6、夏の夜の思い出
――これはオレの先輩が教えてくれたんだけど。
そんな切り口から圭太が囁いた。日焼けした肩を縮こませて、唇をロウソクに近づける。辺りは真っ暗闇で、かすかな灯火だけが2人の青年を照らしていた。
――なんか変な雰囲気だったらしいんだよ。店に入ったらさ、何かいつもと違うんだ。「怖いな、うわぁ怖いな」って思ってたら、凄く怖い目にあって……。
そこで途端に眩しくなる。裕二郎が部屋の灯りをつけたせいだ。
「うわっ。なんだよ急に!」圭太が顔を片手で塞ぎながら言った。
「いや全ッ然怖くねぇわ。もうやめるぞ」
裕二郎は言いながら額の汗を拭い去った。手のひらがジットリと濡れる。
「お前が言い出したんじゃん。エアコンが壊れたから、どうにかして涼しくなろうって。がんばってどうにかネタをひりだして、怪談っぽいことやってんじゃねぇか」圭太も首にかけたタオルで顔を拭った。
「だから全然ダメだって。お前、怖がらせる才能なさすぎ。落第点だぞ」
「うろ覚えなんだよ。文句言うならお前がやれって」圭太が火の消えたロウソクを差し出すが、見向きもされなかった。
「しかし暑いな、シャレにならねぇんだが。マジで死にそう……」
「ここまで来ると、いっそ死んじまった方が楽だよな、うん」
「揚げ足とってんじゃねぇ」
裕二郎が畳の上で寝転がり、リモコンをいじくった。それでエアコンはガタガタと異常を示し、冷風を吐き出す前に、動きを止めてしまう。この賃貸に備え付けだった年代物で、唐突に旅立ってしまったのである。
酷暑で茹で上がる家主を残して――。
「こんなタイミングで壊れるなよ。夏を乗り切ってから逝ってくれ」
「スーパーは……もうやってねぇか。コンビニでも行こうぜ」と圭太。
「今から?」裕二郎はスマホを取り出した。時計は夜中の二時を回ったところだった。「こんな時間に出歩くのはちょっと……」
しかし圭太が裕二郎の背中を押した。
「どうせ暑くて眠れねぇだろ。ウダウダ言ってねぇで涼しい所へ行こうぜ」
拒む姿勢を見せた裕二郎だが、強く拒絶するだけの理由もなかった。結局は押し切られる形で部屋から出た。
外は外で蒸し暑い。深夜にも関わらず、肌に張り付くような熱気に、裕二郎は思わず閉口してしまった。
「アスファルトがクッソ熱い……法律で禁止したらいいのにな」
「コンビニに着いたらめっちゃ冷え冷えになるって」
「氷を買いまくろうぜ。そんで部屋を極寒地獄にしてやる」
裕二郎は軽口を叩きながらウェブ検索をした。気象庁によればこの時間の気温は32度らしい――が、体感とは大きく違っていた。あまりの暑さと、さらに眠気まで加わり、まともに頭が回らなかった。
「なぁ裕二郎、近道しようぜ」
圭太が路地裏の道を指した。店の位置を思えば、確かに最短ルートのようだった。だが裕二郎は不審に思う――こんな小路があったのかと。
「良いから行くぞ。早いとこ涼みにいかねぇと」
圭太は返事も聞かずに路地へと入っていった。「おい待てよ」と制止の声も耳に届かないようだった。
小路は決して広くない。左右がブロック塀で、大人1人が通れる程度。並んで歩くことはできない。そして足元には、錆びた金属や板切れなど、ゴミが散乱していた。公道とは思えない散らかりっぷりだった。
「おい圭太、これ私有地じゃないのか?」
「いや、まぁ、平気だろ。ちょっと通るだけだし」
そういう圭太も、体を縮めて少し早足になった。後に続く裕二郎も、とにかくトラブルの無いようにと祈る。祈るのだが、どこかで気味の悪さも感じていた。
(妙に長くないか、この道……)
歩きにくいとは言え、そこそこの距離を進んだ気がしている。それなのに一向に終わりが見えない。かぼそい街灯の光は足元が視える程度で、先を見通すことは難しい。
「狭いし暑いし、最悪だな」
吹き出る汗を拭う裕二郎は、ふと、前を歩く背中を見て驚く――圭太のシャツが渇いている事に。タンクトップが張り付くほど大汗をかく自分とは大違いだった。
ゾクリ――。不条理さにふと、裕二郎の背中に寒気が差し込んだ。
「なぁ圭太」問いかけると、圭太が肩越しに振り向いた。「なんだよ」
「お前さ……」
どうして汗をかいてないんだ、とは聞けなかった。口ごもり、鈍った思考を働かせては、他愛のない事を尋ねた。
「お前、昼間はどこ行ってたんだ? 終電逃したっていうから泊めてやるんだけど」
「代々木で飲み会があったんだよ。そんで帰ろうとしたら別の急行に乗っちまって、乗り換えようにも終電が終わってた」
「あぁ、そうだっけか……」
裕二郎は尋ねておいて生返事になった。頭が妙にぼんやりする。熱にやられたせいか、さっきから記憶が曖昧だ。会話も馬耳東風で、反射的に短く答えていた。
すると前を行く圭太が足を止めた。その時になってようやく裕二郎も、ハッとさせられる。白昼夢から覚めた気分だ。
「どうした圭太、行き止まりか?」
「今、何か聞こえなかったか?」
「えっ?」
裕二郎も微かな物音を聞いた。パキリ、パキリと、背後から渇いた音。硬いものを踏み潰すような――凍りついた水たまりだとか――そんな音が鳴り続けた。
それは徐々に大きくなっていく。
「誰か、同じ道を来たんじゃないか?」裕二郎はつとめて冷静に返答した。
しかしその間も音は2人に迫る。パキリ、パキリ――直ぐ側で聞こえるようになった。それなのに、肝心の「何者」かの姿は一向に見えなかった。
「走れ!」圭太が叫んだ。ガラクタを踏みつけながら駆けてゆく。
「今の何!?」裕二郎も走りつつ問いかけると「オレが知るか!」と圭太が怒鳴り返した。背後から迫る音はさらに響くようになり、2人の会話すらもかき消すようだった。
「出口だ!」
ラストスパート、圭太が小路から抜け、裕二郎もすかさず飛び出した。
正面は街路樹の並ぶ大通りだった。さすがに通行人も車も見かけないが、雑居ビルが立ち並ぶ、裕二郎の見慣れた光景が広がっていた。
「はぁ、はぁ、助かった……?」
気づけば、例の音は聞こえなくなった。小路にはやはり人影もない。思わず顔を見合わせた2人だが、深く考えない事に決めた。
「つうか早くコンビニ行こうぜ」
圭太がコンビニまで一直線に向かった。煌々ときらめく看板は、見ているだけで安心させられた。
自動ドアが開くと、肌に心地よい冷風を浴びた。それはあまりにも甘美で、鼻の底から深く呼吸したくなった。
「いやぁ〜〜涼しい! ここに住みたいくらいだな!」
圭太が入店するなり大声で言った。「やめろよ」と裕二郎も制止するが、気持ちは同じだ。まるで別世界に来たようで、汗ではりつくシャツが早くも冷たく感じられた。
「何買おうかな。まずは冷たい飲み物を……」
裕二郎はガラスケースの冷蔵庫に近づき、ギクリと足を止めた。ガラスは一面白く曇っている。そのため近寄ることでようやく中が見て取れたのだが――中にあるのは人の身体だ。本来ならコールドドリンクがあるべきところに、人間がすし詰めになって並んでいた。
「け、圭太! 見てみろよ!」
思わず後ずさると、背後に相棒の姿はなかった。圭太はアイス用の冷凍ケースに頭から飛び込み、ズルリと中に潜った。キレイに足の先までが飲み込まれてしまう。
「何やってんだよオイ!」
裕二郎が蓋を開けて怒鳴る。冷凍庫の中で、圭太の青白くなった顔がニタリと歪んだ。
「お前もこっちこいよ。涼しいぞ?」
「そんな事言ってる場合じゃ――」
その時、店内に嘲笑が響き渡った。冷蔵棚の中の人間たちの声だった。「そうだよ、お前もこっち側になれ!」「外は暑くて死にそうだろ? ここは天国なんだぁ」
一斉に冷蔵棚のドアが開かれた。すると、肌を切り裂くような冷風が吹き荒れた。まつげに霜が降りて、まぶたもくっつきそうになる。
「やばいぞ圭太、早く逃げよう……」
語りかけようとして、腕を強く掴まれた。冷凍庫から半身だけ外に出した圭太が、中へと引きずり込もうとする。
「遠慮すんなよ、暑いだろ? ここに居たら良い。もう2度と暑いなんて言えなくなるからさ」
「離せよ、この野郎!」
恐怖心から力任せに腕を振り回した裕二郎は、どうにか圭太から逃れた。そして転がるようにして店の外へ飛び出す。
それからどうしたか、あまり記憶に残っていない。確かであるのは、どうにかしてアパートに駆け戻った事だ。心身ともに冷え切った裕二郎は、布団を被っても震えが止まらなかった。心には繰り返し「なぜ」「何が起きた」と立て続けに疑問符が持ち上がっては、気が狂いそうになる。
それでも――自分は生きている、こうして元の場所へ帰ってくることが出来た。その揺るがざる事実が、彼を正気に引き止めてくれた。
大学2年の夏――忘れられない思い出。
当時の話を、大人になった裕二郎は、自分の息子に話してやった。
「そんで、その圭太って友達は何者だったの?」
息子は鼻で笑いながら尋ねた。
「それが良くわからないんだ。アイツの事は調べたけどさ、友達に聞いても、学生課で調べても出てこない。誰も知らないって言うんだ」
「ふぅん」
「あれから再会することも無かったし、思い出す事もなくなったかな。こんな時でもなけりゃね」
「あっそ、おもんな。本当にあった話とか言いつつ、本当に無かったやつだ」
小5の息子は生意気ざかりで、父の怪談に不満を顕にした。裕二郎は苦笑する。
「まぁ、作り話って訳でもないけどね。怖くなかった?」
「全ッ然だね、下手くそ。落第点だよ」
「あはは。あんまり得意じゃないんだよ、この手の話はさ……」
そう言いつつも裕二郎は、無理もないなと思う。誰に話しても信じてもらえなかった事件は、証拠の1つもなかった。
「あれ? あれ?」息子がリモコン片手に苛立つ。
「ねぇパパ。エアコン壊れちゃったかも」
裕二郎はエアコンの異音を聞くとともに、肌を切り裂くような冷気に包まれた心地になった。
〜完〜