第3章(後編):魔王アークネメシスとの対面
重厚な黒鋼の門が、軋む音を立てて開いていく。
夕陽が差し込むその隙間から、赤羽俊は一歩、魔王城の中へ足を踏み入れた。
石畳の廊下は冷たく、天井は高い。まるで寺院のような荘厳さを感じさせる造りだった。
壁には巨大な魔物の骨や、無数の剣が装飾のように突き刺さっている。空気には淡く漂う魔力の膜。肌にピリつくような気配が、俊をじわじわと包んでいた。
「……ここが“ラスボスの家”ってわけか」
気を抜けば飲まれそうな空間だった。それでも、俊の足取りは止まらなかった。
理由はただひとつ――
「届けること」が、彼のすべてだったから。
玉座の間に通されるまで、三重の扉をくぐり抜け、静寂のなかを10分ほど歩いた。
配達期限は、残りわずか3分。
――カツン、カツン……。
靴音だけが響く大理石の床を歩き、やがてたどり着いたのは、赤黒のカーペットが敷かれた大広間。両脇には黒鎧を纏った騎士像が並び、奥の玉座には、ただ一人の人物が座っていた。
漆黒のローブ。深紅の瞳。
額には宝石のような角をひとつ携え、白銀に近い長髪を背に流している。
――第七魔王、アークネメシス。
彼は微動だにせず、俊を見下ろしていた。
玉座に座っているだけなのに、空気が重くなるような存在感。その威圧は、まさに“絶対者”の名にふさわしい。
だが俊は、臆さず一歩を踏み出した。
「配達人、赤羽俊です。王国契約局からの書状をお届けに参りました」
深く頭を下げ、俊は革のバッグから“緋色の封筒”を取り出す。
魔力で封印された契約文書――王国と魔王との協定を交わす重要書類だ。
アークネメシスは、ゆっくりと腰を上げる。
その一挙手一投足が、まるで重力を操るかのように空間を歪めた。
「貴様……人間か。ずいぶんと小柄で、細い腕だな。それで、私に“届けに来た”と?」
「はい。時間内に、確実に届けるのが配達人の役目ですので」
俊の声は震えていなかった。それが逆に、玉座の魔王の関心を引いた。
「ほう……恐れぬか。私が誰なのか分かっているのか?」
「もちろんです。第七魔王アークネメシス。数百年を生き、五つの国を滅ぼした“大災厄”の化身……と、依頼書に書いてありました」
「自分の死を覚悟して来たのか?」
「いえ。“配達”に来ただけです。あなたがどんな存在であっても、届けることに変わりはありません」
その瞬間、玉座の間の空気がわずかに揺れた。
――静かなる“沈黙”の波。
そして、アークネメシスの唇がかすかに動いた。
「……貴様、面白いな」
重く、低く、しかしどこか愉しげな声だった。
魔王は玉座を降り、俊の目の前まで歩み寄る。
2メートル近い長身が、俊の小柄な体を完全に覆い隠す。
俊は動じず、差し出した封筒を見つめたまま立っていた。
「受け取っていただけますか? 配達完了の確認が必要なので」
魔王は小さく笑いながら、それを受け取った。
その場にいた誰もが驚いたかもしれない。だが、彼は――封を確かめ、静かに頷いた。
「確かに。これは……我が望んだ“文”だ」
沈黙。
数秒後、アークネメシスは玉座に背を向けながら言った。
「人間よ。貴様の名を記憶する。“赤羽俊”……ふむ、覚えやすい。次も、貴様に届けさせよう」
俊は一礼した。
「ご指名、光栄です」
その瞬間、玉座の後ろの壁に浮かぶ巨大な魔法陣が光を帯び、俊の足元を包んだ。
「それは“魔王の転送陣”だ。帰還用に開いた。使うがいい」
俊は最後にもう一度、魔王の瞳をまっすぐに見た。
「ありがとうございました。またのご依頼、お待ちしております」
光が彼の身体を包み、玉座の間から消える。
――その直後、玉座に戻ったアークネメシスは、執務机の上に封筒を置いた。
側近の影魔獣が現れ、耳打ちをする。
「魔王様、なぜあの人間に“殺気”を向けなかったのですか? 配達人とはいえ、警戒は必要かと」
「……彼は“自分の力”を誇らぬ。恐れぬ。だが、命を投げ捨ててもいない。バランスの上で、信念だけを武器にしていた」
魔王は一枚の紙を見つめる。
そこには、配達完了の署名欄に――
**「赤羽俊」**の名前が刻まれていた。
「人間のくせに、“王に物を届ける”態度だった。久々に、面白いやつだ」
その夜、王都に帰還した俊は、ギルド本部の一室で報酬と報告書を受け取った。
受付嬢は、興奮と尊敬が混じった表情で彼を見つめていた。
「本当に……配達、成功したんですね。魔王アークネメシス様に、時間内に……!」
「はい、何とか間に合いました。正直、ギリギリでしたけど」
俊は疲れた表情で笑った。
その笑顔の裏に、死線を超えた“覚悟”が滲んでいたことに、彼女は気づいていた。
こうして、俊の名は配達人ギルドに刻まれ、
「魔王に時間通り荷物を届けた男」として、異世界中に静かに広まりはじめる。
だが、それはまだ――伝説の、ほんの“序章”に過ぎなかった。