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10、パンツとサーカスのために生きる

【1】

 ピンチはチャンスと評する事は多々あるが、大抵は危機的要素の方が色濃いことは――周知の事実である。


 40過ぎの那珂島達也なかじまたつやが営業部長として大抜擢を受けたことはチャンスだと言えた。旧態然とした老舗の会社としては異例も異例、大胆な人事だとベテランは囁きあった。


 問題はその営業部が崩壊寸前にある事だった。エース級が1人2人と辞めたところで、人材流出は雪崩のようになり、必要人員の最低ラインを割り込む寸前だった。


 そんな中で那珂島が真っ先に手を付けたこと――それは飲み会だった。


 無礼講の酒盛りなら人も集まると開催したものの、初回から暗礁に乗り上げた。参加者がたったの1名だけ。残りの8名はやんわり拒絶を示した。


「まったく、最近の若い奴らは!」


 カウンターにジョッキを叩きつけながら那珂島は怒鳴った。よそグループの何人かが彼を凝視したが、ここは夜半の居酒屋だ。どんな怒声も酒まみれの馬鹿騒ぎに飲み込まれて消えた。


「全然来ませんね。僕もキャンセル枠にしときゃ良かったです」


 那珂島の隣で、四年目社員の大野がウーロン茶をチビチビ飲んだ。


「どうにかスケジュール調整して親睦の場を設けてやったのに……何がワークライフバランスだ多様性だ! クソ食らえだ!」


「やめてもらえます? 物食ってる時に汚い言葉は」


 大野がお通しの花らっきょうを摘んでは、皿に戻した。隣の那珂島は止まらない。


「とにかくな、ゆとりも悟りもZ世代どもにも愛社精神ってもんが足りてない。朝から晩まで会社に尽くし、土日もたゆまず研鑽を重ね、目標以上の成果を叩き出す。それこそがビジネスマンのあるべき姿だろ! 違うか!」


「愛社精神かはわからないですけど、みんなそれなりに会社を気に入ってますよ」


「だったら何で飲みに来ない!」


「嫌われてるのは会社じゃなくてアナタですよ、那珂島部長」


 あまりの言葉に那珂島は口の中のビールを吹いた。毒霧のごとく吹き付けられたそれは、隣の客にも被害をもたらしてしまい、陳謝する羽目になった。


 大野が差し出したおしぼりを、那珂島はむしり取るように手にした。


「お前が変な冗談を言うから、こんな事になっただろ。ふざけんなよ」


「いや、割と本気ですけど。那珂島部長は結構嫌われてます」


「ダメ押しすんな! だったら根拠を言ってみろよ、どうなんだ!?」


「例えばお隣の営業二課の課長さん、たまに釣りに行くんですけど、新卒もちらほら行ってますよ。河原でバーベキューやったり、地ビールごちそうしてもらったり」


「釣りだぁ? そんなもん金にならないだろうが。数匹釣ったところで業績に関係ない」


「あとはサッカーサークルも活気ありますよね。週末に練習したり、よその会社と交流試合したり」


「素人の球蹴りなんて、1円にもならねぇ! バカと暇人の集まりかよ。そんな時間あったらマーケティングのセミナーでも受けてこいや!」


「リフレッシュできますし、社内の繋がりも強化されますよね。特に交流試合なんて人脈の広がりも――」


「くだらねぇ。無能どもは何かと理由をつけて遊びだす。働くからには出家したつもりで働き続けろよ」


 那珂島は鼻で嗤ったかと思えば、残り少ないビールを一気に呷った。

 

「じゃあ那珂島部長、あなたの飲み会では何が得られますか」


「そりゃお前、営業の秘訣とか社会人の心構えを教えてやるよ。最短で成果を出す秘訣とか知りたいだろ?」


「などと言いつつも基本は愚痴ですよね。これまで何度も見てますけど」


「だから、そういう何気ない言葉の中にある金言を学ぶのが、お前ら若造の役割なんだよ。仕事は見て聞いて、怒鳴られながら覚えろってことだ」


「しかも飲み代は自腹ですよね。奢りじゃなくて」


「自分の飯代くらい自分で払え。奢りとかナメてんのか」


「集まると思います? なんで金払ってまで上司の愚痴に付き合わなきゃならないんです?」


「だからそれは! お前ら若造が背負う義務であって、そういう役割が――」


 大野が両手のひらを突き出して、セリフをさえぎった。


「わかりました、わかりました。まぁ次回があるかは不明ですが、居酒屋の予約はご自分でお願いしますよ」


「ハァ!? そんな雑用は下っ端のお前が――」


「だって誰も来ないじゃないですか。僕も次回は遠慮しますので、実質、部長の飲み歩きですよね」


「こいつ……さっきからオレに失礼なことばかり……!」


「無礼講ですよね? 嘘なんですか?」


 那珂島は呻いた。腹の奥底で暴れる憤激にまかせて「クビだ」と怒鳴りつけたい。しかし今の営業部の惨劇を思えばできない相談だった。特に大野は稼ぎ頭の1人で、彼を手放したなら人事部にコッテリ絞られることは明々白々だ。


 その思惑は大野に完全に見透かされていた。場に衣着せぬセリフも、そこから来ていた。


「とにかくね、もう時代が違うんです。仕事ばかりしてないで、趣味の1つも見つけたらどうです

か」大野はカバンを持って席を立った。


「どこへ行く」


「ジムでピラティスを予約してるんで。一時間も付き合ったんだし、十分ですよね?」


 大野はコートに袖を通しながら言った。そして二千円ほど卓上に置くと、一足先に店から出ていった。


 こうして1人残された那珂島は、ブツブツと独り言を撒き散らしながら、飲み会もとい一人酒に溺れていった。普段よりもハイペースに飲み進めたのだが、酔いの感覚は遠かった。



【2】

 地下鉄が酔客や疲れ顔のビジネスマンを乗せて、暗闇の中を走る。端の席にありついた那珂島は、こっそり右肩を壁にもたれつつ、背筋を伸ばした。正面の席には両足を投げ出して眠る赤ら顔の――同世代らしき男の寝姿が見えた。


(ああはなるまい、どこに人の目があるか分からないのに)


 那珂島は気持ちを戒めつつ、窓の外に目をやった。鬱屈としたコンクリート壁ばかりが続く。これが山手線や埼京線であったなら、夜景に慰められる所だが。


(嫌われてるのは那珂島さんですよ)


 思い出しては奥歯をギリリと噛んだ。若造が知っ様な口を――。腹の奥底で何かが燃えたぎる。普段より酒を過ごしたのだが、蓄積されたアルコールも彼の怒りを和らげるに至らず、むしろ助長するようだった。


「何が釣りだ、球蹴りだ。そんなもの人生の浪費で、蛇足もいいところだろ」


 良い学校に入り優秀な成績を収め、有名な会社に入る。そして仕事に良く励み良い妻を娶ればあとは順風満帆で、良い子供に恵まれ満足な年金がもらえて良い老人ホームに入ることが出来る。


 そう教えられて育った那珂島にとって、一応は順調に生きてきた。今は『仕事に励む』フェーズであり、妻子に恵まれてはいないものの、絵図通りの人生だった。


 比較的運にも恵まれた、割と裕福な暮らし――たまに不思議と虚しくなるが、それも発作のようなものだ。普段は思い悩むこともないので、人生とはそういうものだと割り切っていた。


(趣味の1つも覚えたらどうですか)


 またもや言葉が脳裏をよぎり、舌打ちを鳴らした。うるさい若造。オレには研鑽というまっとうなライフワークがあるんだ、口出しするな。そんな苛立ちとともにスマホを取り出しイヤホンを耳にさした。


 降車駅まであと20分弱。短いセミナーならば視聴できるとして、アプリ内のアーカイブを探った。アカデミックなサムネイル群をスクロールさせていく――すると指先がわずかに広告に触れた。短い暗転を挟んでから、別サイトへと飛ばされてしまった。


「チッ。面倒くさい……なっ!?」


 とたんに画面は色鮮やかになり、度肝を抜かれた。赤に黄色にピンクに光るのはサイリウムで、暗い客席を無限に埋め尽くす。極彩色の光の中心には、艶やかな衣装を身にまとう少女があった。彼女は画面越しに笑顔を振りまいた。


『みんな〜〜リアンの3周年ライブに来てくれてありがとう! 愛してるよ〜〜!』


 鈴の鳴るような声が響くと、画面の端では無数とも言えるコメントが下から上に流れて消える。那珂島は意図せずバーチャルアイドルのライブへと飛ばされていたのだ。


「くっだらん。何がそんなに楽しいのか。暇人どもめ」


 那珂島は広告のバツ印を探して、指先をさまわよせた――が、それはビタリと止まる。イヤホンごしに聴いた歌声、アカペラの演出による透き通る響きに、側頭部を殴られた気分になった。彼は音楽に詳しくない、いやむしろ蔑んできた側の人間だ。彼の半生で、一度として音曲に耳を貸すことなく生きてきた。


 それがなぜか今だけは、抗うことができずにいた。セミナーのアーカイブを観る。それは覚えているし、今も表層意識が警鐘を鳴らす――時間を無駄にするな――と。しかしだ、指先は、彼の肉体は真っ向から抗って動かない。


 広告が終わるまで、あと1フレーズ聴き終わったら。そうしてグズグズする間に一曲は終わった。


『みんな、今日はベストアルバムの発売記念だから、いっぱい歌っちゃうね〜〜! 次はデビュー曲の【ケツを蹴り上げろ】いっくよ〜〜!』


 長尺の広告はまだ終わらない。この頃には那珂島も、さすがにそろそろ移動するかと気を取り直した。気の迷い、酒と疲れが視聴させただけ。早い所離脱しようと考えた矢先――それは起きた。


 画面越しのアイドルアバターが勢いよくターンを決めた。すると短いスカートがひるがえり、その中の布を一瞬だけ顕にした。


「なっ……!?」


 那珂島は車内である事も忘れて、短く叫んでしまった。薄ピンク色で華やかなレース、それと光沢。そのコンマ秒の光景が、四十男の心を強く深く貫いた。


 それからというものの、意識を刈り取られたようになり、動けなくなった。さながら廃人。口を半開きにして、椅子から尻がズルリと落ちていき、両足を通路に投げ出してしまう。


 やがて那珂島を乗せた電車は降車駅に着き、発車し、いつしか終点まで進んだ。那珂島は駅員に促されたことでようやく我に返り、最果ての駅で下車した。今度は上りの電車に乗り換えねばならない。とてつもない無駄、時間の浪費の極みなのだが、那珂島の顔に後悔の念はない。


「リアン……Vアイドルのリアン……」


 うわ言のように同じ言葉を繰り返しつつ、電車を待った。同時に、取り憑かれたようにWeb検索を繰り返すのだった。


 

【3】

 那珂島が管理する営業部は活気にあふれていた。頻繁に誰かしらが外を回り、あるいは戻り、腰を落ち着ける間もなくお得意先に電話攻勢。特に中堅クラス――例えば大野などは――椅子を温める暇すらなく、社内や社外の人間と頻繁にやりとりを重ねていた。


 そんな中で「お誕生日席」にドシリと座る那珂島。基本的に外を回る必要のない彼は、地蔵のように席から動かなかった。社内文書の確認、押印、オンラインの幹部会ミーティングに参加するばかりで、取引先とコンタクトを取るのは稀だった。


「みんなは、出払った……よな?」


 昼休憩にもなると、部署内が無人になることもある。すると袖机をコッソリ引いては中をまさぐった。隠しておいた人形の胸元をそっと押し込む。すると職場には不釣り合いな愛嬌あふれる声がした。


『今日もリアンと一緒に頑張ろうよ。ケツを蹴り上げろ!』


 那珂島はニチャアと笑った。


 あの日を境に彼はVアイドルのリリアンナに夢中だった。賃貸アパートの一室は買い揃えたグッズで埋まり、さらに整然と整えられ、いわゆる『祭壇』をリビングの一角に生み出していた。それだけでは飽き足らず、袖机までも侵食し始めており、人形に缶バッジにアクリル板までもが詰め込まれていた。


 会社に持ち込んだ人形はスカートが縫い付けられているタイプで、そこで最低ラインを守っている――と言えなくもない。


(今夜は毎週恒例の生配信か。是が非でも自宅で観ないと……!)


 仕事中も頻繁にリリアンナの事ばかり思い浮かべており、彼の仕事ぶりは日を追うごとに鈍っていった。


 だがそれも悪いことばかりではない。


「あの、那珂島部長すみません。報告書の申請期限を過ぎてしまい、その、手が回っておらず……」入社2年目の部下が、今にも泣き出しそうになりながら言った。


 同時にフロアはざわめきだした。「やべぇ、こりゃ説教コースだ」「長いんだよな、部長のあれ」などと戦慄に暗い好奇心をまぜあわせた空気が、静かに広がっていった。


 すると那珂島は、やや虚ろな瞳で言った。


「ふぅん。まぁ別に死なんし、次からよろ〜〜」


「えっ!?」


 恐れていた雷は落ちなかった。それどころか、妙に気安い返答だった。


 完全に虚を突かれた部下は、目を白黒させた。フロアも水を打ったように静まり返る。そこでようやく那珂島は不手際に気づき、聞えよがしな咳払いをひとつ。


「気をつけろよ。ちょっとしたミスが大問題になることはザラだ、全方位に気を抜くな」


「はい、申し訳ありませんでした!」


 女社員は勢いよく頭を下げ、自席に戻っていった。同時に他の同僚たちもヒソヒソと噂しあった。誰もが「何今の!?」と、衝撃の凄まじさを隠そうとしない。


 ちょうどその時、電話中の社員が声を高くした。顔を紅潮させてまで立ち上がった大野だ。


「ありがとうございます! では本日の夕方に伺います!」


 電話を切るなり、高らかに叫んだ。「五億超えの受注取れました!」


 そのセリフは、那珂島の異変を吹き飛ばすほどのグッドニュースだった。居合わせた全員が驚きとともに万雷の拍手で応えた。業績不振を一挙に解決できる案件とあって、とたんにお祭り騒ぎのようになる。


 ひとしきり称賛を浴びた大野は、那珂島のもとへ歩み寄った。悠々と、誇らしげで、凱旋でもするかのように。


「部長。今日の夜はあいてますか?」


「今日……?」那珂島は顔をしかめた。


「これから本契約を交わしに行くのですが、同席いただけます? 6時のアポです」


「6時はなぁ……」那珂島が眉間のシワを深くする。「ちょっと別件がなぁ」


「五億の案件より大事な用事ってなんです? 新規開拓とか?」


「いや、まぁ新規じゃない。ルート的なアレで」


 目を泳がせる那珂島を前に、大野はため息をついた。

 

「わかりました。まぁ1人でもなんとかなるんで、大丈夫です」


「くれぐれも失礼のないようにな、頼むぞ」


「もちろん」


 大野は自席に戻ると、忙しなく書類を用意して、駆け出していった。


「無理な相談だよ大野。だって配信あるし」


 その数時間後――7時を迎えた今、那珂島は完全装備フルアーマーで自宅パソコンの前に正座した。鉢巻にハッピ、特製団扇、デオドラントシートで脂ぎった顔も拭いた。画面越しのリリアンナから見られる道理はないのだが、そういう問題ではなく、心意気の領分だった。


『みんな〜〜! 今日も来てくれてありがとう! リアン、すっごく幸せ〜〜!』


「待ってたよリアンちゃ〜〜ん!!」


 モニター越しに那珂島は吠えた。このリリアンナというVアイドルを知れば知るほど深みにハマっていった。


 那珂島を驚かせたのはキャラ設定だ。リリアンナはきらびやか魔法少女のような装いで、愛くるしい愛想を振りまくのだが、混迷期の東欧生まれと発信していた。そして幼くして家族から引き離され、戦場を渡り歩くうちに殺人術をマスター。今は争乱をもたらした武装組織や政治集団に対して反旗を翻している――というテーマを掲げている。


 もちろん架空の事件や団体だ。それでも愛嬌からかけ離れた設定が絶妙なスパイスとなり、那珂島を沼に引きずり込むのだ。


『グッズもたくさん売れて、リアン助かっちゃう! おかげで滅殺魔術団本部も潤ったから、銭ゲバの豚どもをブッ殺せる日も近づいてきたよ〜〜!』


「豚どもをブチ殺せーー!!」


 彼の住まうアパートに防音機能はない。叫び声は外にも隣室にも筒抜けだ。だがそれが何だというのか。何に憚るでもなく、短いひとときを満喫するのだった。


 そして翌日。那珂島は浮ついた足取りのまま出社した。心にあるのは昨晩のステージだけだった。


「いやいや、やっぱリリアンナちゃんはすごいよ。今に世界のてっぺんを取るんじゃないかなウヘヘ」


 夢見心地のままで部署の扉を押し開ける。すると妙な騒がしさに夢から覚めた。いつもとは様子が異なり、何か緊迫したものを漂わせた。実際、営業だけでなく、製造や人事の人間がひっきりなしに出入りしていた。


 そんな中で顔面蒼白の社員――大野が駆け寄ってきた。


「申し訳ありません! 僕の不注意で、商談が流れかけてます!」


 あまりに唐突な全力謝罪に、那珂島は呆気にとられた。勢いよく下げられた頭をボンヤリ見ては「そうだ、オレは会社の業績を建て直すんだっけか」と、ようやく思い出した。


 

【4】

 那珂島は電車に揺られながら大野の話に耳を傾けた。曰く、相手の責任者を怒らせてしまったようだと。商談でお互いに勘違いがあり、それだけでも致命的なのだが、トドメに単価の誤記入までやらかしてしまう。


 話が違うし契約書も間違っている――これで怒らないほうが珍しいかも知れない。


 だからこうして那珂島は、責任者として、大野とともに先方まで頭を下げに行くことにした。

 

「だからいつも言ってるだろ、全方位に気を抜くなって。何に足元をすくわれるか分からないんだぞ」


「返す言葉もありません……」大野は病人のような顔色になっていた。そのくせ瞳はギョロリと剥いており、それが凶相をさらに暗くする。


「あぁ、僕のせいで商談が潰れたら……五億の定期契約が……!」


 車内で身悶える肩を、那珂島はそっと叩いた。


「別に殺されるわけじゃない。どうあっても命は残るんだ。そう考えれば楽になる」


 生きてるだけで儲け物とは、リリアンナの口癖だった。もちろん引用元は明かさないでおく。


「部長……すごく肝が座ってますね。さすがベテラン」


「オレだって怒られるのは嫌だって」


 涙ぐむ大野の顔から、那珂島は目を逸らした。そして自分のジャケットのポケットにそっと指を伸ばした。そこにはリリアンナ人形を忍ばせており、布地に触れるだけで勇気が込み上げてくるようだった。


(別に殺されはしない。だが失注すれば冬のボーナスは出ないだろう。どうにかして契約させないと……!)


 那珂島としては金が欲しい。推し活を愉しむだけの蓄えはあるものの、欲しいものはいくらでもあった。特に1分の1サイズの滑らか品質フィギュアなどは、高級外車に匹敵する額面であり、容易に手が出せていない。


 ボーナスや給料カットで夢のフィギュアが遠のく。那珂島は拳を硬く握りしめ、覚悟を新たにした。彼も営業の鬼と呼ばれた男だ。経験則がこの窮地を救うだろうと、楽観する面もあった。


 しかしその経験則が、むしろ士気を削ぐことになってしまった。


「わざわざ頭を下げに来たのかね。そんな事をされても困るんだが」


 立派な応接室。そこの黒革ソファに座る老齢の男は、妙に冷静だった。怒りも苛立ちも見せず、白い口ひげに覆われた顔には表情と呼べるものがない。ただ明確な拒絶だけがある。


 名刺を取り交わして、相手が「真島」という人物であることを確認した。大野から事前に聞いていた責任者と同一人物だった。


(これは何と言うが、手強そうだな……)


 那珂島は直感する。冷静な相手は論理的に対話できるものの、感情の在り処が分からないので、難敵だった。例えば激情をさらすタイプであれば、その心に寄り添い、徐々に打ち解けることも可能だ。少なくとも話を聞いてくれるまでにはなる。


 これでは勘所が掴めない――苦しい戦いになることを予想させた。さらに同席する大野は完全に気圧されてしまい、まともに口がきけなかった。それも痛い。


 それでも那珂島は腹を決める。ここでやらねばならぬと――等身大フィギュアのために。


「まずは、弊社の大野が多大なるご迷惑をおかけしたこと、深くお詫び申し上げます」


 陳謝の後、那珂島は丁寧に説明した。納期に関して認識の齟齬があったこと、そして契約書の不備は単なるケアレスミスであること。内容をもう少し詰めることで、どうにか契約いただきたい――と。


 しかし相手の反応は芳しくない。彼にすれば一度「裏切られた」という感覚がある。どんなに言葉を尽くしたところで、失った信用を取り戻すことは容易でなかった。


「悪いが、次があるんでね。お引き取り願おう」


 真島が緩やかに立ち上がろうとした。とっさに那珂島も腰を浮かしかけた。


「お待ち下さい。あと5分だけでも――」


 その時だ。彼のジャケットがテーブルの端に強く押し付けられた。するとポケットの中から、場違いなほど明るく、そして艶やかな声が響いた。


『今日もリアンと一緒に頑張ろうよ。ケツを蹴り上げろ!』


 それは静かなる応接室の隅々まで届いた。隣の大野、驚愕に目を見開いて、次第に全身が震えだす。まるで絶望の縁に転げ落ちたような顔をしていた。


 そして正面の真島は――静かに口を開いた。


「今のは?」


 那珂島は思う。終わった――いや死んだわ社会的に。帰社したら真っ先に辞表を書こう、そして安アパートに引っ越そう、狭くなってもリアン祭壇が維持できればいいや。


 そこまでをコンマ秒で考えたところで、那珂島は、真正面から相手を見据えた。



【5】

 代々木の裏路地に居酒屋が佇んでいた。数席のテーブルにカウンターがあるだけの、こじんまりした店構え。そのカウンターの端に、2人の男が酒を酌み交わしていた。


「まずは、契約に応じていただき、まことにありがたく――」


 お酌をしながら畏まるのは那珂島だ。それを苦笑して受けたのは真島のシワだらけの手だった。


「堅苦しい話はもう良いじゃないか。それよりもだよ」


 そう促すと、那珂島はニヤリと嗤った。

 

「いや本当にね。最高なんですよリアンちゃんって。まさかこの歳になってハマるなんて思いもよらず」


「そうかね。それにしても、あんな場面でファンに出くわすだなんて。世界は広いようで狭いものだ」


「僕としては光栄の極みです。まさかリアンちゃんのデザインを務めたイラストレーターさんのお父上だなんて」


「ハハッ。娘は界隈では有名人らしいがね、私からしたら跳ねっ返りのジャジャ馬だよ」


 その時、引き戸がガラリと開いて、新たな客が入ってきた。その男は那珂島の姿を見つけるなり、会釈をした。


 それから歩み寄るのだが、真島も同席していると分かると、深く頭をさげた。


「お二方、こんな所でどうしたんです?」


「お前こそどうしたんだよ、大野」


「今日は給料日じゃないですか。だから散歩がてらウロついて、晩飯でもと思って」


「おし、そういう事ならここ座れ。今から為になる話を教えてやる」


「またそういうのですか? 成果を出す秘訣とか根性論とか。できれば別の機会に――」


 大野はそっと視線を伏せた。あの日、巨大案件が流れかけた事が、心に暗い影を落としている。結局はどうにかして成約に至ったのだが、彼のトラウマとなるには十分すぎた。


 だがそんな機微など那珂島は取り合わない。


「みろよこの子。リリアンナって子なんだが。いやそもそもVアイドル知ってる?」


「Vアイドルくらい聞いたことある……って、ええーー!? 那珂島さん、やっぱりガチの人??」


「ガチもガチ、もうライフワークだよ。良いから座れって」


「合点がいきましたよ。あの時、なんで都合よく人形なんて持ってるのかって……」


 大野を座らせては、スマホを片手に布教を開始した。それはリリアンナのコンセプトに始まり、切り抜き動画やライブのハイライトまで全てを、那珂島は熱意を込めて語り続けた。


 すると大野がきょとん顔で呟いた。


「マジで変わりましたよね、那珂島さん」


「そうか? あんま自覚ないが」


「少なくとも楽しそうですよ。前は何と言うか、眉間にシワを寄せてて、近寄りがたい感じでした」


「そうかな? そうかも。それよりこれだよ見て見て〜〜。伝説のライブがあってさ〜〜」


 なおも語り続ける那珂島の隣で、今度は真島が口を開いた。


「那珂島君。もし良かったら娘に会ってみないかね?」


 とたんに那珂島はビールを盛大に吹いた。盛大に濡れるカウンター。すかさず大野がおしぼりを手渡したので「助かる」と言っては辺りを拭いた。


 そしてひと心地ついてから、那珂島は尋ねた。


「あの、娘さんとは、もしかしてですが――」


 声は裏返っていた。


「もしかしても何も、君が大層気に入っているアイドルを手掛けた、私の娘だよ」


「ま、ま、マジョリーナ先生に会わせていただけるんですか!?」


「そう大げさになられてもなぁ。四十路手前で、結婚どころか浮いた話の1つもない、不出来な娘なんだが」


「とんでもない! 先生は素晴らしいお方で、他作品ももちろん押さえてます。いやいやどうして素晴らしい仕事ぶりでして! あ、もちろん僕のような素人が評価するだなんておこがましい事山河のごとしですが!」


「ははは。そこまで言ってくれるなら。娘に聞いてみるよ、面白い男がいるとね」


 那珂島は静かに、徐々に、そして大きく震えた。視界を涙でにじませて、その場で拳を強く握りしめた。そして騒ぎにならないギリギリの声量で「やった、やった」と繰り返した。


 こうして、四十路男の人生は大きく変わっていった。この先どのように歩むかは定かでない。だが、彼が今後は「人生の浪費」などとのたまう事は無いだろう。そして毎晩のようにサイリウムを握りしめては、モニターと向き合うのだ。



〜終〜

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