虚無
「虚無……?」
リクはかすかに鼻で笑った。
「へっ、馬鹿らしい。俺たちはこの世界で最上位の存在――魔王を倒したんだ。それ以上の“化け物”なんて、あるわけがない」
カルマは表情を崩さず、静かに告げた。
「強がるな。お前の奥底では、もう気づいているはずだ。……虚無の、底知れぬ恐ろしさに」
リクは言葉を返せなかった。
隣に立ったミレイナが、不安を隠しきれぬ顔で問いかける。
「“虚無”とは……一体、何なのですか?」
カルマは小さく肩をすくめ、どこか苦笑めいた表情を見せた。
「……やれやれ。少し昔話をしよう。これは俺が実際に体験したことだ――二千年以上も前の話だがな」
「……え?」
ミレイナの瞳が揺れる。
リクは目を細め、低く問い返した。
「……どういう意味だ。まさか……あんた、人間じゃないのか?」
カルマは即座に否定した。
「いや、俺は正真正銘の人間さ。だが――“六師外道”って名前は聞いたことあるか?」
リクは首を横に振る。
「……いや、知らない」
代わりにミレイナが小さく息を呑んだ。
「知っています。どこの王国にも属さなかった、六人の伝説の勇者たち。歴史で学びました。かつて、最強の大魔王ディアブロを討ち滅ぼしたと……。まさか、あなたがそのひとり……?」
カルマは短くうなずいた。
「ああ、そうだ。だが俺たちが倒せたのは、“魔王”という枠に収まっていたディアブロまでだった。“虚無”は……そもそも、倒すという概念そのものが通用しない相手だった」
その声には、かつて世界を震わせた男には似つかわしくないほどの、重く沈んだ響きがあった。
「その頃、世界にはまだ濃密な魔力が満ちていた。勇者も魔王も強大で、争いは何度でも繰り返された。力は一方に傾くが、やがて均衡が戻る。その繰り返しだった。だが――ある時、勇者でも魔王でもない“それ”が現れた」
カルマは一拍の沈黙を置き、ゆっくりと続きを語る。
「ある村に、ひとりの妊婦がいた。彼女は恐れていた。『この子は産めない。恐ろしい』と訴え、堕胎を望んだ。だが、その土地の宗教では許されていなかった。
絶望の果てに、女は海にその身を沈めた。
しかし、海はそれを受け容れなかった。
腐敗した身体は潮の流れに翻弄されながら幾日もさまよい、やがて村の入り江に打ち上げられた。
干潮の午後、浜辺に集った子どもたちが遺体を見つけた。
誰かが恐る恐る石を投げ、それが火蓋を切ったように、遊びが始まった。
だがそのとき、突如として――
死体の腹部から、かすかな産声が響いた。
子どもたちは悲鳴を上げて逃げ出し、村へ駆け戻った。
大人たちは信じがたい顔で浜へと向かい、やがて、あり得ない光景を目の当たりにする。
女の腹の裂け目から、生まれ落ちたばかりの赤子が泣いていたのだ。
それが、“サーガラ”だった。
村人たちはその子を隠すように囲い、誰にも知られぬよう、密かに育てはじめた。」
カルマの声は変わらぬ静けさを保ったまま、淡々と語り続ける。
「サーガラは、異様な力を持っていた。不治の病を癒し、老いた者を若返らせ、金すらも生み出した。村は密かに繁栄した。
しかし六歳になる頃、村人たちは彼女に“違和”を覚え始めた。
誰も言葉にはしなかったが、子どもたちの輪の中に立つ彼女は、どこか異質だった。
声を上げることも、笑うことも、泣くことさえもなかった。
あまりに無垢で、あまりに――無音だった。」
カルマの瞳がふと細まり、遠い記憶の中を覗き込むように虚空を見つめる。
「――そして、ある日。
王都から帰郷したひとりの大工、ヨゼフは、目を疑った。
そこにあるはずの村が、丸ごと消えていたのだ。建物も、人の気配も、何ひとつ残っていなかった。あったのは、ただ真っ黒な“虚無”だけだった。
それは土地でも空でもない。ぽっかりと口を開けた、何もない“虚無”だった。
ヨゼフは王国に報告したが、その数日後に不可解な死を遂げた。
さらに、調査に赴いた兵士たちも次々に倒れていった。死因は不明。人々はそれを“闇病”と呼び、村は封鎖された」
カルマはわずかに視線を落とし、低く締めくくる。
「俺たち“六師外道”は、魔王をも超える脅威――“虚無の少女”を捕えるために、ついに動き出した」
「その……“六師外道”の方々は、いまもこの世に?」
ミレイナの問いに、カルマは静かに首を振る。
「……何人かは生きている。一人は死んだ。そして――いるのか、いないのかすら、わからない者もいる」
短い沈黙のあと、カルマの語りが続く。
「我々は、リーダーである〈ノアリス〉に導かれ、少女の痕跡を追い続けた。
彼女が立ち去った後には、決まって“闇”だけが残されていた。
やがて人々は、誰も少女の姿を見ていないにもかかわらず、彼女の“存在”だけを感知するようになった。
名もなき恐怖、形なき災厄……触れる必要すらない。ただ、知ってしまうだけで、人は“闇病”に蝕まれる。
目に見えない何かに生命力を削られ、静かに、しかし確実に命を奪われていった」
ミレイナは言葉を失い、口元にそっと手を当てた。
リクもいつしか、話の中に飲み込まれていた。
語られる情景をまるでその場で見ているかのように、カルマの言葉を追い続けていた。
カルマの瞳は、はるか遠くを彷徨うようにかすかに細められていた。
「六師外道の一人――《賢者〈ワイズマン〉》フィリップは、“情報”を読む男だった。
彼はこの世界だけでなく、並行して存在する無数の世界、そのさらに向こう側――因果の層すら超えて、情報の流れを掬い取ることができた。
その果てに、彼は一つの魔法に至った。名を、《超次元曼荼羅意図〈リ・クリエイション〉》という」
リクがぽかんと目を瞬かせ、首を傾げる。
「えっと……すみません。話のスケールが大きすぎて、半分もついていけてません……」
カルマはほんのわずか、唇の端を持ち上げた。
「俺も完全に理解しているわけじゃない。だが、概念は掴んでいるつもりだ」
その声は淡々としていたが、微かに熱を帯びていた。
「――“虚無”の前に、六人の意志が揃う。
肉体も魂も、世界から一斉に消し飛ばす。虚無そのものを“燃料”として、
架空の宇宙、理想の次元を新たに創造する。
それが、《リ・クリエイション》の発動条件だ」
ミレイナが小さく息を呑んだ。
「……成功したのですか?」
カルマの顔に、かすかな苦みがにじむ。
「いや……結局、完全な発動には至らなかった。
せめてもの成果は――“虚無”を、俺たち六人の内側に封じ込めることができた。それだけだ」
リクが後悔を滲ませて言う。
「……俺が《インスペリオ》を使って、あんたの記憶に触れたとき……
俺の中に入り込んだのが、“虚無”……なのか」
カルマは静かにうなずいた。
「そうだ。俺の奥底に沈んでいたそれを……お前が引き込んだ」
リクは小さく息を詰め、膝に置いた手を強く握った。
「……まさか、こんなことになるなんて……」
「だが、今となっては――それも、避けがたい流れだったのかもしれない」
カルマの声は静かだった。だがその奥には、確かな確信が宿っていた。
「俺たちの目的は、《リ・クリエイション》を完成させ、虚無を完全に封じること。
そのためには、新たな魂が必要なんだ。新たな“輪”を成す、最後の一人が」
カルマは、まっすぐにリクを見据える。
「――そしてその適格者こそが、お前だ」