三十三品目 ニグラスの木4
それからどれほどの時間が経っただろうか。不思議と痛みや苦しさといったものはなく、例えるならば穏やかな海面をただ何をするでもなく漂っているかのような感覚の中で、自分でも驚くほど深く眠りについた意識を覚醒させたのは、酷く慌しい声とそれに合わせて体を揺さぶる物理的な衝撃だった。
「レア……おきるのじゃ、アザレアっ!」
ゆっくりと目を見開いては、すでに覚醒しきっている頭。まるで寝起きを感じさせない速度で地面に横たわった体を起こしては、どこから湧いて出てきたのか。見知った顔のサキュバスを正面に、怯えるカーラの肩をもう心配ないと優しく叩く。
「それで? なんでこんなところにいるんだ? ロサ」
「それはこっちの台詞よ。なんであんたらはドワーフの国にいないで、こんなところにいるのよ」
「なんだ、キリボシに聞いていないのか?」
「聞いてるわよ! 聞いた上で私はあんたに再確認してるの!」
「まあ……ドワーフ行きを蹴ったのは私だからな。分からないでもないが……」
そこで不意に横から服の袖が引っ張られては、そういえば紹介がまだだったなと、思い出したようにカーラと目を見合わせる。そして気付かされる問題。このややこしいサキュバス、どう説明したものかと頭をかいていると、別に悩む必要なんてないでしょと、ため息交じりにロサのほうから声が上がる。
「そもそも聞く耳持たれてないだけで、何度も言ってるし。私とキリボシが知り合いで、アザレアはそのまた知り合いだって」
「なんだ、友人かと思っていたのはこちらだけだったか」
「じゃあそれで。なんて言ったらアンタは否定するんでしょ? まあ、敵じゃないってことだけは……って、こっちこそ紹介してほしいところなんだけど?」
ロサに目を向けられては、ビクリと跳ねるカーラの肩。自然と袖を引っ張る力が強くなっては、背中に隠れようとしたところを大丈夫だと落ち着かせたのち、恐る恐ると顔を上げたカーラはロサの視線を正面から受け止める。
「て、敵ではないんじゃな……?」
「さっきからそう言ってると思うけど? というより、もしそうなら貴方たちが起きるまでわざわざ待ってたりはしないとか、そういう風には考えられないわけ?」
「それは、そうじゃが……おぬしからはダークエルフと同じ匂いがする。だからアザレアがおぬしのことを信用したとしても、わしは信用するわけには――」
「あのエルフと貴方との間に何があったのかは知らないけど、それは貴方たちの問題であって、私には関係ないと思うけど? まあ、あのエルフのことだから、根に持つのも仕方のないことだ思うけどね」
「なんだ、知り合いだったのか? てっきりお前らとは別の集団かと思っていたが」
「別にそんな回りくどい聞き方しなくても答えるわよ? 隠してないし。ただそうだとしても、まずはそこの妖狐が名乗るのが先だと思うけどね?」
「カーラじゃ……おぬしが何者かは知らんし、信用もできんが、少なからずわしらのことを知ってはいるようじゃな」
種族名を言い当てられては、驚きと共に増々と警戒の色を濃くするカーラ。ただそうしたいなら勝手にどうぞと言わんばかりに笑うロサは、自身への評価や嫌疑などまるで気にせずと、すぐにカーラから興味を失ったように目を逸らす。
「それで? アザレアはあのエルフについてどこまで知ってるんだっけ?」
「まったく。ただカーラから聞く限り、お前らの協力者であろうことだけは分かっている」
「お前らの協力者じゃと? 待て、こいつはもしかしなくても魔王軍なのか? いや、あり得ない。そんなわけがない。魔王軍からわしを助け出してくれたおぬしらに限って、その知り合いであるなどと……」
「あのねぇ……カーラとか言ったっけ? 別に私が魔王軍だったとして、だからなに? それは私の勝手だし、当然貴方にどうこう言われる筋合いもない。それこそ貴方にもアザレアにも――あのキリボシにだって話してない事情の一つや二つぐらいあるでしょ? まあ、キリボシは聞いたら何でも答えそうだけど……って、なんで私が気を遣わないといけないのよ」
ロサはそこで乱暴に頭をかく。
「とにかく! アザレアは貴方の、カーラの味方だし、私は貴方たちの敵。つまり私は魔王軍で、ダークエルフだっけ? 貴方がそう呼ぶエルフたちは……まあ、魔王軍って言ってもいいんじゃない? 正直なところ私はこの辺に詳しくないから答えようがないし……って、何よ。不思議そうな顔して」
「いや、その……魔王軍らしからぬと思ってな。アザレアがおぬしのことを毛嫌いしながらも、完全には拒絶していない理由が何となく分かるというか……おぬしは魔王軍じゃが、それほど悪い奴ではないということなんじゃな?」
「カーラはそう言ってるけど? アザレアはそれでいいわけ?」
「なんだ、褒められ慣れてなくて恥ずかしくなったか? 言っておくが、私は事実お前のことを気に入っているし、いざとなれば頼りになる奴だと――」
「ロサさんは良い人だよ」
「まったく、帰ってくるのが遅いんだから……ご飯は出来たの? それから私は良い人なんかじゃない。忘れた?」
「そうだったね。ロサさんは良いサキュバスだよ」
そういうわけじゃないんだけど……そう分かりやすく頭を抱えるロサを横目に、湯気の立ち昇る鍋と四組の食器を手に現れたキリボシを見て、私は頭のどこかでまだ信じきれないでいた目の前の光景を、ようやく現実として受け入れた。
どうやらロサは本物らしい――となるとどこにも見当たらない巨木とあの泥、そして天使たちは一体どこに……。
ふとキリボシから差し出された、お椀の中身にその内の一つを見つけては――青ざめるカーラと眉間に皺を寄せるロサを横目に――私だけはいつものことかと顔色一つ変えず、その泥のような液体を受け取った。




