動も出来ていないけど、これから頑張ってみんなで楽しいクランを作っていくつもりだ。だからもし良かったら、ヒヨリもそれを手伝ってくれないか?」
あまり格好をつけたことは言えなかった。ちゃんと口説き文句になっているのかも自信がない。けど俺は正直に自分の心の中にある熱を込めて話したつもりだ。
そんな俺の言葉を聞いて、ヒヨリはどこか楽しそうに言った。
「んー……ギリギリ合格、っすかね?」
「良かった、結構採点甘いんだな」
「再試験の方が良かったっすか?」
「いや、許してくれ」
「……まあ実際、チトセさんらしくて良いと思ったっすよ?」
「そりゃどうも」
ヒヨリはそんな風に俺を軽くからかうような口調で言う。その表情も言葉も、今はもう無理をしている様子は感じられない。
とりあえずはそんな形で、ヒヨリが俺たちのクラン《PoV》に加入してくれたのだった。