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聖女と騎士

作者: あさくら

 馬の歩みは、もう何度も止まりかけていた。

 辺境の土道はぬかるみ、冷えた風が頬を刺す。長旅の末、騎士ガレスはようやく小さな村の入り口に辿り着いた。王都の地図には載っていない、山間の忘れられたような場所だ。


 教会は村のはずれにあった。

 石造りの外壁は苔むし、色あせた聖像は片腕を失っている。扉を押し開けると、古木の軋む音が重く響いた。


 中には一人の娘がいた。

 袖を捲り、箒を握り、床の埃を払っている。

 窓から差し込む淡い光に、埃が小さな雪のように舞っていた。


「……あらまあ、こんな廃教会に何の用ですか?」


  娘が手を止め、警戒というより純粋な驚きの声を上げる。

 年の頃は十四、五だろうか。粗末なエプロンの裾には土埃がつき、頬には煤がかすかに残っている。


 なによりもガレスが驚いたのは、娘の風貌だ。

 黒い髪に黒い瞳。この地方ではまず見ない色合いをしている。


 “当たり”かもしれない。そんな期待を胸に、ガレスは口を開いた。


「旅の者だ。この村に……聖女と呼ばれる者がいると聞いてきた」


 ガレスの言葉に、娘は表情を曇らせた。


「残念ですけど、期待するような“聖女様”はいませんよ」


 そう言って肩をすくめる。


 それでもガレスは、すぐには諦めなかった。

 長い旅路の末に辿り着いたのだ。ここで背を向ければ、ただ寒風の中を彷徨っただけになる。


「聖女を知っているのか?」

「知っていると何も、噂の聖女は私です。何の力も持たない平凡な女ですけどね」


 ガレスは娘を見据えた。

 声色は軽いが、その奥に微かに影があった。

 冗談半分か、諦め半分か——それを見極めるほどの気力が、今の彼には残っていない。


「……聖女を自称する者には何度も会った」


 低く、砂を噛むような声が教会に響く。


「力を持つと言い張り、祈れば病も治ると嘯く。だが実際には、何もできなかった」


 娘は眉をわずかに寄せ、箒の柄に手をかけたままこちらを見た。


「私は嘘はつきませんよ。病人も怪我人も、治せません。ただ掃除をして、食事を作って、泣いている子をあやすくらいです」


 その言葉に、ガレスは短く息を吐いた。

 失望か、それとも安堵か、自分でも判別がつかない。

 聖女を見つければ任務は終わる——そう思っていたはずなのに、目の前の少女は予言の条件から外れていると分かっても、足が扉へ向かおうとしない。


「……名前は?」

「マリエです」


 簡潔に答えると、マリエはまた箒を動かし始めた。

 木の床を撫でるような音が、古びた礼拝堂に広がっていく。

 その単調な音が、なぜかガレスの胸の奥のざわめきを静めていった。


 ガレスはしばし黙ったまま、箒を動かすマリエの背を見ていた。

 それから、低く、しかしはっきりと言葉を落とす。


「……おまえが本当に聖女でないのか、見極めたい」


 マリエは手を止め、振り返った。

 真顔の騎士を見て、ほんの少しだけ口元を緩める。


「へえ……わざわざこんな村まで来て、それですか」

「王命だ」


 短く答えるガレスの声には、疲れと義務感が入り混じっていた。


「だが、誤りならそれを確かめて報告しなければならない」


 マリエは箒を壁際に立てかけ、エプロンの裾で手の埃を払った。


「じゃあ、案内しましょうか。この村と、噂の“聖女”の真相を」

「真相……?」

「ええ。あなたが探している聖女様は、だいたい皆が私だって言いますから。なぜそんな話になったのか、歩きながら教えてあげます」


 ガレスは立ち上がり、腰の剣の柄を軽く叩いた。

 外の冷たい空気が扉の隙間から流れ込み、礼拝堂の埃をわずかに揺らす。


「……頼む」


 マリエは軽く頷き、扉を押し開けた。

 古びた教会の外には、冬の陽が淡く村を照らしていた。


 外に出ると、澄んだ冷気が頬を撫でた。

 村はこぢんまりとしていて、木造の家々が並び、軒先には干し草や薪の束が吊るされている。

 土道には鶏が歩き回り、遠くでは水車の音がかすかに響いていた。


「このあたりじゃ珍しい人ですね、鎧姿なんて」


 マリエは笑いながら歩き出す。足取りは軽く、寒さをものともしない。


「私はもっと珍しいんですよ。この村に来たのは……そう、三年くらい前かな」

「三年前……」


 ガレスは横目で彼女を見やる。


「なぜ来た?」

「さあ?」


 マリエはあっけらかんと言った。


「ある日、この村の外れに倒れてたらしいです。変わった服を着てたもんだから、村の人が“神様の使いが来た”って騒ぎになって」

「それで、聖女か」

「そう。でも私はこの辺のことをよく知らなくて、神様のことも知りません。ただ、村の人がご飯くれたり、家を貸してくれたり……恩返ししようと思って手伝いをしてたら、なんだかもう“聖女様”で定着しちゃって」


 通りかかった家の前で、年老いた男が薪を抱えてよろめいた。

 マリエは迷いなく駆け寄り、薪を受け取って家の中まで運ぶ。

 戻ってきたマリエは、少し息を切らしながら笑った。


「ね、ただのお人よしでしょう? 奇跡なんて起こせませんよ」


 ガレスは返す言葉を見つけられなかった。

 確かに奇跡は見ていない。だが、先ほどの自然な行動と笑顔は、

 戦場で擦り切れた自分の胸に、じわりと温かさを滲ませていた。


 村の中央には、小さな広場があった。

 井戸を囲んで女たちが桶を満たし、子どもたちが石蹴りをして遊んでいる。

 マリエはその中を迷いなく歩き、誰彼かまわず声をかけていく。


「おばさん、腰の調子どうですか?」

「昨日よりは楽になったよ。あんたが湿布持ってきてくれたおかげさね」


 笑い合う二人の横で、桶を引き上げられず困っている少年がいた。

 マリエはすぐに桶を手に取り、軽々と水を汲み上げると、少年の手に渡す。


「ちゃんと家までこぼさず運ぶんだよ」


 ガレスはその様子を黙って見ていた。

 ——確かに、聖女の力ではない。

 だが、困っている者を見ればためらわず助け、感謝されても胸を張らずに笑っている。

 それは剣や魔法では得られない種類の尊敬を、人々から集めていた。


「おや、騎士さま!」


 声をかけられ振り向くと、片腕のない壮年の男が立っていた。


「マリエに案内してもらってるんですか。あの子は村の宝ですよ。何を頼んでも嫌な顔ひとつしない」

「……それは、よくわかる」


 ガレスは短く答えた。

 男は笑い、マリエの方へと向き直る。


「この後、婆さんの家に寄ってくれないか? 昨日から寝込んでてな」

「もちろんです。薬草茶も持って行きますね」


 マリエはそう言って、ガレスに振り返った。


「付き合ってくれますか? これが、私が“聖女”って呼ばれる理由のひとつですから」


 ガレスは頷き、彼女の後に続いた。

 それはまるで、村全体が彼女を中心に回っているようだった。

 ——聖女ではない。だが、少なくともこの村にとっては代わりのいない存在だ。

 その事実が、なぜか胸の奥を温かく、そして少しだけ重くした。


 村の外れ、苔むした屋根の低い家に着くと、マリエは戸を軽く叩いた。

 返事はない。

 彼女はためらいもなく戸を押し開け、「失礼します」と声をかけながら中へ入る。


 薄暗い部屋の中、藁布団の上に痩せた老婆が横たわっていた。

 枕元には冷えた水差しと空の茶碗が置かれている。


「……マリエかい?」


 掠れた声が布団から漏れる。


「はい。薬草茶を持ってきましたよ」


 マリエは手早く荷籠を下ろし、干した葉を湯に浸す。

 香りが部屋に広がると、老婆の険しい顔が少し和らいだ。


「ほら、ゆっくり飲んで。昨日は食欲なかったんでしょう?」

「……あんたは本当に世話焼きだねぇ」


 そう呟きながらも、老婆は茶碗を受け取り、一口ずつ口に運んだ。


 ガレスは部屋の隅で、その光景を黙って見ていた。

 軍で傷病者を看取ったことは数知れない。

 だが、そのときの自分は命令に従って動くだけで、こうして一人の人間に心を込めて世話をしたことはなかった。


 マリエは茶を飲み終えた老婆の手を握り、柔らかく笑った。


「また来ますから、ちゃんと食べて休んでくださいね」


 外に出ると、午後の光が傾き始めていた。


「ね、これが“聖女”の仕事です」


 マリエは冗談めかして言ったが、声に誇りが滲んでいた。


 ガレスは答えず、ただ彼女を見つめた。

 ——奇跡の力はなくとも、この娘は確かに人を生かしている。

 それが王が求める聖女とは違っても、彼の胸には抗いがたい事実として刻まれ始めていた。



 村の外れを回り、夕日が山の端に沈みかけていた。

 帰り道、冷えた風が土道を抜け、枯れ草を揺らす。

 マリエは歩幅を少し緩め、遠くを見ながらぽつりと言った。


「……私は、もっと違うところに暮らしていたんです」


 ガレスは横顔を一瞥する。

 それは初めて聞く話だった。


「どんな場所だ?」

「……馬じゃなくて、“車”っていう鉄の塊が走っていて、道はきれいに舗装されてました。大きな建物がたくさんあって、人は皆、何かに追われるみたいに早足で……顔も見ずにすれ違って」


 淡々とした声に、どこか懐かしさと疲れが混じっている。

 その光景はガレスには想像がつかない。

 だが、そこがこの穏やかな村とはまるで別世界であることだけはわかった。


「……どうして、そこを離れた?」


 マリエは足を止め、薄い笑みを浮かべた。


「自分で……命を終わらせました」


 夕陽が彼女の横顔を赤く染める。

 それは告白というより、ずっと前から心の底に沈んでいた石をそっと拾い上げて見せるような響きだった。


「……理由は、聞かないでくださいね。もう終わったことだから」


 ガレスは何も返せなかった。

 戦場で命を失った者を数え切れぬほど見てきたが、自ら手放した命の話は、どう受け止めればいいのか分からない。

 ただ、彼女が今こうして目の前で歩いていることだけが、妙に確かな事実として胸に残った。


 マリエは再び歩き出し、肩越しに笑みを向けた。


「だから、私には聖女なんて呼ばれる資格なんて、本当にないんです」


 遠くに、村の宿の明かりが灯り始めていた。

 その温かな光を目にしながらも、ガレスの胸の内は、冷たい風と一緒にざわめきを抱えたままだった。


 宿の部屋は、村の質素な暮らしそのままの造りだった。

 粗削りの木の机、壁際の小さな暖炉、干し草を詰めた寝台。

 ガレスは外套を椅子にかけ、剣を枕元に立てかけると、暖炉の火をぼんやりと見つめた。


 マリエの声が耳に残っている。

 舗装された道、鉄の車、慌ただしくすれ違う人々——ガレスには到底想像できない景色。

 そして何より、「自ら命を終わらせた」というあの言葉。

 それは重く、しかし不思議と清らかな響きを持っていた。


 ——彼女は奇跡を起こすわけではない。

 病を治す力も、戦を止める力もない。

 だが、あの村人たちの目に映る彼女は、確かに人を救っていた。


 王が求める聖女は、国を救う“力”を持つ者。

 それは軍の指揮官が欲する兵器と同じで、人としての心や過去などは顧みられない。


 マリエは違う。

 ただそこにいて、弱き者を助け、温もりを分け与える。

 それは戦場で失われたはずの“救い”そのものだった。


 ガレスは静かに息を吐き、額を手で覆った。

 ——この事実を王に報告すべきか。

 報告すれば、彼女は王都に連れて行かれ、望まぬ役割を押しつけられる。

 黙っていれば、命令違反の罪が自分に降りかかる。


 暖炉の火がぱちりと爆ぜ、短い火花が散った。

 ガレスはその音に目を細め、ゆっくりと瞼を閉じる。


 明日になれば、また選ばなければならない。

 だが今夜だけは——あの娘がただ村の“マリエ”でいられるように、

 何も決めずに眠ろうと思った。




 王都は、村から見れば別世界だった。

 石畳を踏み鳴らす馬車の車輪、行き交う兵士と商人、途切れることのない喧騒。

 ガレスは報告のために王宮へ向かったが、足取りは重く、背中には見えない鎖が絡みついているようだった。


「——それで、聖女は?」


 玉座の上から、王は短く問いかけた。

 老齢の顔には期待と焦りが入り混じっている。


 ガレスは視線を上げず、答えた。


「……見つけられませんでした」


 嘘だと分かっているのは、自分だけではないだろう。

 だが王はそれ以上追及せず、冷ややかな声で言った。


「下がれ。次は別の者を送る」


 その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて切れた。

 任務も、忠誠も、誓いも、もう自分を動かす理由にはならない。


 数日後、ガレスは鎧を脱ぎ、王宮を去った。

 手元に残ったのは、長年使い込んだ剣と、数枚の硬貨だけ。

 だが、足は迷わなかった。


 ——戻るのは、あの村だ。

 あの娘が暮らす場所だ。



 村の入り口に立ったとき、冷たい風が頬を打った。

 だがそれは、王都の石壁の影で感じた風とは違い、澄み切った匂いを運んでくる。


 広場では子どもたちが石蹴りをし、井戸のそばでは女たちが洗濯物を干していた。

 その中に、見慣れた後ろ姿がある。


「……マリエ」


 名を呼ぶと、彼女は振り返り、驚いたように目を瞬かせた。

 そして、ゆっくりと笑みを浮かべる。


「……おかえりなさい、ガレスさん」


 その一言で、胸の奥の迷いはすべて消えた。

 王の求める聖女ではない——だが、ガレスにとっては確かに聖女だった。

 これからは剣ではなく、この場所と彼女を守るために、生きていこうと心に決めた。

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