2、祓わないで悪霊
彼の歩く姿はまるでゾンビみたいだ――と、会社内で噂になっている事を本人は知っていた。だからと言って改善が不可能であるとも、理解している。
「あぁ、眠い……でも……」
彼はどちらかと言うとショートスリーパーで、5時間も寝たならフル稼働できる。学生の頃などは徹夜もさほど苦ではなかった。夜な夜な遅くまで、オトナの動画を愉しむ事もライフワークだった。
しかしそれも、三十路を過ぎた頃に様子が大きく変わる。眠りは極端に浅くなり、目覚めも重たく、気怠さで吐きそうになった。頭も働かず、当然仕事への影響も計り知れない。実際、成績は極端な下降線を辿ってしまう。
「おい坂本。また間違ってんぞ。全部先月の数字じゃねぇか」
『営業部の鬼』と呼ばれる課長補佐が、寝ぼけた顔に言った。しかしどこか声色が柔らかい。それは『クビ一歩手前』の現象であることは、課内でも有名である。怒鳴りつけられる方がマシなのだ。
坂本は睡魔と目眩に苛まれながらも、辛うじて定時まで働いた。残業や晩飯の誘いは1つとしてない。
「あぁ、僕はいったいどうしたんだろう……」
大病を疑って大学病院に赴いたが、健康そのもの。単純に生活習慣を見直して、8時間寝るようにしても変わらなかった。とにかく寝起きの疲労感と憔悴っぷりが凄まじかった。
そして今は、その睡眠すら恐怖の対象だった。
「あのバケモノは何なんだよ、いったい何の因果で……!」
坂本は夢を覚えていないタイプだが、一度、明確なものを見た。暗闇で蠢く黒い何かが、彼を押しつぶそうとする夢だ。ケラケラと嘲笑う声にはリアリティがあり、耳元で囁かれている感覚さえあった。
それ以来は恐怖の虜となり、深く眠ることが出来なくなった。たまに気絶するようにして意識を手放すくらいで、それも小刻みな睡眠だった。
「僕はもう死ぬんだぁ……。謎の奇病に侵されて、誰にも知られずひっそりと」
すると不意に、坂本は声を掛けられた。その時になって彼はようやく、帰宅ルートを外れて路地裏をさまよっている事に気付かされた。
「お若いの、酷いツラしてんべな」
声をかけたのは見知らぬ老婆で、奇妙だ。シラカバの錫杖に唐傘、そして赤袴と、やたら古風な装いだ。これが地方の山間ならいざ知らず、23区のオフィス街とあっては、悪目立ちしかしない。
(変な宗教の勧誘かな……。項垂れてると声をかけられやすいんだっけ)
坂本は「結構です」と言ってきびすを返した。追いかけるように背中に声がかけられた。
「あんた、酷いもんに憑かれてんべよ」
「ええそうです。重度の不眠症です、お気になさらず」
「違う、そうじゃねっつの。とんでもない悪霊が取り憑いてるって話だっぺ」
「悪霊――?」坂本の足が止まる。
「このままじゃお前さん、死んじまうべ。言っとくが医者なんか何の役にも立たねぇ。MRIだの触診だのと散々身体をいじくりまわしてもよ、なんも出てこねぇんだわ」
「どうしてそれを!」
「話聞く気になったけ? ちょいと寄ってくべよ。悪いようにはしねぇからよ、お客さん」
気味悪く笑ったあとに、老婆は笠間と名乗った。しわだらけの指を近くの建物に向けた。
そこは薄暗く、カビ臭い雑居ビルだった。階段には私物が放置されて、足場もひどく狭い。疲労困憊の坂本にとって、三階まで昇る事はかなりの負担だった。
「ここだべ、座った座った」
表札のないドアを開くと、そこはありふれた賃貸のようだった。
通されたのは応接室で、そこも雑然としていた。くたびれたソファ、テーブルには水晶や十字架に仏像、独鈷杵などが節操なく並べられていた。笠間は「お祓いもインタラクティブじゃねぇとよ」と釈明した。
「さて始めんべ。早速見てやるよ」
坂本をソファに座らせると、その対面で笠間が水晶を眺め始めた。
「霊力のないアンタにもきっと視えるべよ。そんぐらいヤベェ奴だかんよ」
坂本は少し後悔していた。自分は何をしているのか――こんな事なら早々に帰宅して、動画なり愉しめば良かったと思う。
しかし斜に構えるのもここまでだ。坂本の眠たい顔を映していた水晶が、とたんに曇り、漆黒の人影に飲み込まれていったからだ。
思わず坂本は悲鳴をあげた。「い、今のは何!?」
笠間はかぶりを振った。「見ただろ? それがアンタに取り憑いてんだ。いやぁスゲェ執念でよぉ、おったまげちまうべ」口ぶりはおどけているものの、目は笑っていない。むしろ眉間のシワが深くなったようだ。
「こいつは大仕事だね。病院でいや全身麻酔の大手術になんべ。料金もそんだけ掛かるから覚悟すんべな」
「ちょっと待って! 取り憑いてるって何が!? 訳も分からず進めるのはやめてくれ!」
「おまえさん、イヤラシイもんばっか見てんべ? エロ本とか、ポルノとかよ」
「し、失敬な! 僕のような紳士に向かって何を」
「とぼけんな。こんな悪霊を呼び寄せておいて、お前。そんな嘘は通じねぇべ」
「どういう事……?」
「アンタに取り憑いてんのはなぁ――ドスケベ女だよ。夜な夜なエロい事ばっかしてっから、取り憑かれたんだべよ」
「ど、どす……?」
呆気にとられる坂本に、笠間は強く頷いた。
「鼻の下を伸ばしてる場合じゃねぇべ。こいつは厄介でよぉ。アンタをとてつもねぇ快楽に沈めて、生気を吸い取っちまおうっていう、恐ろしい亡霊なんだべ」
「とてつもない快楽……!?」
坂本はソワソワした。不思議なほどに、全身に血液が駆け巡り、久しぶりに頭もクリアになった。
「さてと、アタシも準備しねぇと。久々に大口の客だぁ。しこたま稼げんべよぉ」
「あの、お婆さん。ちょっと手持ちの金が少なくってですね。ATMに行ってきて良いですか?」
「構わねぇけどよ、早く戻れ? 言っとくけど、かなり危ねぇとこまで来てんぞ?」
「わかってます、わかってますとも」
坂本はバッグを抱えては部屋を飛び出した。そして階段を駆け下り、大通りに出て最寄り駅まで。
そして小一時間ほどかけて、彼は賃貸の自室まで帰ってきた。
「ドスケベ女の霊って、どんな感じかな……へへっ」
念の為に替えのジャージと下着を用意した。深い意味は無いが、ボックスティッシュも新品のものを空けた。のどごしの良い麦茶。防音は――段ボール箱を潰して立てかけるくらいしか、対処法がなかった。
「さぁ、頼むぞ。こちとら童の貞操なんだからさ。せめて夢の中くらいは良い思いを」
ギンギンで眠れない――まるで修学旅行の前夜だ。羊を数えてみる。それが4桁に差し掛かった頃、さすがの彼も眠りについた。すでに夜明け前で、微かな朝日が差し込んできたが、深い眠りに落ちていった。
(あぁ、どこだ。どこにいるんだいドスケベさん!)
暗い海の中をさまようと、不意に頬に触れるものがあった。やわらかな手触り。そちらに手を伸ばすと、滑らかな肌に触れた。とたんに熱い鼻息が吹き出てきた。
(ひ、ひひっ。それじゃあ早速……!)
坂本は乱暴にシャツを脱ぎ捨て、紙パンツに手をかけた。しかし慌ただしい坂本のあごに、白く華奢な指先がそっと触れた。
「今日はもうダメ。朝になっちゃうから」
それは少し悪戯っぽい響きの口調だった。坂本は声を荒げた。
「そんなぁ! すっごく楽しみだったのにお預けなんて!」
「そう……そこまで言うなら」白い手のひらが、坂本の頬をそっと撫でた。「このままずぅっと一緒にいる? そしたら時間なんて関係なくなるから」
「はいモチロンです」坂本はためらわなかった。
「嬉しい……じゃあおいで」
その言葉とともに、闇の中で白い腕が伸ばされた。坂本はすかさず飛び込んだ。頬に触れる豊かな双房――弾むようであり、飲み込むようであり、彼にとって未知なる感覚だった。そこには不眠の疲労も上司の叱責もない、興味本位の噂話もない、ただ脳髄を貫くような快感だけがある。
「あぁぁ気持ち良いなぁぁぁ」
それが坂本の最期の言葉だった。あとは言葉にならない嬌声を響かせつつ、身体の端から消えていった。さながら沼に飲まれるようにして、女の裸体の中へ消えていく。
そして姿形がすっかり消えた時、女が満足気に呟いた。
「ふぅ、ごちそうさま。悪くない味だったよ」
女は白い裸体を火の玉に変えると、浮遊していった。
そうして漆黒の闇を抜けると、ワンルームの部屋に現れた。火の玉は、身動ぎしなくなった坂本の身体の付近をさまよい、やがて音もなく消えた。
その日の晩。またもや都内に現れた火の玉は、街の宙空をさまよった。そして何かに引き寄せられるかのように降下していく。その先はとある一室で、若い男が画面に見とれているところだった。
火の玉は、人知れず男の耳の中へ潜り込んだ。こうして新たな犠牲者が生まれては消えていくのである。
〜完〜