二十九品目 潜り茸、あるいは潜り貝
「と、トマトの花だ……」
気が付くとその場に膝をついていた。川を越えてからいったいどれだけの時間を要しただろうか。草しかない高原をひたすら歩き続け、ようやく草の丈が高くなり始めたところで急に現れたその黄色い花――。
実こそまだつけていないものの、今までまったくつかめていなかったトマトを目の前に、私はただ感謝するようにその茎に絡みついた蔓と雑草を押しのける。
「やっぱりまだちょっと、早かったみたいだね」
「いいんだ……ここで待っていればそのうち食べられるんだから……」
他にもないかと周囲を探して回っては、次第に明らかになるその場の全容。それぞれが少しずつ離れながらも、点在するトマトの茎と葉に、もうここからは何があろうとも離れないと静かに決意する。
そうだ、私はこのトマトたちを守り、世話をするためにここまできたんだ……そんな風にこれからかかるであろう、手間すら喜ばしく感じられる中、不意に背後から声をかけられては、夢見心地でキリボシに近づいていく。
「ここは砂漠の緑地、あるいは戦場に咲く花のような――」
それよりもと、キリボシに感動を遮られては少しぐらい付き合えよと思いながらも、渋々と一緒になって見下ろす低地。トマトに気を取られていたとはいえ、これを見逃すかというぐらいの激しい戦場を前に、自然とドライアド――アリアスたちのことが思い出されては、アラクネたちの姿が無理なくそこに重なる。
「ここでもか。まったく、魔王軍は何をしているのやら」
「イゴルさんの支配地域を出たってことなのかもね。仮にそうなら一人でとんでもない範囲を任されてたことになるけど……何にせよ、トマトが無事でよかったよ」
「それはそうだな。特にトマトに関しては、魔物も動物も見境なく追い出してくれたからか、被害がないみたいだしな。何なら、イゴルに感謝を述べたいぐらいだ」
「僕的にはまだ、あの木が原因でここまでトマトにたどり着けなかったって、そう思ってるぐらいだけどね」
「なんだ、最低だなイゴル。やはり根まで掘り起こして正解だった」
「まあ、それも時間があったからだけどね。結局、見つけたはいいけど、まだ実もできてないわけだし」
「キリボシ、先に言っておくが、私はここを離れないぞ。だからお前もここを離れられないぞ」
「理由はさておき、ここならしばらくは滞在できそうかな。まあ大きく離れないにしても、少しずつ移動することにはなりそうだけど。それこそ動物の狩りや子育てじゃないけど、二手に分かれれば片方は残れるだろうし」
「そうか、心配だな……」
「僕が?」
「トマトが」
だと思ったと、どこか呆れたように笑っては、用は済んだと背後に引き返していくキリボシ。自然と一人その場に残されては、何となく惰性で戦場を眺め続ける。
「スケルトンにハーピィに双頭の犬、対するはラミアに人狼か? 誰が統率をとっているのかは分からないが……」
アリアスの時よりも規模がでかいなと、レティシア以来、久しぶりに見る軍同士の衝突に、ほんの少しだけ血が沸き立つ。
あの時は勝てなかったが……今なら――そんな風に考えたところで答えが変わらないのは、お互いの数に圧倒的な開きがあったからだろう。
「それにしてもどっちがどっちか、まるで分からないな」
さすがに両方魔王軍ということはないだろうが……その逆で両方魔王軍ではないということもないだろう。仮にどちらかが魔王軍だとするなら、もう片方はそれに対抗するだけの勢力を未だ維持していることになる。
イゴルがいた以上、ここが魔王の支配地域、もしくは影響下であろうことは簡単に想像がつくが……もしまだそんな屈強な勢力が存在しているのだとしたら、協力するのも巻き込まれるのも遠慮したいところだが、応援はしたいところだ。
「アザレアさん、そろそろご飯にしない?」
そう背後から声がかかっては、とりあえず屍霊系がいないほうが勝ったらいいなと思いながら、戦場を横目に火を起こすことにする。
「あ、そういえば、火を起こすのはまずいんじゃないか?」
「周りを調べたけど、目立った足跡や、草をかき分けた跡なんかもなかったからね。たぶんだけど、避けてるんだと思う。これもイゴルさんのおかげかもね」
「あいつそんなにすごかったのか……」
「まあ、強さは別に、すごくはあったよね。実際、イゴルさんが精霊かどうかはおいておいて、どう見てもスケルトンなのに、実体がなくてアザレアさんの神聖も通用しなかったわけだから」
「誇張ではなく、かなり自信をなくしたぞ。こんなことを自分で言うのもなんだが、アリアスの力に触れて、いい気になっていたのかもな」
「僕からしてみれば夜の吸血鬼を押し返せるだけすごいと思うけど……」
「褒められて素直に嬉しいと思ったのは久しぶりだな。ただ同時にイゴルのすごさが際立つのが気に食わないが」
「そう? 僕も手袋がなかったら逃げてたと思うし……あ、アザレアさん、少し手伝ってくれる?」
キリボシに呼ばれては、中断する火起こし。そして歩み寄っては、言われるがままに手を突っ込むことになる、地面にぽっかりと空いたちょうど腕が収まる大きさの穴。生い茂る緑の中にこんなものがあったのかと驚きながらも、恐るおそると肘まで入れたところで、不意に柔らかい感触が指先に触れる。
「なんだこれ……」
「潜り茸だよ。海に近いところだと、確か潜り貝って呼ばれたりもするのかな?」
言うが早いか、キリボシは上から掘り始める。途端に指先に伝わってくる細かな振動。すぐに伝えては、逃げるから捕まえておくようにと言われて、慌ててその柔らかい感触を指先でつまむようにして取り押さえる。
「まあ、もし逃げられても、目印の空気穴が分かりやすいから、見つけるのは簡単なんだけどね」
言ってる場合かと急ぐように目で促しては、やがて地中から出てくる、白く細長い枕ほどの大きさのキノコ。ただキリボシの言う通り、なんとなく貝と呼ばれるらしい所以を傘の模様と色に感じ取っては――分類としては普通のキノコではなく、マンドラゴラやシンといった魔物に近いものであろうに――すでにと香ってくる豊潤さにつられて、やめておけばいいのに期待を募らせてしまう。
「調理は任せたぞ」
あえて味がどうなのかは聞かずに、そう短く言い残してはそそくさと火おこしに戻る。それからほどなくして煙を上げては完成するたき火。ふと戦いの結果が気になっては戦場を見やると、まだまだこれからだと言わんばかりに、互いに兵を引いては、削れた部隊の統合と分割をしなおしているところだった。
「両者ともに引き下がる気はなしか……」
行くとこまで行くなと眺めていると、そっと湯気を上げるお椀を手に横に並んでくるキリボシ。懐かしくもキリボシと初めて会ったときに食べたキノコのスープを思い出しては、今更ながらあれはかなりマシなほうだったなと受け取ったお椀と匙を手に、いただきますと声を重ねる。
「まだしばらく続きそうだね」
「ああ……」
悪くない匂いに誘われてはここまではよかったんだよなと、薄く板状に切られた白いキノコを匙ですくいあげる。
「一応聞くが、毒はないよな?」
「ただのキノコだよ」
動いて逃げる以上、ただのキノコでないのは確かだが……もはや躊躇する理由もなくなっては、せめて後味だけでもいいものであってくれと口に放り込む。
「うん……これは……カビくさいな」
「アザレアさん。キノコって実はカビらしいよ?」
「キリボシ、カビの中にも食べられるカビと、食べられないカビがあるんだぞ?」
「このキノコはだいたい土の中にいるからね。それに雨も続いたし、きっと土のにおいが移ったんだよ」
確かに。そう言われるとそんな気がしないでもない。そもそもこれは普通のキノコとは違うのだ。ただそうなると比べる相手がいないのが問題なのだが……。
「まあいいか。少し苦くて柔らかくて香りがきついだけの……って! 毒がないだけじゃないか!」
それをまあいいかで済ませられるようになっている自分の成長に思わずと叫んでは、当たり前のようにおかわりした。ああ、まったく! 慣れってすごいなあ!




