第5章:死の門を越えて〜冥界への配達任務〜
その依頼は、まるで冗談のように静かに届いた。
『冥界の女王セレスティア宛て。生者からの贈り物をお届けください。』
配達人ギルドの中央本部。厳重な魔術障壁に守られた一室で、赤羽俊はその依頼書を手にしていた。厚手の羊皮紙に、淡く輝く銀の文字。送り主は王都神殿の預言者。配達の宛先は“冥界”。
「冥界……だと……?」
受け取った瞬間、周囲の空気が変わった。案内役のギルド職員が一歩引き、部屋の外に控えていた二人の高官が眉をひそめる。
この依頼は“歴史に名を刻む”ものだった。なぜなら、ギルドの長い歴史の中で、冥界へ配達しようとした者は三人しかおらず――全員が“帰らなかった”からである。
俊は椅子に深く座り、目の前の依頼書を黙って見つめた。
──冥界への配達。
死者の魂が行き交う異界。生きたまま踏み入ることができる者は、ごく限られた者のみ。
ギルドマスターのグランは、その視線に確かな光を宿して言った。
「赤羽俊。君は、他の配達人とは違う。“時間”に対する認識、“届ける”という信念、それは……この世界の“境界”すら超えるかもしれない」
俊はゆっくりと頷いた。
「届けるべきものがある限り、俺は配達人です」
グランは満足そうに笑った。
「冥界へ行くには、“死の門”を越えなければならない。そこでは“魂の揺らぎ”が起きる。記憶や信念が不安定な者は、すぐに崩壊する……。それでも行く覚悟があるか?」
俊は即答した。
「あります。届け先がどこでも、俺は逃げません」
この瞬間、ギルド中に“伝説”の始まりが刻まれた。
*
冥界への旅は、通常の転移魔法では不可能だった。霊的次元そのものが違うため、生きた肉体を維持したまま冥界に入るには“冥界の門”と呼ばれる特殊な通路を通らなければならない。
それは王都の地下、長らく封印されていた魔術遺跡の奥に存在する。
俊は転送準備のため、ギルド所属の神官と魔導士により“魂の補強”を受けていた。
魔術円の中に立つ彼の身体は、淡く青い光に包まれている。額には守護の印、胸元には魂の安定石が埋め込まれ、手には銀糸で織られた「生命の導紐」が結ばれていた。
「君は……正気を保てるタイプの人間か?」
「分かりません。でも、時間は守ります」
俊のその一言に、神官たちは思わず顔を見合わせた。
*
“死の門”は、巨大な黒曜石のアーチだった。
表面には数千年の時を越えて浮かび上がったような“魂の言語”が刻まれている。
俊が足を踏み入れた瞬間、周囲の世界が溶け出した。
風が消え、音がなくなり、視界が灰色に染まる。
足元は、どこまでも沈むような“無”。感覚が剥がれていく。
スキル《精神耐性・集中型》が自動的に発動。
俊の意識は、意図せず“記憶の世界”に引きずり込まれた。
*
そこは“昔の東京”だった。
大学構内、秋の落ち葉、缶コーヒーの苦味。
「……え?」
配達の合間にベンチで仮眠をとっていた自分。
時間を守ることに必死で、人の声を聞き流していた日々。
「赤羽くん、ほんと几帳面だよね」
「ああ、でももっと適当でいいんだよ」
笑いかけてくれた仲間たち。だけど俊はその場を離れた。
「時間があるから。配達あるから」
孤独ではなかった。ただ、“届ける”こと以外が見えなくなっていただけ。
「……俺は、届けることで……誰かの役に立ちたかっただけなのに」
その記憶の中に、白い手が差し伸べられる。
“行きなさい、赤羽俊。お前は、迷っていない”
女神マーリィの声だった。記憶の深淵で、彼の魂を呼び戻す。
俊の意識は“死の門”を抜け、冥界の世界へと降り立った。
*
冥界。
そこは空も地面も色彩を持たない、灰の世界だった。
音がなく、風がなく、時間が止まっているような空間。
俊はバッグを確認する。中には銀色の封筒と、小さな木箱。
《配送対象:セレスティア女王 内容:生者からの贈り物》
目的地は、“沈黙の都ネクルダ”を越えた先。
その地には、女王が住まう王宮《アル=セリウム》がある。
俊は歩き出す。
その先には、かつて人だった影たちが、無言で立ち尽くしていた。
彷徨いながら、何かを探すように。
俊はその中に、少年の姿を見つけた。
「お兄ちゃん……届けて……」
朧げな声。少年は“自分の家族への手紙”を差し出した。
亡くなる前に、伝えられなかった言葉。
俊は手紙を受け取り、胸ポケットにしまう。
「分かった。終わったら、必ず届ける」
影たちが、静かに道を開いた。
彼の歩みに、死者たちが応えるように。
*
俊の目の前に、ついに冥界の中心《沈黙の都ネクルダ》が現れた。
その奥には、死者すら近づけぬ女王の居城があるという。
彼は深呼吸をして、歩みを進める。
その道の先に、“生者の声”が必要とされる瞬間が待っていると信じて。