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前編

 悪魔の住む魔界は深く冷たい地の底にありました。


 太陽の光はいっさい届かず、僅かな明かりは仄青く光り不気味さを醸し出す火の玉だけです。到底色の差異などわかるはずもありません。もっとも、高位の悪魔になれば日の下にいようと真っ暗闇のなかであろうとすべてを見通すことのできる不思議な瞳を持つことができましたが、生憎彼女はそれほど上級の悪魔ではなかったので、視界はいつも薄暗く、色がないままでした。


 かろうじて悪魔と名乗ることを許されてはいますが、まだまだ新米です。悪魔の前身である火の玉の時の記憶こそ既に薄れてしまってはいますが、日の光を直接浴びれば全身が焼け爛れて消滅してしまいます。


 だからでしょうか。彼女は与えられた任務をこなすべく、せっせと人間たちの住む世界に足を運ぶのですが、昼間の太陽の下には出ることができません。それでもっぱら夜、月と星だけが地上を見下ろす時間帯にしか行動できないので、なかなか上手に仕事ができないでいました。


「どうして人間たちは夜になると寝るのだろう?」


 彼女は首を傾げます。魔界には太陽はもちろん普通の明かりさえ満足にないのですから、無理もありません。悪魔である彼女にとって、「暗くなってきたから眠る」という考えはどうにも理解し難いことでした。

与えられた任務は、九人の人間に自分は不幸だと思わせること。思わせるだけでいいのですから本来ならとても簡単な仕事なのですが、彼女が活動できるのは暗くなってから。それも完全に日が落ちた後でなければならないので、標的になる人間たちはとうに寝てしまっています。眠っている人間の意識に働きかけるのは、彼女の力ではできないことです。同期で悪魔になった仲間たちが次々と任務を終えて魔界に帰ってゆくのを何度も見送り、焦燥に駆られながらも彼女は懸命に夜中でも起きている人間を捜します。


 地上に来て数週間が経った後、とうとう彼女は地上にひとりだけになってしまいました。


 それでも努力の甲斐あったのか、なんとか三人までは不幸だと思わせることに成功しました。なんのことはありません。たまたま酔っぱらいを三人見つけて、気づかれぬよう足を引っかけて転ばせただけなのですが、効果は覿面でした。お酒に酔って既に冷静な判断ができなくなっていた三人は、たかだか転んだだけで世界中の不幸を背負ったかのように悪態をつき始めたのですから。


 人間の感情を負の方向に導いた後は、先輩悪魔たちの仕事です。この地域に派遣されていた知り合いの先輩を呼んで三人を指させば、先輩悪魔は快く後を引き受けてくれました。ついでに、後六人分頑張るようにとの励ましの言葉までくれたのです。彼女はその時先輩が優しい悪魔で良かったと思いました。悪魔に向かって「優しい」はけして褒め言葉ではないので、その思いはもちろん心のなかだけにしまっておきました。





 ところ変わって、こちらは天使の彼の方。悪魔の彼女ではありませんが、天使の彼もただひとり地上に残されていました。新人悪魔たちが地上に上がってきた頃、天上から新人天使たちも地上に下りてきていたのです。彼らにもそれぞれの任務が与えられています。それは、九人の人間を幸福だと思わせることでした。


 彼は思います。


「どうして人間たちは、昼間起きているのだろう?」


 天使の彼にとって、なによりも恐れ、注意するべきは暗闇でした。


 とりどりの美しい花々が咲き乱れ、暖かな光に満ちた天界には暗闇ひとつ、それこそ影すらありません。視界に入るものはみな鮮やかな色彩に満ち、太陽の光が燦々とその身に降り注ぎます。彼ら天使にとって、闇は負の象徴、その奥に潜む、いえ、潜んでいるかも知れぬなにかを隠すためのものでしかありません。天界では寝るべき時も起きている時も常に光があふれていました。けれど、地上は違います。どうして暗闇に満ちた夜に、安心して意識を夢の世界へと飛ばすことができるのでしょう?彼には理解できませんでした。


 そんな彼も、すでに七人の人間を幸福だと思わせることに成功していました。うち二人は若い夫婦で、彼らの赤ん坊が彼らを見て笑っただけで胸が詰まるほどの幸福感に襲われました。実は彼らの後ろで彼が穏やかに微笑んで赤ん坊を見ていたことなど、その夫婦が知ることはないでしょう。





 やがて月日は流れ、彼女と彼は出会いました。


 光を恐れ暗闇に動く悪魔と、闇を恐れ光の中にいる天使が出会うことなど、尋常ではありません。けして偶然などという言葉では言い表せない事態でしたが、二人は互いにその存在を知りませんでした。悪魔も天使も、まったく異なる場所でまったく異なる時間を生きてきた種族です。悪魔は天使をただの伝承上の生き物だと思っていましたし、それは天使にしても同様でした。


 彼女と彼が出会ったのは薄明の時間、昼と夜が交差する僅かな間でしたが、それでも二人は確かに相手を目にしました。悪魔の彼女は到底知り得ないことでしたが、彼女は見事な黒髪と血のように紅い瞳を持っていましたので、薄藍の闇のなかでそれはひどく目立っていたのです。天使の彼は驚きました。今まで数多くの人間や天使たちを見てきたのですが、瞳が紅い生き物を彼は初めて見たのです。血の色を知る彼は、それが不吉な色をしているとすぐにわかりました。けれど同時に、とても綺麗な夕焼け色をしているとも思いました。


「ねえ」


 彼は呼びかけました。


「君はだれ?」


 彼女はいきなりかけられた声に驚いて、つい振り返ってしまいました。そして、息を飲みます。呼びかけてきた者は光をその身に宿していました。その鮮やかな光輝! とうてい下級悪魔の彼女に直視できるものではありません。すぐに彼女は俯いて視線をそらしてしまいました。


 紅い瞳が隠れてしまい、彼は少し残念に思いました。けれどめげることはありません。誰だっていきなり知らない人に声をかけられれば驚くに決まっています。驚いて怯えてしまっているのだと思い、迂闊に声をかけてしまったことを反省しました。そして殊更優しい声を出すよう努力し、もう一度呼びかけます。


「とてもきれいな紅い瞳だね」


 びくりと彼女の肩が震えました。その反応にはっとして、彼はすまなさそうに眉を下げます。


「……ごめん。気にしていた?」


 彼女の瞳が珍しいことは、彼にもわかっていました。


 人間が時々、珍しいものをひどく怖がることも、よく知っていました。そのせいで、なんの罪もない人たちが「魔女狩り」や「異端審問」などの名の下に殺されていくことが天界では現在の最重要問題として上げられていましたから、きっと彼女もそのことでなにか辛い目にあったに違いありません。人間を幸福にすることが役目の自分が、彼女に恐怖を与えてしまうなんて、なんということでしょう。天使失格です。やはり自分はまだまだ未熟なのでしょう。


「……あか」


「え?」


 その呟きは、あまりにも小さすぎました。


 なんだろうと思って聞き返すと、彼女はその顔を上げます。


「『あか』、って……なに?」


 彼は絶句しました。





 なにをしているんだろう。


 どこかで梟が鳴いています。森の木々は夜の陰鬱とした空気をかもしだし、彼女の姿を隠しています。


 そっと、彼女は瞳を閉じました。彼が「紅」だと言った瞳は、だんだんと闇を見通す力を蓄えていっているようです。今では数十キロ先で寝ぼけた鴉が木から落ちたのまで見ることができます。けれどだからといって、以前思っていたように心躍るようなことはありませんでした。


 あれから毎日、日没と日の出の前、ほんの少しの間彼は彼女に会いに来ます。昼間の陽光から逃れるために彼女が隠れている洞窟まで、飽きもしないで毎日毎日。何度「もう来るな」と言ったことでしょう。それでも彼は少しも気にせず彼女を訪ねてきます。来ているのだからと律儀に顔を出す自分の行動が、他ならぬ自分自身の言葉を裏切っていることはわかっていましたが、返事がないからといつまでも自分の名前を呼ばれるということは我慢ならないのです。


 そうしてどうやら彼はとてもおそろしい目的を持っていることがわかってきました。


 先日、彼はこう彼女に問いかけました。


『ぼくは、どうすれば君を幸せにできる?』


 その言葉のあまりのおぞましさに、彼女はなにも答えずその場を去りました。そして気づいたのです。彼がどうにかして自分を幸せにしようとしているのだと。まるでそれが自分の役目であり、使命なのだとでもいうように。


 「幸せ」は彼女にとって忌むべきもの、けしてなってはならないものなのに、彼はそれを口にしました。あまつさえ、「君を幸せにしたい」などと。いったいなんの冗談でしょう。それを言われた時、彼を殺さなかったのが不思議なくらいです。


「なにを、しているんだろう」


 声に出してみても、答えは返ってきません。


 ふと、彼女は疑問に思いました。何故、自分は「幸せ」になってはならないと思ったのだろうかと。


 人を不幸にするのが悪魔の仕事です。けれど思い返してみれば今まで一度だって悪魔自身が幸せになってはならないなど言われたことはないのです。


 何故だろう。彼女は考え、けれどわからずに胸の奥がつっかえているような気持ちになりました。火の玉だった時にはなかった感覚です。


 一昨日、自分に付き合って最後まで残ってくれていた先輩悪魔も、ついに魔界へと戻ってしまいました。彼女はここにひとりきり、残されてしまったのです。森の夜は暗闇に覆われていますが、ここは魔界ではありません。あの火の玉の放つ青白い光を恋しいと思ったのは生まれて初めてのことでした。


『……幸せに、なりたくないの?』


 哀しげに眉を下げた彼の声が、聞こえたような気がしました。






 驚愕に目を瞠った彼女は、次の瞬間その瞳に怒りを宿しました。


 憎悪、と言ってもいいかもしれません。


「どうしてなんだろう……」


 彼は途方に暮れていました。


 人間は幸せになることを望むはずです。その手助けをするのが彼の仕事なのです。それなのに、彼が出会った少女は幸せを拒絶しました。火のように怒る、とはきっとあのようなことを言うのでしょう。瞳の奥に燃える静かな怒りは、深く強い感情を彼に伝えました。


 そんな反応は初めてでした。彼の持つ陽光の髪と青空の瞳は、典型的な天使の色彩です。それを今まで不満に思ったことはありませんでしたが、この時はそのことがとても哀しく感じられました。闇と血をその身に宿す彼女と自分は、あまりにかけ離れています。神の使いとして崇められる自分と正反対なのですから、きっと今までたくさん辛いことがあったのでしょう。だからこそ彼女には幸せになるべきだと、その権利があると思ったからこそ尋ねたのです。彼女が思う、幸せの形を。それがまさか、あんな表情をさせてしまうとは彼は考えてもいませんでした。


 幸せなんていらない、と、そうはっきりあの瞳は言っていました。余計なことはするなと、吐き捨てるように言われました。――それでも彼は、彼女を幸せにしたいと思いました。


 彼は彼女のために、なにかをせずにはいられなかったのです。天使の自分は、誰かを幸せにするために生まれてきました。誰を幸せにするかは自分の意思で決めることができますが、今ほど誰かを幸せにしたいと思ったことはありません。そして、天使の彼は誰かを幸せにすることしかできないのです。けれど彼女はそれを拒絶し、彼はとてつもない無力感に襲われていました。 






「幸福とはなにか。なにが幸福なのかそして何が不幸なのか」


 淡々と言葉が紡がれていきます。


 天使たちの長、天使長の語る話はいつも少し難しく、そして不可解な感情を下級天使たちに与えます。そしてそれは、彼も例外ではありません。


 そう、いつもなら。


「他人にとっての不幸が幸福、他人にとっての幸福が不幸。感情とは読み難く、複雑にして単純。強固にして惰弱」


 矛盾した言葉だと、いつもなら思ったことでしょう。けれど今は、天使長の言うことがよくわかりました。


「不幸の果てに必ず幸福が約束されているように、幸福の果てにも必ず不幸が待ち受ける。けれど恐れることなかれ。惑うことなかれ、挫けることなかれ。其は輪廻し回帰する。やがて廻る環のなかに、久遠にして聡明なる理を見出すだろう」


 最後の言葉はいつも天使長が口にする聖句でした。


 この言葉もとても難しくて、いつも彼にはわかりません。今日こそは、と思っていつも熱心に聞いているのですが、案の定今日もわかりませんでした。


 集まっていた何百もの天使たちが散り散りになっていきます。彼はぼんやりとその光景を眺め、ふと疑問に思いました。こんなにも多くの天使たちがいるというのに、自分たちは揃えたように同じ金の髪をしています。それは、多少色の濃い薄いや髪質の違いはありましたが、それでも全員が金髪です。そしてやはり、瞳の色も揃えたような蒼色でした。今まではそれが普通だと感じていましたが、彼はその時唐突にそれがとてもおかしなことなのではないかと思いました。


 頭の中に浮かぶのは、闇のような黒髪と血のように朱い瞳をした彼女です。


 どうしてでしょう、そう考えると彼はどこか落ち着かない気分になりました。


「浮かない表情ですね」


「……天使長様」


「地上から戻って来てこちら、君はずっと沈んでいる」


 気づかれていたのかと、彼は恥ずかしそうに俯きました。


「幸福を運ぶ使者が不幸な表情をして、どうするのです」


 確かにその通りでした。けれど、それをわかっていても彼にはどうすることもできません。


 義務ではなく、天使になって初めて、心から幸福にしたいと思った彼女がそれを望んでいなかったことは、彼にとって衝撃的な出来事でした。


 あれから彼は彼女とは会っていません。もう、何年も。


「なにかあったのかとは聞きませんよ」


 困ったように眉尻を下げた彼の頭を、天使長は優しく撫でます。


「話しなさい。悩める者を導くのは、年長者の役目のようですからね」






「それは天使であろうな」


 淡々とした口調で言う主に、彼女は目を瞠りました。


「天使? それは空想上の、もはや伝説となった存在ではなかったのですか?」


「さもあろう。……お前はまだ新米か」


 こくりと頷いた彼女に、主は得心したようです。


 悪魔らしからぬ風変わりな性格で有名な彼女の主は、その冷たい顔立ちを少しだけ和らげました。


 先日火の玉から下級悪魔に昇格したのは約七十人。そのうち彼女のように今日まで完全な人形を保てている者はたったの六人です。彼女は自分を落ちこぼれだと感じているようですが、姿を保つことすらできずすぐに火の玉に戻ってしまった他の者たちに比べると、悪魔として優秀であることは間違いありません。


「悪魔である我ら……違うな。お前までも幸福にしたいとは、なんとも健気な心がけではないか。天使の鑑だ。さぞ憎かったであろう?」


「いっそ殺してしまいたいほどに」


 その彼女の返答に、主は弾かれたように笑い出しました。彼女は表情を一切変えずにその様子を見ています。それがまた主の笑いを誘うのです。


「いっそ見事なまでに変わったものだ」


「?」


 こちらの話だ、と鷹揚に手を振る主を追及することなく、彼女は「そうですか」とだけ言いました。


 悪魔のなかでも高位に属する彼女の主は、魔界の一角に私事のための居城を持っていました。気紛れに人間の造るものを真似して建てたものですが、他の悪魔たちの干渉を避けることが出来るので彼女の主はもっぱらそこで過ごします。


 城のあちこちには主の配下の下級や中級、上級悪魔や火の玉まで暮らしています。数はあまり多くありません。上から数えた方が早い位についているにしては、彼女の主は配下が少なすぎるのです。


 基本的に個人主義な悪魔にとって連帯意識やら同族意識などはもとから期待できはしないのですが、一応仲間意識はあります。といっても人間たちから見ればあってなきがごとしの程度ではありますが。互いそんな暖かい関係は望んでいませんので、問題はまったくありませんでした。彼女の主が少し特殊なのです。


 人間界にいた時に出くわした妙な人間のことを、彼女は忘れていませんでした。あんな屈辱は初めてだったのです。悪魔同士の最も侮辱的な悪口も、彼の発言に勝ることはないでしょう。


 そのことを彼女は自分の主に言う気はなかったのですが、いつも無表情無感動な彼女から漂う怒気にただならぬものを感じたのでしょう。報告のために訪れた彼女をなぜか私室に呼び寄せ、わざわざ人払いまでして自白を強要され、今に至ります。


 彼女の主はまず彼の容姿を説明した時点で軽く眉を寄せ、彼の発言を言った段階で機嫌が最悪になりました。あまりの悪さに彼女がその場から即座に去りたくなるほどに。さいわい今は少し浮上したようですが、それでもまだ不機嫌そうに見えます。


「あのままでは本当に手にかけてしまいそうでしたので、それ以降は潜伏場所を変え、一度も顔を合わせておりません」


「ああ……的確な対処方法だ」


 そうは言ったものの、主はまったくそうは思っていないだろう表情をしています。


「天使とは、やはり伝承通りの存在なのでしょうか」


「おおむねそうだな。神の御使いを自称し、陽光の如き髪と空の青を瞳に持つ。人間を幸福とすることに至上の喜びを感じるはた迷惑な種族だ」


「……正反対なのですね。我々と」


「だからこそ、遥か古より衝突が絶えない」






「え?」


 彼は驚きで目を見開きました。


 少しだけその表情に苦いものを含ませた天使長は、そんな彼の不躾な振る舞いを咎めることなく、ただ穏やかに優しく微笑んでいます。


「悪魔に魅入られた、ですか?」


「まれに、そういう人間がいるのです」


「……天使長様は、そういう人間に会ったことがあるのですか?」


「ええ。……もう、ずいぶんと昔のことになりますか。大陸の西に、サラという美しい少女がいました。その娘がそうでしたよ」


「悪魔に魅入られた?」


 哀しそうに、天使長は頷きました。


 位階を示す白い法衣が風に揺れ、その面に薄く影を落としていました。


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