1、自転車のない友だち
真夏の日差しが照りつける中、僕達は自転車を立ち漕ぎした。「隣町の沢へ行こう」と誰かが言い出して、ろくな計画もなく網や虫かごを手に取り、そして炎天下に飛び出した。
照り返しのアスファルトは鉄板のようだ。空模様は快晴そのもので、気温計がグングンと記録を伸ばしていく。救いとなる日陰や積乱雲は、どこにも見当たらなかった。
「おい、早くしろよ!」
先頭で怒鳴るのは今井君だ。彼の自転車はギアつきの、しかも電動アシストまで備わっている。もちろん上り坂を誰よりも早く突破しては、坂の上で見下ろしてくる。そこへ1人、2人と追いつくのを、僕は最後尾から眺めていた。
「ごめん、待ってて!」と叫んではペダルをこぐ。坂道で苦戦する僕はみんなのお荷物――いや、下には下がいるものだった。
「はぁ、はぁ、待って……!」
息せきながら追いかけてくるのは、間々田君だ。彼だけは自転車がなく、全身を汗だくになりながらも走り続けた。
しかし今井君は容赦がなかった。
「走れ間々田! 置いてくぞ!」
そういって、両隣の2人とともに笑った。何が面白いのか分からず、とにかくペダルに力を込めた。
ようやく辿り着いた沢は、木陰が多く、まるでパラダイスのようだった。水に触れてみると冷たい――とはならず、ぬるま湯に近かった。
それでもアスファルトに比べたら雲泥の差で、数カ月先の未来に包まれた気分になった。
「おい間々田。お前にやるよ」
今井君が、釣ったばかりのザリガニを、虫かごごと手渡した。優しい所もあるんだなという評価は、すぐに覆る。
「お前んち貧乏じゃん。晩飯に食えよ」
そう言ってはまた、さっきの3人が笑い出す。腹を抱えて、手を鳴らしてと、思い思いに。だが不思議と今井君だけは、笑う素振りを見せつつも僕の様子を窺っていた。その目はまったく笑ってなどいない。
(やばい、空気を読まなきゃ……)
僕はとっさに、ひきつり笑いを浮かべた。ヒッヒッと情けない声をあげていると、今井君は興味を無くしたように横を向いた。僕の背中に変な汗が流れていった。
「陽も暮れたし、帰るか」
いつものように今井君が先頭をきって、残りの皆が続く。「暑いし早く帰ろうぜ」と声を響かせた今井君は、一度も後ろを振り返らなかった。
僕は何となく振り向く――でも、手元の虫かごで水が揺さぶられる様を見て、顔を前に戻した。なぜか彼の顔を直視することが出来なかったのだ。
――頑張れ、間々田君。
ありふれたエールすら言えなかった。そんな自分はすごく薄情なんじゃないかと、何日も頭を悩ませた。そんな感傷も、宿題の追い込みをかけているうちに、いつの間にか忘れてしまった。
それが小学生最後の夏休みの、最後の思い出になった。9月。まだまだ日差しは強いのに、二学期は始まった。通学班の皆は首に冷えた輪っかをブラ下げていたけど、焼け石に水としか思えない。ジリジリと背中が焼けるのを感じながら、目新しくもない学校に通った。
短い始業式が終わり、さて帰るかというところで今井君に呼び出された。「ちょっと校舎裏に来い」僕は足を震えさせながら、呼び出しに応じた。なにか気に障ることをしたのかな――特に心当たりはない。
「おう来たか。ちょっとここ座れ」
今井君はいつもの2人に挟まれながら、手をあげた。声の響きを聞いて、僕は少しだけホッとする。今日の話題は僕についてではなく――それ自体には安心したけども――素直に喜べないものだった。
「間々田のやつ、ウザいよな」
今井君が切り出すと、両隣の2人も頷く。「あいつチャリ持ってねぇし。いつもダラダラ走って追いかけてくんの」「待ってる方はマジでダルいよな。タイパ最悪だって」
間々田君は自転車を持っていない。そのうち買ってもらえるという話があってから、もう1年以上経っている。この先も彼は、当面の間は駆け足でついてくるだろう。
間々田君をグループから追い出すことが決まった。
それは追放という名のイジメだった。遊びに誘わないのはもちろん、体育やレクリエーションの班分けには絶対に入れなかったし、給食の時もわざわざ机を大きく離したりした。そして所在なさげに彷徨う間々田君を、聞こえよがしに笑ったりする。
僕も引きつり笑いを浮かべるしかなかった。目をつけられないための処世術だと割り切りつつ。
やがて季節が秋に差し掛かった頃、間々田君との繋がりは完全に途絶えていた。家が近いので、彼の姿はよく見かけた。道路向かいを1人で歩いたり、日暮れの公園でやはり1人きりでボール遊びする光景を、たびたび目撃した。
それでも僕は一度も声をかけなかった。今井君の目が光っているような気がして。
「僕は薄情だ。そして卑怯だ……」
もしこの世に神様がいたならば――。僕は天国へ行けないだろう。血の池地獄とか、そんな所に落とされては、延々と叱られるんだ。「お前はとんでもない奴だ」と罵られながら、何度も謝ることになる。そんな事をたびたび考えたりした。
神様は間々田君を救わなかった。彼はいつも1人だ。しかし天罰は落ちた。それは薄情で卑怯者の僕に対して。
「この前の模試の結果を返しますね」
担任の先生が一人ひとり評価シートを手渡していく。それが僕の版になって、拍手が加えられた。
「よく頑張りましたね、理科で県内100位の好成績ですよ! 他の科目もよく出来てますし、中学受験もバッチリですね!」
受け取る時、つい照れ笑いを浮かべてしまったが、それも長くは持たない。背中を刺すような視線。今井君が僕のことを、目を大きく見開いて凝視していた。
「今井君はどうだった?」だなんて聞ける空気ではない。それどころかこの日を境に、僕は彼らと口をきいてもらえなくなった。
標的が僕に切り替わったのだ。それは無視に始まり、班分けから弾かれただけじゃない。荷物がよくなくなった。給食袋や名札、上履き。宿題を隠された時なんて悔しくてたまらなかった。
「せっかく模試はよく出来たのに。少し浮かれ過ぎなんじゃないですか」
先生が叱ると、クラス中で笑いが起きた。その中で今井君が、声の判別がつくほど大きく笑った。
その日は真っ直ぐ家に帰れなかった。寂れた裏路地の公園で、1人、ブランコに揺さぶられていた。
「神様はやっぱりいるよね。僕の罪は、許されるものじゃなかったんだ……」
日が暮れて、空が暗くなる。塾に行く時間を過ぎても、僕はブランコから離れられずにいた。このままで良いや――そんな言葉ばかり思い浮かべていた。
すると、遠くから足音が聞こえた。タッタッタと軽快なものが、公園に入り、そして止まる。うつむいた視線の先に、汚れたスニーカーと、裾の擦り切れたジャージが見えた。
「どうしたの、1人きりで?」
その声に、僕は弾かれたように顔を持ち上げた。するとそこには、心配そうに顔を覗き込む間々田君の姿があった。
僕は電流でも浴びたように動けず、口もきけない。胸の奥からは無数の言葉が溢れて止まらなくなる。ごめんなさい――一番伝えたい気持ちは、百万の言葉に遮られて、喉の奥でつっかえてしまう。
「ま、間々田君……僕は、ごめん。ずっと謝りたくて、でもどうしても、怖くって……!」
あとは泣き声に邪魔された。涙があふれて止められない。目も鼻もめっきり汚くなり、泣きわめくだけだった。
そんな僕に、間々田君は静かに寄り添ってくれた。隣のブランコに腰掛けては「最近はよく走ってるんだ、なんか楽しくって」と、他愛もない話をたくさん教えてくれた。
その日から僕は1人ではなくなった。残り短い授業も放課後も、卒業式も、いつだって間々田君がいた。中学は別になったけど、その代わり彼と同じく陸上部に入部した。お遊び程度の僕とは違い、間々田君はメキメキと頭角を現していく。
「すごいなぁ。代表選手に選ばれたって本当?」週末に間々田君と遊んでは、だいたいが部活の話になった。
「別に、そんな大層な話じゃないよ。大勢の中の1人だし。自慢できるレベルまで達してない」
「そうかなぁ。間々田君なら、いつか有名選手になれると思うよ」
「アハハ。まぁね、小学校の頃から走りまくってたし」
間々田君は今井君の事を悪く言わなかった。むしろ「あのころに鍛えてくれて良かった」などと爽やかに笑うのを見ると、僕も胸が温まる思いだった。
そして中学が終わり、高校に。僕は県下の進学校にギリギリ入学を果たした。間々田君も同じ高校だが、彼はもはや有名人だった。いわゆるスポーツ特待生であったからだ。
そして迎えた高2の夏。僕は陸上競技場に招待された。国体行きを賭けた、大事な大事な大会だった。
「ずごいよ間々田君は。ここまで頑張ったんだろうなぁ」
観客席から見る間々田君は、実に立派な身体をしていた。筋肉質で、日に焼けた姿は、きっと誰よりも早く走るに違いない――そう予感させた。
もうじき間々田君の番だ。トラックの方を眺めながら、今か今かと待ち焦がれる。するとその時、視界の端が気になった。しきりにコチラを見る同世代の男子たち。
「えっ。もしかして、今井君?」
その言葉に、飛び跳ねんばかりに反応した3人、まるでコソ泥みたいだ。彼らは観念したのか、肩を落としてはコチラに歩み寄ってきた。
「久しぶりだね。君たちも応援に来たの?」
「いや、あの、今さら……」
今井君は口ごもっては、手元の布を隠そうとした。それが横断幕だと分かると、僕は思わず吹き出してしまった。
「良いと思うよ、一緒に応援しよう。間々田君は怒ってないから安心しなよ」
そう告げると同時に、間々田君の名前がスピーカー越しに紹介され、大きな拍手が響き渡った。まもなく始まる。僕は食い入るようにトラックを見た。赤いゼッケンが目印だ。
「位置について、用意――」
ピストルが鳴る。全員が低い姿勢のまま一斉に駆け出した。赤いゼッケンは、少し出遅れたかもしれない。それでも些細な事だ、そこから抜かしてしまえば良い。ゴールは800メートルも先なんだから。
一周目。中盤以降に沈んでいた赤ゼッケンは、懸命に食らいついていた。それが後半になるにつれ、伸びていく。そして最終コーナーで先頭集団に追いつき――並んだ。
「頑張れ間々田君! いけーーっ!!」
僕の声は、真夏の空に響き渡った。あの赤いゼッケンが真っ先にゴールテープを切るのだと、信じて疑わなかった。
〜完〜