六品目 生野草3
それからどれぐらい待っただろうか。実際にはそれなりに待ったのだろうが、感覚的にはすぐのこと。
帰ってくるなり、ご飯にしようかと何事もなかったかのように告げるキリボシを前に、私もまた何事もなかったかのようにうなずき返す。
そうして辺りに漂う血生臭さが濃厚な青臭さで分からなくなったころ。素人目にも本当かと疑いたくなるような、まるで吐瀉物のようなスープが完成した。
「作らせておいてなんだが、見た目は過去一の悪さだな」
「それは僕も思う。でも栄養は満点、疲れた体に野草のスープは最高のごちそうだよ」
キリボシはそう言いながらドロドロの液体で満たされ、湯気を立ち昇らせるお椀を差し出してくる。
それを間近で見ているだけですでに失せている食欲がさらに失せていくのを感じるが、体に良いと言われると見た目が悪い分、余計に効き目がありそうに思えてくるのだから不思議だ。
そう、薬だと思えば食べられなくはない。
自身の説得にどうにかこうにか成功した私は、もはや野草のスープも敵ではないとキリボシからお椀を受け取る。
そして軽く匂いを嗅ぐつもりで鼻を近づけた私は、やっぱり無理かもと反射的に天を仰ぐ。
「うっ、なんだこれ。湯気が目に染みるぞ」
「冷めると最悪だから、熱いうちに召し上がれ」
「あ、ああ……」
最悪か。キリボシにそこまで言わせる状態がどのようなものなのか、少しだけ怖いもの見たさのようなものはあるが――要するに出来立てが一番マシ。そういうことならと、さっさと食べてしまうことにする。
「いただきます」
「うん、いただきます」
手を合わせ、ほぼ二人同時に刺激的な深い緑を木の匙ですくい上げる。
当然のように躊躇しないキリボシ。私はと言うと本能が拒絶しているのであろう、理性では食べようとしているのだが、途中で手が止まったかと思うとそのまま動かなくなり、いつまでも一口目に辿り着けないでいる。
それで仕方なく、またどうにかこうにか自分を説得することにする。
「これは体に良いものだ。これは体に良いものだ。キリボシ、これは体に良いものなんだよな?」
「うん」
キリボシがうなずいたところで、ようやく食べろという理性が食べたくないという本能を上回ったのか、止まっていた手が不意に動き出す。
しかしそこまでしなければ食べられない野草のスープ。本当に食べても大丈夫なのだろうか?
そんな余計なことを考えられたのも、スープが舌に触れるまでのことだった。
「苦い!」
苦い苦い苦い! いや、渋い! そう内心で叫んだところでギリッと耳元で嫌な音が鳴る。どうやら自分でも気づかないうちに歯を食いしばっていたらしい。
すぐに顎の力を抜いて口を開ければ、途端に際立ってくる舌の痺れ。キリボシが熱いうちにと――時間をかけるなと言った理由が分かったような気がして、私はやるしかないらしいなと急ぎ決めたくもない覚悟を決める羽目になる。
これは薬、これは薬、これは薬……よし!
匙など使ってられるかと勢いよくお椀の縁に口をつけ、涙目で飲み干すと、笑顔のキリボシがパチパチと手を鳴らして出迎えてくれた。
「さすがはアザレアさんだね」
「がらだに。体に本当にいいんだろうな?」
「それはもちろん、保証するよ。それに食べてしまえば、後味はそう悪くないでしょ?」
「味? ってバカ! そんなもの思い出させるな!」
言ったそばから胃の奥底から湧いてくる強烈な不快感。まずいまずいまずいと辺りを見回す私は、咄嗟に目に入った草の束を掴み取る。
「体にいいんだよな?」
「え?」
とにかく塞き止めないと。その一心で気が付いた時にはもう、私は生のまま掴んだ野草を口の中へと両手で押し込んでいた。
「あ、アザレアさんっ、せめてアク抜きしないとっ」
「おえー!」
私は盛大に吐き戻す。似ているとは思ったが、本当に吐瀉物にしてしまうとは……ただ幸いなことに胸のむかつきはそれで収まってくれた。
「わ、悪い。少し取り乱した。それにせっかく作ってくれたのに」
「僕のほうこそ余計なこと言っちゃったね。でも大丈夫。僕がおかわりしても、まだもう一杯ぐらいは余分があるから」
「そうか。それならよかった」
朗報を聞いているはずなのに、なぜか沈んでいく気分。意図せずまた歯ぎしりが出そうになったところで――キリボシが鍋に水と新たな野草を追加したのを見て――私は問題を先送りするように話題を変えることにした。
「そういえばこれからどうするつもりなんだ? マルタ村は拠点にするには危険すぎるし、まさかこのまま森に住むつもりじゃないだろうな?」
「うーん、一応ここには水もあるし……」
「そんなことだろうと思ってはいたさ。城塞都市に行くぞ」
「え? でも僕らはもう冒険者じゃないし、バルバラに入るための許可証を発行してもらえるかも怪しいと思うけど」
「それなら心配するな」
私はそう言って懐から一枚の分厚い証書を取り出す。
「商人用の通行手形だ。こんなこともあろうかと、レティシアを出るときにかっぱらってきた」
「え? どさくさに紛れて盗んだってこと?」
ちょっとした冗談のつもりが、そうは聞こえなかったのか。不意にキリボシの目が糾弾するように細くなる。
「違う違う」
キリボシの初めて見る顔に困惑しつつも、私はすぐに手を振って訂正する。
「たまたま魔王軍から逃げるレティシアの商人をまあ、なんだ。助けてな。私は別に見返りを求めて戦っていたわけではないし、何なら断ったんだがどうしても持って行けと言われてな」
「そういえばマルタ村でのワイン、いま思い出しても美味しかったね」
「お前も立派に盗んでるじゃないか!」
「そうだね」
キリボシは笑う。まあ野盗のことは扱き下ろしたが、こんな状況で清く正しく生きるほうが難しいというのも分からないでもない。
だからこそあえてそんな難しい生き方を選ぶというのも一興だろう。ただそれには並大抵ではない覚悟がいる。
そう、例えば主食をゴブリンや野草に……うっ、これ以上はやめておこう。
「まあ、なんだ。とにかくバルバラになら入れる。まあ、入れるだけなんだが」
「入ってそこから先、どうするかだね。バルバラに知り合いは? ちなみに僕はいないけど」
「私が人付き合いがいいように見えるか? 一応言っておくが――そういえばお前は聞かないんだな」
「何を?」
「白々しいな。そういうのは嫌いだ」
「じゃあ聞くけど……アザレアさんって、もしかして……エルフ?」
「どう見てもエルフだろ!」
私は思わず叫んでいた。いけない、いけない。落ち着かなくては。キリボシはもう二度も目にしている。もはや気のせいで済ませられる話でもない。
しかし身体変化を使い始めてから一度も他人に話したことの無いことを今さら言葉にするというのもなかなかに難しいし、気恥ずかしい。
いっそのことキリボシのほうからあれこれと聞いてくれたほうが楽なのに。そう思ってしまうのはキリボシがあまりにも興味なさそうにしているからだろうか?
シャビエルたちのように気持ちの悪い食いつき方をされるのも不快だが、これはこれでと不満に思ってしまうのは、さすがに自分で言うのも何だがわがままが過ぎるのかもしれない。
「ご、ごめんっ。昔会ったことのあるエルフはもっとこう、なんて言ったらいいのかな」
「傲慢か?」
「そう! って言ったら失礼になるかもしれないけど、とにかく上から目線で、自分たちは絶対に間違わないとでも思ってるみたいで……何かにつけて否定的だし、すぐ怒るし」
「かなり解像度が高いな。まあ、私がそこまででもないのは、かなり長いこと人の側に立っているというのもあるだろうが――いや、そうだな。キリボシのほうこそどうなんだ? あの吸血鬼が言っていたが、エルフの国は滅んだらしいぞ。エルフに会ったことがあるなんて今時珍しいんじゃないか?」
「レティシアに来る前の話だね。砂漠でギザギザの赤い葉をつけた植物を食べてたら捕まっちゃって」
「百年草を食べたのか? あれは中毒性が高いからエルフの間では採取や所持が禁止されている……って、完全にお前が悪いじゃないか」
「そうなんだよね。でもお腹減っちゃって。ただ中毒性が高いってのはよく分からなかったかな。味も普通だったし、食べすぎるってこともないと思うんだけど」
「そもそもが神聖な儀式に使用する特別なものだからな。国で禁じていたのも全体の数を減らさないように、そういった側面があったのかもな」
「確かに自分の手で育てるのは難しそうな見た目をしてたけど」
「いや――お前……」
キリボシのあまりの無知ぶりに私は頭を抱えそうになる。いや、人間なら知らなくてもおかしくはないか。
「花をつけるのに百年かかるから百年草って、聞かされなかったか?」
「ずっとすごい剣幕でまくしたてられてたから……その、あれだね。そんなに貴重ならもう一度くらい、見る機会があっても良いかもね」
「そうだな」
本音では砂漠に近づくのもごめんだと思っていたが、嘘でもそうだと答えられたことに自分でも少しだけ驚いた。
それに嘘をついたのは詮索されるとどう答えても変な空気になりそうだったからだが、そもそもキリボシが詮索してくるとは思えない上に、正直に話したところで変な空気にもならなかったような気がする。
まあ理由は何となくでしかないのだが。
「でもあんなに栄えてたエルフの国がなくなっちゃうなんてね。あんまりいい思い出はないけど、それでももう行けないって考えると、少しだけ寂しく感じるよ」
「私を売り飛ばした連中の国だ。気を遣う必要はない。それも他国から軍を引っ張るためだけにな。見ろ、この痛々しい赤髪。これがどこぞの権力者の趣味だと思うとそれだけで吐き気がする」
「えっ、また吐きそう?」
「それぐらい気持ち悪い……って、比喩だバカ」
まったく、本気なんだか冗談なんだか。ただ一つだけ分かったことがある。キリボシは相手がエルフでも、態度を変えない人間だということだ。
まあどうでもいいと思っているだけなのかもしれないが。
「私たちはバルバラに行く。それでいいな?」
「うん。実は一度、商人ってのになってみたかったんだよね」
「お前は料理人のほうが合ってるよ」
「僕はアザレアさんの赤い髪も似合ってると思うけどね。コルジリネみたいで」
「急に相手の知らないもので例えるな。褒められてるのか分からないだろ」
「あれ? エルフの国の近くで結構見かけた花なんだけど……」
「花ねぇ。まっ、花ならそのうちに見に行ってもいいかもな」
「そのためにはまず英気を養わないとね。お待たせ。栄養満点の野草スープ、出来上がり」
「やれやれ」
私は苦笑いを浮かべて、キリボシをチラ見する。こいつはまた飲み干したところで拍手で出迎えてくれるだろうか?
すでに笑顔と言ってもいいキリボシを前に、これでしないなんてことがありうるのか? と私は笑みを堪えながら口をつけたお椀を傾けた。




