三十五品目 シェフの処方箋9
「まったく、お前は期待を裏切らない良いやつだよ」
アイタナの肩を叩いては、近すぎる距離を正常に戻す。
「ほんの数日とはいえ、お前には世話になったからな。それに随分と迷惑もかけた。まあ、これから更にかけることになるわけだが……誤ってこの国一番の人気者を戦闘に巻き込みでもしたら、子供たちに何を言われるか分からないからな」
キリボシ――そう続けて名前を呼んでは、何か言われる前にとさっさとアイタナの身柄を預けてしまう。そのまま一方的に下がっていろと告げては、どう調理したものかと改めて見据えるしなやかな肢体。
ふとサキュバスの口元が挑発的に歪んでは、受けて立つとこちらから踏み出すと同時に、当たり前のようにその妖しげな視線が私を飛び越していく。
「魅了か……無駄なことを」
本来ならキリボシを心配すべきところなのだが――ロサという前例を知っている手前、構わず距離を詰めていっては、不意に背後から肩を掴まれる。
「アザレアさん、待ってください」
目に映るのは無言で後退するサキュバスの無表情。誰がどう見てもあとは狩られるだけの獲物を睨みつけては、動きを止めたところで仕方なく振り返る。
「何のつもりだ。それにキリボシもだ。なぜ邪魔させた」
「ええと……その、ごめん」
「別に怒っているわけではない。それとも周りの目を気にしているのか? いいから本当のことを話してみろ」
「いや、なんていうか……ほら。前にバルバラでさ。もう少し話しておけばよかったって、そう後悔したことがあったでしょ?」
「初めからそう言え。アイタナもだ。言いたいことがあるならさっさとしろ」
「ありがとうございます」
頷いては、直後に駆けていくアイタナ。何のつもりだ? とその意図を図りかねてるうちに椅子を手に戻ってきては、一歩引いた位置で座るよう促してくる。
「話を聞くとは言ったが、長話に付き合う気は――」
「お願いします」
「いや――」
「座ってください。でないと私もレダ様も、落ち着いて話が出来ません」
私は猛獣か何かか。そう思ったが口には出さなかった。
「分かった。座ればいいんだな? 座れば」
何もしていないというのに酷く疲れた気がするのは、夜中に叩き起こされたからだろうか。これは椅子に腰を下ろしてから気づいたことだが、敵前であるにも関わらず、不思議と座ることに対する抵抗感というものはほとんどなかった。
「それで? 何を話してくれるんだ?」
「レダ様を助けてはいただけませんか」
「助けろだと?」
思わずとキリボシと目を見合わせては、まさかなと苦笑する。
「レダというのは、そこで怯えているサキュバスのことか?」
「私は怯えてなどいません」
「そうだったな。お前は自らの推測に基づき、命がけで私たちの黒を証明してみせた。だからこそ解せないんだが……なんだその縮こまった態度は、なんだその余裕のなさは。私たちを追い詰めたときにみせた覚悟は、見せかけだったのか?」
レダは一度は口を開くも、結局なにも言わないまま口を閉ざす。ただ言葉にしなかっただけで反論はしたいのか、精一杯の気丈さで睨みつけてくる。
「だんまりか。まあ無謀な賭けをやるような奴には見えないからな。お前なりに勝算があって、仮に失敗したとしても、どうにかできるだけの自信があった。だからこそ実行したんだろう――ただそれは逆を言えば、条件さえ揃えば白か黒かに関わらず、味方を切り捨てられるとそう言っているのと同じだ。だがアイタナ、お前はそんなやつを助けろという。それは本当に正しいのか? 無論、私は魔王軍ではないから関係ないと言われればそれまでだが……」
「アザレアさんの言いたいことは分かります。ただ実際のところ、私たちには選択肢がないんです。今回の件で共和国が処分を免れるとしたら、私ではなく、レダ様の口から魔王軍に無関係を証言していただくほかないのですから」
「なるほどな。実際にはレダのやらかしたことだが、ここでレダが助からなければ共和国はベルニと合わせて、その責任まで追及されることになる。つまり共和国が無傷で助かるには、レダは必要不可欠。お前に選択肢がないのは分かったが……だからといって助けなくてもいい奴を助けて、好き好んで魔王軍に追われるほど私たちは馬鹿じゃない。というわけでアイタナ。お前ならこんなときどうする?」
「例えばですが――レダ様にはお二人がこの地を遠く離れるまで報告を待っていただく、あるいは完全に虚偽の報告をしていただく、というのはどうでしょうか」
アイタナは言いながら確認を取るようにレダへと目を向ける。
「私に不正を働けと、そう言っているんですか」
「ベルニを始末しておいてよく言えるな」
「その通りです。レダ様はすでにお手を汚されている。ならば選択肢の一つとして考慮すべきです」
「保証も……保証もなしにそこの人間が私を見逃すと?」
あり得ないとレダは首を横に振る。
「お互いの間に信用を構築することも不可能な間柄で、それも口約束など成立するわけがない」
「不可能ではありません。難しいだけです。アザレアさん、条件はすべて飲みます。どうか共和国のためにも、レダ様を助けてはいただけませんか」
「共和国のため、ね……」
アイタナがそこを強調するのは、前提として私たちが子供たちを助けようとしているのを知っているからだろう。ただそれを分かった上で人質に取っている、あるいは同情を誘っているつもりなら、その効果は薄いと言わざるを得ない。
そもそも私たちは帝国に入国できればそれでいいわけであって……極論、保身のために共和国を見捨てるというのもない話ではないのだ。
ただそうした場合に一つだけ問題があるとすれば――それでロサとの取引がご破算になる可能性もあるということだ。
「とりあえずマンドラゴラとラフレシアの種は貰っておく。それから子供たちの治療に必要に応じて協力しろ。当然、その結果が分かるまでは私たちはここに留まることになる。その間はレダが私たちの身分を保証し、ベルニのことも報告しない。あとは気を利かせろ。報告の時に外見に言及しないとかな」
「アザレアさん……ありがとうございます。レダ様もそれでいいですね?」
「いいえ、大事なところが抜けています。今のままではただの口約束――取引として成立させるための強制力が必要なはずです。私にいったい何を差し出させるつもりですか」
「担保ね……」
一応、腕を組んでは考えてみる。ただし答えは出ない。当たり前だ。どう見てもレダは手ぶら。取りに帰らせることもできなくはないが、私ならそのまま戻らないし、何なら魔王軍にも報告する。要するに物は担保として要求できない。
となると今のレダに用意できそうなのは情報だろうか。例えば露見すると不利益を被るような秘密であれば、担保として十分に機能するわけだが……それが本当かどうか、確かめる術がなければ価値を見出すことも出来ない。
どうしたものか。こちらとしてはこの国で子供を助けたという実績と、帝国に辿り着くまでの時間が稼げればそれでいいのだが。
いっそのことここで働かせて、子供たちに見張らせるか?
長考の末に出てくる答えも適当になり始めたところで、珍しく慌てた様子で机へと駆け寄っていくキリボシの後ろ姿が目に入る。
「芽吹いてる……」
そう独り言のように呟くキリボシ。直後に机の上に広げられた袋の口を閉じては、そのまま手に取り、何かに急かされるようにして窓から飛び出していく。
「え……キリボシ、さん……?」
「気にするな。だが放ってもおけないからな。私も行く」
だから話は終わりだと席を立っては、窓際へと向かうついでに椅子を元に戻して、キリボシがそうしたように窓枠へと手をかける。
「待ちなさい、取引はどうするつもりですか」
「聞いてなかったのか? 私は行く。だから好きにしろ」
「そんな――そんな適当なことで、私たち魔王軍から逃れられると思っているんですか!」
「忠告痛み入るな。まあ、約束を守る気があるのなら、しばらくはここで子供たちと一緒に働いてみるといい。それからアイタナ、これもいい機会だと思って良い剣をつくってくれ。恥ずかしい話だが、私の剣は魔王軍から借りてばかりでな」
「アザレアさん……また会えますよね?」
「私は嫌がらせで忙しいからな。まずはレダとこの国を守ってみせろ」
「私を見逃すんですか! アザレア!」
私は引き留めるレダの声を無視して窓から勢いよく飛び出した。




