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アイスとゴースト

作者: 下柳十五

 ぼくの守護霊はアイスが好きだ。

 彼女は買い物の手伝いはしてくれないが、買い物にはついてくる。コンビニやスーパーに行ったとき、すーっとアイスコーナーに行って、アイスを眺めている。そして興味が出た奴があると、ぼくの服の裾を引っ張るのだ。

 種類はなんでも良いらしい。キャンディーでもカップでもモナカでも大福でもなんでも食べる。しいて言えば新作が好きなようだ。一度、ハーゲンダッツの新作を欲しがったときがある。一人暮らしの大学生の懐事情は常にさびしいため、その要求は拒否した。その後、皿を割られて大変だった。


 守護霊はショートカットの中学生ぐらいの少女の姿をしている。セーラー服を着ているから、たぶん生前は中学生だったんだと思う。でも彼女に生前があったかどうかもわからない。自分のことを一切語らないからだ。

 彼女は大人になったら美人になると言われるタイプの顔立ちをしている。でも彼女が大人になることはない。

 赤い櫛を持っていて、ときどき髪をすいている。

 よく空中で寝ている。その姿はなんとなく猫に似ている。

 アイスが好きだ。食べ物も食べることは出来る。でも三日ぐらい何も食べなくても様子が一切変わらないので、食事をとる必要はないみたいだ。

 幽霊はあまり音を立てない。

 幽霊には匂いがない。

 ときどき、ぼくは彼女の姿を見て、安心する。

 野良猫みたいにどこかにふらっと行って、そのまま帰ってこないんじゃないかと心配しているからだ。



 知人のYという女性には、外国人の守護霊がついている。

 その霊はアングロサクソン系の男性で、筋骨隆々としている。なんとなく立ち居振る舞いが礼儀正しいので高貴な家柄なのではないかとぼくは思っている。知人は自分の守護霊のことを真田幸村と呼んでいる。

「真田幸村、好きなの?」とYに聞いたら、

「いや、べつに」と返された。

 Yのマンションで、Yとぼくの守護霊は対戦型のシューティングゲームをしていた。キッチンで真田幸村がフライパンを振っていた。ぼくは何をするでもなく部屋を眺めていた。

「……じゃあなんで?」

「インスピレーション! ……ぁあ。糞っ!」

 知人がコントローラーを放り出した。ぼくの守護霊が両手を挙げた。どうやら勝負が決したようだ。

 Yが「きゅーけい」と言って、煙草を取り出した。

 うちの守護霊はにやにやして天井近くまで浮いた。あんまり浮きすぎると下着が見えそうになるので止めてほしかった。

「インスピレーションって。そんな風につけていいの?」

「とりあえず呼べる名前がないと困るでしょ。あっちからこっちに呼びかけはしないけど、こっちはあっちに呼びかけるわけだし。だよねユキムラ!」

 Yがそう言うと、厨房で外国人がにっこりしながらうなずいた。

 そう守護霊は喋らない。文章も残さない。どうしてかは知らない。彼らのルールなのかもしれない。全員無口なだけかもしれない。ただまあなんとなく意志疎通することは出来る。

「そりゃそうだけどさ」とぼくは言った。

「あんた、あの子の名前つけてないでしょ。いいかげんつけなよ。君とか僕のとかうちのとか代名詞ばっかり使ってないで」

「……考えとくよ」

「どーせ。つけたところで本当の名前じゃないとか思ってんの?」

 ……図星だった。

 それに名前を付けてしまったら、彼女と僕の関係が確定してしまう気がして、その瞬間が来るのをできるだけ遠ざけたいという気持ちもあった。

「なんならあたしがつけてあげようか」

「え」

「マリー・アントワネットとかどう?」

「お断りします」

 Yにはネーミングセンスがない。どうして偉人の名前を安直に使いたがるんだ。それにうちのはどう見ても日本人だ。

「センスがわからんやつめ」とY。

 真田幸村が大皿のナポリタンパスタを持ってきたので、この話はとりあえず終わった。


 守護霊がいつからぼくについているかはわからない。視えるようになったのは数か月前からなのだ。それまでは自分に霊感などないと思っていたし、霊の存在など信じていなかった。 

守護霊と呼んではいるが、本当に守護霊なのかどうかはわからない。とりあえず害は与えられていないし、迷惑もそんなに受けていないから守護霊と呼んでいるだけだ。ぼくの守護霊は転びそうになっても助けてくれない。転んだらにやにや笑ってくる。

守護霊がついている人は、だいたい霊が視えるようになるみたいだが、Yによると人によって視える範囲が違うらしい。また守護霊がついていなくても視える人がごくたまにいるそうだが、そういう人にあったことはない。

 霊が視えるようになってから、街中や大学で不明瞭でふわふわしたものを見ることが増えた。それらが霊なのかどうかわからない。良い霊なのか悪い霊なのかもわからない。ただ前までは視えていなかったものだ。いやもしかしたら視えてはいたのかもしれない。意識できなかっただけで。 

霊が視える家系に生まれたYは、そういうことに詳しいようだが、「知ると今よりもっと視えるようになるよ」と言って、教えてはくれなかった。

 どうも世界は思っていたより複雑で、わけのわからないものらしい。

 わけのわからないものが視えた時、守護霊は隣を歩いてくれる。前に立って守ろうとはしてくれない。けれど彼女が傍らを歩いてくれることに僕は何故か安心する。たぶん、ぼくの目に映るものは、そんなに怖がるようなものではないのだ。


4 

 うちの守護霊はよくTVを見ている。ドキュメンタリーやニュース番組、歌番組、バラエティ番組をぼーっと見ている。彼女が来てからうちの電気代はあがった。

 映画は、恋愛映画やヒューマンドラマ、コメディ映画が好物らしい。熱中して観ている。ときどき顔を赤くして、ティッシュを顔に当てている。どうやら幽霊も涙を流せるようだ。

 ぼくが好きなアクションやミステリーものはそれらに比べるとぼんやり観ている。あまり興味がないらしい。

 一度、シャレのつもりでホラー映画を借りてきたら、序盤で顔をひきつらせ、後半の一番演出が過激なシーンでTVを消して、リモコンを天井近くまで持って行って、ぼくを睨みつけた。それ以来、我が家ではホラー映画は厳禁となっている。

 でもときどき我が家のゴーストが、レンタル店で、ホラーが置いてある棚をちらちら見ているのには気づいている。


 本屋で買い物をしている時のことだ。たまたま大学の同期の女子と出会った。お互いを認識したタイミングは同時だった。

「あ」

「どうも」

 頭を下げた。

「何してんの?」と彼女に聞かれた。

「……本を、買いに来てる」こう返事して、自分のことを馬鹿だと思った。

「そりゃそうでしょ」

 くすくすと彼女が笑った。三つ編みが揺れていた。学校では守護霊が視えるなんて口にしたことはない。Yに強く言い含められたし、自分でも止めておいた方が良いと思ったからだ。

「ねぇ」同期に呼びかけられた。

「何?」

「ひま?」

 今日は映画を観ようと決めていた日だった。

「まぁ、ひまだね」とぼくは答えた。

 後ろで守護霊がぼくのことをものすごく睨みつけていたのには気づいていたが、考えないようにした。

「……この前の講義のことでちょっとわからないことがあるんだけど、時間あるんだったら喫茶店とかで話さない?」

「い」く。絶対行くと言おうとしたら、守護霊に、おもいっきし脛を蹴られた。

 たぶん今僕は凄い顔をしている。

「どうしたの!?」と彼女。

「……なんかつったみたいだ」

「え!大丈夫?」

「……ごめん。喫茶店はまたの機会に」

「そ、そう。お大事にね?」

「う、うん。ありがとう」

 こうして彼女とは別れた。

 しばらくして、「あの」と守護霊に声をかけたが、背を向けている。

「……すいませんでした」と謝ったら、すごい苛立った感じでこっちを振り向いた。ヤンキー漫画に出てきそうな顔だ。

「ホント、マジですみませんでした」

 守護霊はぺっと唾を吐いた。

 恋愛映画三本とハーゲンダッツ三個で彼女は満足して寝た。

 ぼくの表情筋は死に、所持金はだいぶ減った。

 恋愛映画の主人公たちは、とにかく叫んでいた。

 ほかにすることがないのだろうか。


 Yと出会ったばかりの頃、ある会話をした。

 守護霊が視えるようになったばかりの頃、ぼくは混乱していた。

 現実というものは土台がしっかりしていて、壊れたり、揺らいだりするはずがないと思い込んでいたのだ。ただセーラー服の彼女が視え出してから、ぼくが信じていた現実はあっけなく消し飛んだ。

 だから混乱して、余裕がなくなっていた。あの頃、ぼくの後ろをついてきた彼女は、悲しそうな顔をしていた。まちがいなくぼくのせいだ。

 そんな頃、Yにたまたま出会った。Yは占い師モドキみたいなことをしている。裏社会だかそっち系も絡んでいる危ないが羽振りのいい仕事らしい。

たまたま散歩していたら、同類の僕がいたので(Yは見れば、視えている人なのかどうかわかるらしい)、声をかけてきたのだ。それがYとの出会いだった。

Yと二回目か三回目に会った時のことである。夕方、川岸だった。ぼくとYはベンチに座り、守護霊二人は川面を見ていた。

「なぁ、彼らは生きているのか?死んでいるのか?」ぼくは、守護霊たちの方を見ながら、Yに聞いた。

「生物学的定義で言うなら、生きてもいないし、死んでもいない」とY

「……屁理屈だ」

「あたしはプロ。あんたよりはよく知ってる。幽霊は、殺せないよ」

 そう言ったYがブレザーから取り出したのは煙草とライターだった。

「……高校生が煙草を吸うなよ」

「これは仕事着」

「……本当の年はいくつなんだ?」

「おしえない☆」

 ☆をつけるな。☆を。

Yは下手したら、ぼくの守護霊と同じように中学生に見える。

「じゃあ彼らは一体何なんだ」

「いろんな説がある。あたしたちの脳みそがおかしくなって視えてるという説。共同幻想という説。奇異な現象じゃないかという説。異世界の影という説。どれもそれなりに根拠があって、それなりに反証がある。あんたが信じたい説を信じればいい」

「なげやりだな」

「あたしはあたしという人間を信じてる。目の前で見えているものを、幸村が作ってくれるパスタの味を、信じてる。ちがっていたらその時、また考える」

「…………」

「あんたの不安を解消してあげよう。特別に。タダで!」

 そう言って、Yはベンチから立ち上がると、「おーい」とぼくの守護霊を呼んだ。

 彼女がやってきた。浮いてはいない。何で呼ばれたかわかっていない顔だ。そしてぼくの顔を見上げて、悲しそうな顔をした。いや、ちがう。これは心配している顔だ。

「ほら、手をつなぐ」

 Yに言われるがまま、そっと、ためらいがちに、ぼくらは手をつないだ。

 彼女の手は冷たかった。

「どう、その手の感触も疑えるの?」

「…………疑えないよ。こんなの」

「じゃあ、それがあんたの信じるものだ」Yはそう言った。

 Yはとてつもなく卑怯で強引な手を使った。きっと言葉で説明するのが面倒くさかったからだろう。

「帰ろうか」とぼくは言った。

 セーラー服の少女は頷いた。

 Yがしてやったりと笑っているのに無性に腹が立った。

 帰りにアイスを買おう。そう思った。

 

 ピンポーンとチャイムが鳴った。

 面倒くさいが守護霊に応対させるわけにはいかない。体を持ち上げて、玄関に向かった。

 ドアを開けた。

 うさんくさい恰好の長身の男が立っていた。

 神父みたいな服で、髪は長髪で茶色に染めている。丸いサングラスをしていて、黒い帽子をかぶっている。

 男が口を開けた。

 ぼくはドアを閉めた。

 ピンポンピンポンピンポポンとチャイムが鳴った。

 ドアを開けた。

「話ぐらい聞いてくださいよぉ」男が言った。

「……なんですか?」

「ワタシ、最近こちらに来た新任の神父です」

「はぁ」

「つきましてはすこしお話を聞いていただきたいのですが」

「すいません。宗教のお話はけっこうです。では失礼します」と早口で言って、ぼくはドアを閉めようとした。しかし閉まらない。神父が足を挟み込んでいたからだ。

「いやいや。布教をしに来たわけではありません」

「なにしにきたんですか?」

「ワタシ、あなたの守護霊に恋をしたんです」

「は?」

「街角を歩いていたら、とても美しい少女を見かけまして、稲妻に撃たれたような気分になりました。ああこれが恋なのかと一瞬で悟りました。イタリアでの神学校時代の酒場の娘との恋! 日本に来てからした、未亡人女性との静かな秘め事! わたしは恋多き男です。自他ともに認められております。ああしかし!ああこれが!これこそが!本当の恋なのです!禁断の林檎とはこれのことであった!ああ、神よ許したまえ。ワタシ、ジェームズ・モリヤマは愛を知りました!」

「警察呼びますよ」

「あ、それは困ります。マジで止めてください。シスターにまた殴られたくないんです。オネガイオネガイ」

んなこといったって、どう考えてもやばい奴じゃないか。対応するのも面倒くさい。本当に神父かどうか怪しい。いきなり長い事、喋り出す奴は信用するなと祖母に教わった。

「知ってるか?」とたまたまキッチンにいた守護霊に、神父の顔を示すとじーっと眺めてから、心底興味無さそうに首を振った。そして冷蔵庫からアイスを取出し、居間に戻っていった。

「知らないそうです」

「……おぉ、おぉ。ワタシにも視えました」

「視えるんですか?」

「いちおぅ、聖職者ですから」

 ほんの少しだけ、このロリコン神父を見直した。

「……っていうか話整理すると、うちの守護霊を一目見ただけですよね。何にも接点ないですよね」

 やっぱり警察呼ぼうかな。

「…………」

 ロリコン変態神父は大量の汗をかきだした。顔もなんだか青黒くなってきた。ぼくはちょっと怖くなってきた。

「……あの?」

「……あのぉ、いきなり恋愛関係に持ち込むというのは早急すぎました。まずは文通! 文通から始めたいのですがどうでしょうか?」

「……文通したいんだってさ!」

 かわいそうになってきたから、居間にいた守護霊にそう言った。守護霊は、とことことキッチンに出てきて、燃えるゴミの袋にアイスキャンディの棒を捨てた。そしてこっちを見て、首を振り、冷蔵庫のドアを開けてアイスを出して、居間に戻った。

「…………」

「あ、あの」

「綺麗な瞳だった。あの軽蔑でさえない、こちらに一切関心のない純粋なる眼。本当にお美しい。いや美しいという形容詞ごときでは表し切れない美しさ! ああ私にはあまりにも言葉が足りない! 足りなすぎ、グフ!」

 ロリコン変態マゾ神父が、シスターに蹴られて吹っ飛んだように見えた。

 ぼくは何もかもが嫌になって、ドアを閉めた。

 しばらく悲鳴と何かが潰れる音が聞えたが、ぼくは守護霊と一緒にアイスを舐めるのに忙しかった。

 チャイムが鳴った。

 ドアを開けた。

 シスターが立っていた。

 ぼくはシスターを見るのは初めてだった。黒い修道服は赤い汚れが目立たないんだなあと思った。

 一息吐いて、シスターは言った。

「はじめまして」綺麗な声だった。

「あ、どうも」ぼくは頭を下げた。

「ご迷惑をかけてしまったようで、申し訳ありません」

「いえいえ。とんでもない」

 シスターが引きずっている肉塊(たぶん神父だったもの。かろうじて息はしている)には目を向けなかった。

「…………すけて」という声が肉塊から聞えた。何にも聞こえない。

「もしよろしかったら、今度うちの教会に遊びに来てください」

 シスターからチラシを渡された。教会の場所と、かわいらしい絵が描かれていた。

「あ、はい。わかりました」

 ものすごく暇なときに、気が向いたら行こうとぼくは思った。

「すけて」うるさい。肉塊。黙ってろ。

「そちらのお嬢さんも連れてきてください」とシスター。

 この人も視える人なんだなと思った。案外たくさんいるようだ。

「はい」

 頭を下げて、シスターは出て行った。礼儀正しい人だ。

 いっさい玄関での出来事に興味を示さなかった守護霊が出てきて、冷蔵庫のドアを開けた。こっちを見た。

「アイスが無くなったの?」

 うなずかれた。

「もっと考えて食べろよ」

 首を振られた。

 ぼくはため息を吐いて、コンビニに行く支度を始めた。

 セーラー服の彼女が後ろからついてきた。


7 

 Yから電話がかかってきた。

「もしもし」

「もしもし。今何してんの?」

「今、実家にいる」

「あー、帰省かぁ。あたし暇なんだけど」

「知らないよ。そのうち連絡する」

「はいはい。じゃあまた」電話が切れた。

 妹が「彼女?」と聞いてきた。断じて違うと答えた。守護霊がぷかーっと浮いていた。心なしか暑そうに見える。

 田舎には娯楽がない。パチンコ屋とかはあるが、そんな金は無い。体育会系はボールとバットさえあれば遊べるだろうが、僕は根っからのインドア派だ。数少ない友人たちは帰省していない。

 端的に言うと、暇だった。

「あつい」床に転がって呻いた。

「ひまだねー」

「そう言いながら、ぼくの尻に乗るな」

「ケチ」

 意味が解らん。まあ妹が喋る言葉は昔から意味不明だ。

 映画を観ようと思ったら、本日、ビデオショップは改装工事で休みらしい。

 暇だ。あつい。

「ひまなら、お墓の掃除でもしてこい」と父に言われた。

『めんどうくさい』

 ぼくと妹の声がユニゾンした。

「こづかいやるぞ」

『お墓のお掃除してきます』と兄妹そろって言った。

 墓地は小さな森の中にある。

 墓参りをするわけではない。ちょっとこぎれいにするだけだ。

 箒を掃いて、拭いて、花を変えればいいだろう。

 墓地は歩いて行けるところにある。ぼくと妹で行った。後ろを彼女がふわっとついてきた。

 道中、妹が聞いてきた。

「大学どう?」

「まぁまぁ」

「楽しい?」

「それなりに楽しいよ」

「ぱっとしないなぁ」

「人間はそう簡単に変わらないよ」

「彼女できた?」

 一瞬、同期の顔とYの顔を思い浮かべた。なぜここでYの顔が出てくるんだ。

「……秘密だ」

「絶対できてないね」

「うるさい」

 そんなようなことを話しているうちに、ふと奇妙な事に気づいた。妹の顔に見覚えがあるのだ。だれに似ているんだろう? 思い出せない。

墓地についた。太陽が照っていて、嫌になるほど暑かった。父に上手いこと動かされたことに気づき、来たことを後悔した。

「帽子かぶってくりゃ良かった」ぼくがそう言って呻くと、

「ふふふ、わたしは賢い」と麦わら帽をかぶった妹は言った。

「へいへい。お前は賢いよ」ぼくはため息をついて掃除を始めた。

 やりはじめるとおかしなもので、ささいな汚れが気にかかり、丁寧に隅々までやってしまった。

 掃除が終わった。汗が垂れた。喉が渇いていた。

 お墓は、来る前よりは綺麗になっているように見えた。

 すこし満足感があった。

「帰るぞ」と妹に言い、歩き出した。「まってよ」と妹の声が後ろから聞こえた。

 ぼくはなんとなく振り返った。

 ぼくの守護霊が、我が家の墓を見つめていた。顔は良く見えなかった。

 ただぼくはそれを見て、妹が誰に似ているか分かった。妹はぼくの守護霊に、セーラー服の少女に似ているのだ。


 中学二年にあがった頃、母に姉の話をされた。姉はぼくが生まれる前に死んだので、写真も見たこともないし、いたことは知っていたが、詳しく話を聞いたことは無かった。姉は二才でなくなった。何かの病気が死因らしい。

母は淡々と姉の話をした。臨月の月は八月で、うだるような暑さだったとか、出産する時、父が手を握っていてくれたとか、そういう話だった。死んだ理由とかは語らなかった。なぜこの話をするのかも言わなかった。ふと思い出したように母はぼくに死んだ姉の話を語ったのだ。

 リアリティというか現実感がない話だった。おじいさんやおばあさんがする昔話や、先生がたまにする学生時代の思い出話のように距離が遠くて、まるで童話の様に現実感がなかった。

 ただ母の淡々とした語りだけが、やけに耳に残った。

 死んだ姉の名前は「すず」という。


 お墓を見つめる彼女の姿を見てから、なんとなくその日が来ることにぼくは気付いていたのかもしれない。

 盆の終わり。夕食を食べ終わって、部屋に戻ると、彼女がいなかった。いつもだったら、ぼくからそんなに離れない。家中を見ても、彼女の姿は見えなかった。来るべき時が来たのだとわかった。ぼくは舌打ちをした。妹が不安そうな顔をした。「悪い」と言った。

 アイスを二個持って、家を出た。家族には外出の理由を説明しなかった。

 彼女がいる場所はわかっていた。

 足元の影がやけに伸びた。それに腹が立った。あせっても、もうどうにもならないことはわかっていたが、それでも苛立ちを抑えられなかった。

 なぜぼくだったんだ?

 なぜ今なんだ?

 山ほどの疑問が、頭の中を渦巻いた。

 墓地に着いた。着きたくないと思っていたら早く着いてしまった。彼女がいた。セーラー服の守護霊がぼーっと突っ立っていた。

 彼女はぼくを見ると、困ったような顔をした。

 ぼくはアイスを突き出した。

 彼女が首を振った。

「食べろよ。ぼくも食べるから」

 彼女は、しぶしぶながらうなずいた。

 ぼくと守護霊は墓地の端っこで、アイスを食べた。ようやく日が落ちてきた。

 喋りたいことはたくさんあったが、何から話せばいいのかまるでわからなかった。

「はじめて会った時も、いきなり天井から出てきてびっくりした」ぼくは言った。

 朝起きたら、彼女が急に天井から出てきたのだ。二人で目と目を合わせて、驚いた。驚く幽霊なんて変だ。彼女は最初から変わっていた。

 隣を視たら、ぼくの守護霊は照れたような顔をしていた。

「それでその日、コンビニに行ったら、君はアイスを食べた。ぼくは万引きだと疑われた」嫌な思い出だ。何が守護霊だ。

 隣の守護霊は、手を合わせて、謝っている。

「君に文句は山ほどあるんだ」

 この数か月の思い出は山ほどある。Yと出会った事、Yと遊んだこと、幸村のパスタを何度も食べたこと、本屋での出来事、二人で観たたくさんの映画、変態神父との出会い、いやもっともっとだ。

 話したいことはたくさんあったが、時間が残り少ないことはなぜかわかっていた。

 野良猫は自らの死期を悟ると、姿を消す。そんなところまで真似ることはないじゃないか。

 勝手だ。彼女はあまりにも勝手だ。

「今日なんだろ」

消えるのは今日なのかとは言えなかった。でも彼女はぼくが言いたいことはわかっているはずだ。

彼女はうなずいた。

「……一つ、聞いてもいいかい」

 彼女はうなずいた。

「……君は鈴なのか?」

 彼女はゆっくりとうなずいた。

 なんとなく腑に落ちた。彼女がこっちに来た理由は、家族を見に来たのだ。

 ぼくはたぶん出会った時から、彼女の本当の名前を知っていた。だから名前を付ける気にはなれなかった。でも呼ぶ勇気もなかった。

「でもどうしてぼくだったんだ?」

父さんと母さんじゃなくて。なんで会ったこともない僕だったんだ

 彼女は微笑んだ後、背伸びして、ぽんぽんとぼくの頭をなでた。

「……言ってくれなきゃわからないよ」

 彼女は微笑んでいる。

「……もしかしてぼくのことが心配だったとか?」

 彼女は満面の笑みで頷いた。

「……馬鹿だよ」

 会った事もない弟のことなんて気にかけないでくれてよかったんだ。

 彼女は多分、今日行ってしまう。いるべき場所へ帰ってしまう。時間はもうないのに、何を言えばいいか分からなかった。

「なあ、手をつないでくれないか」ふてくされたように僕は言った。

 彼女は手をつないでくれた。冷たかった。当然だ。幽霊の手は冷たいのだ。

「……今日なんだろ?」

 彼女は残念そうにうなずいた。

「もう少し残ることは出来ないのか? 家族に紹介するよ」

 彼女は首を振った。そうか。そういうルールなのか。

「…………ね、姉さん」

 彼女はぼくを見上げて驚いた顔をした。それからニヤニヤ笑った。

 くそ。こっちだって恥ずかしいんだ。

「……いままで楽しかった」

 そう言うと、鈴はぼくに飛びついてきた。

 ぼくは受け止めながら、幽霊の重みを感じた。

 何か、別れの言葉を言わなければならないと思った。

 何も思いつかなかった。

「さよなら」とだけ呟いた。

 姉がうなずいたのがわかった。

 ふっと重みが無くなって、ぼくはバランスを崩して転んだ。

 墓場で少し泣いた。家に帰って、風呂に入ってまた泣いた。


10

 夏休みにYと飯を食べた。もちろん幸村のパスタだ。

 ぼくの守護霊がいなくなったことを知ると、Yは「ゲーム仲間がいなくなったな」とだけ言った。真田幸村は悲しそうな顔をした。彼も理由があって、こっちに来ているのだろうか。

「ぼくが、あの子の名前を知っていたこと、知っていたのか?」と聞くと、

「何が?」と言われた。

 こいつは知っていたと思ったが、追求する理由もなかった。

「パスタうまいな」

 今日のは、茄子のミートソースだった。

「そうだろう? 不思議なことに何度食べても美味い」

「どうやって作るか、今度おしえてくれないか?」

「幸村に教えて貰え。あたしは知らん」

「お前には期待してない」

「そーか」

「……なぁ」

「ん?」

「……ぼくが信じてたものは消えてどこかにいっちゃったよ」

「……でもなくなっちゃいないだろ?」

「……そういう解釈もできなくはないな」

「そういう解釈をしろ」

 Yはえらそうにそう言うと、煙草を取り出した。

「健康に悪いぞ」とぼくが言うと、「知ってる」と返ってきた。

 同期の女子にも出会った。また本屋で会った。

「久しぶり」と声をかけられた。

 頭を下げた。

「元気?」と聞かれて、「まあまあ」と答えたら、くすくすと笑われた。

「夏休みに、何かあった?」と聞かれた。

「ああ、ちょっとね」そう答えた。

「ふうん」

「まぁたいしたことじゃないよ」

 ぼくが体験したことは本当にたいしたことじゃない。たぶん誰もが経験しているんだ。どこでも起こってはいるんだ。みんな気づいていないか忘れているだけだ。

「あ、そうなんだ」

「……き、喫茶店行く?」

 彼女は目を丸くして、「リベンジ?」と言った。

「そ、そう。リベンジ」

「別に行っても良いよ。暇だし」

「ありがとう」

 なんであやまるの、と言って彼女はまた笑った。

 不明瞭でよくわからないものは今でも珠に見る。前よりは見る回数が減った。ただもう怖くはない。

 シスターとはたまに会って、世間話をする。あの変態神父の説法は意外なことにそれなりに人気なようだ。今度、暇つぶしに教会に行ってみようと思っている。

 アイスは前よりは食べなくなった。でも時々無性に食べたくなる。それで買ってくると、間違えて彼女の分も買ってしまう。そういう時、ぼくは少し笑う。


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