風より遅く、夢より遠く
それはエンジンの鼓動というより、心臓の震えに近かった。
ヤスがまたがるのは、年式不明の古いバイク。国産の250cc単気筒。タンクにはいくつもの凹み、エンブレムは片方が欠け、シートはところどころ黒いガムテープで補修されていた。どこをどう見ても“旅”に向いたバイクじゃなかった。
それでもヤスは、そのバイクと世界を旅することに決めた。
きっかけなんて、大したものじゃなかった。
親しい人が一人、また一人といなくなり、ある日ふと、彼らが夢見ていた場所へ自分が行くべきだと思った。ただそれだけだ。自分の足で、彼らが見たかった景色を、この目で見て、耳で聞いて、皮膚で感じる。そのすべてを、忘れずに持ち帰る。
「……行ってきます」
誰もいないガレージで、小さくつぶやいた。
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最初の目的地は北海道だった。自走でフェリーに乗り、上陸したときの空気の澄みように、思わず笑ってしまった。冷たい風が、エンジンの熱と入り混じって、旅の実感が湧いた。
美瑛の丘を抜け、稚内まで北上し、礼文島の岸壁に立った。キャンプ場で出会った老夫婦が淹れてくれたコーヒーは、インスタントでも人生最高の味だった。
そしてそこから、バイクは大陸へ向かう。
ロシア、中国、モンゴル、中央アジア。パスポートのスタンプが増えていくたびに、ヤスの顔には日焼けと薄い笑いジワが刻まれていった。
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ある日、カザフスタンの平原でバイクが止まった。
エンジンは動くが、スロットルを回しても力が出ない。どうやらキャブレターに砂が詰まっていたらしい。
日も傾きかけ、周囲には何もない。スマホの電波も、とうに消えていた。
彼はリュックから工具を取り出し、エンジン下に寝転がる。キャブをばらし、詰まりを取り、また組み直す。その間、バイクの下から見える空が、オレンジから紫、そして深い藍色に変わっていく。
整備を終え、エンジンが再びかかる瞬間。
あのときの音は、ただの爆音ではなかった。
それはまるで、「まだ行けるよ」と言ってくれているようだった。
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ヤスは人と話すことが得意ではなかったが、バイクが会話のきっかけをくれた。どこに行っても、誰かが声をかけてくる。
「これ、ほんとに走るのか?」
「何年式? 日本のバイク?」
「旅してるの? どうして?」
彼は片言の英語で、時にはジェスチャーで答える。うまく伝わらないことも多かったが、それでも言葉は届いた。ときに一杯の紅茶に、ときに安宿のベッドに、そしてときに笑顔に変わって。
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イランを抜け、トルコに入ったころには、バイクはすっかり年老いていた。オイルは減り、クラッチも少し滑り気味。チェーンも伸びて、スプロケットが悲鳴を上げていた。
それでも、走るたびに愛おしさが増していった。
まるでこの旅が終わることを、バイクが拒んでいるようにすら思えた。
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そして、ヨーロッパに入る。
ギリシャ、イタリア、フランス、スペイン――
ヤスは世界の端にある岬まで辿り着いた。ポルトガルのロカ岬。ユーラシア大陸最西端の地。
海風が強く、立っているだけで涙が出るような寒さだった。
それでも彼は、そこでしばらく立ち尽くした。旅の始まりから、ここまでのすべてを思い返すように。
――ああ、来たんだ。
彼らの夢が、ここにあるなら、ちゃんと届いた。
バイクに手を当てて、静かに目を閉じた。
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その夜、キャンプ場で会ったスイス人の青年が尋ねた。
「君の旅は、これで終わり?」
ヤスは笑った。バイクに積んだ工具箱を指さして、言う。
「バイクが動くうちは、終わらないよ」
「どこまで行くつもりだ?」
「帰るまで」
そして、その帰り道こそが、本当の旅の始まりだった。
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東回りで戻るルートは、地図上ではただの線だ。けれどその線の中には、数えきれない出会いと、何度も味わった不安と、それでも手放せなかった希望が詰まっていた。
誰かに聞かれたとき、ヤスはこう答える。
「世界は広い。でも、心を開けば狭くもなるんだ。バイクひとつで、どこへだって行けるよ」
古びたエンジンが、また鼓動を刻む。
あの音はきっと、風より遅く、夢より遠く――
それでも確かに、未来へと続いている。




