二十六品目 変幻自在のショゴス
「じゃあ行ってくるよ」
キリボシはそう言って岩の陰から一人出ていく。私は草原で一人、それを見送るしかない。なぜそうなったのだろう――。
丸々と太った、体積にして人の百倍はあるかという巨大な虹色のスライムを遠く見据えては、私の記憶は自然と数時間前の川でのやり取りにまで遡っていた。
「アザレアさん――アザレアさんさえよければ、僕が向こう岸まで運ぶけど……」
「問題ない。このくらいの川なら、魔法を使わずとも余裕で泳ぎ切れる」
言うなればそれがすべての始まりだった。ただ私の経験則は確かにそう告げていたのだ。そしてそれは初めこそ間違いではなかった。そう、途中まではうまくいっていたのだ。
「くそ……」
激流をかき分けては、これのどこが余裕なんだと、必死で泳ぐ自分の姿に呆れ返りそうになる。たかが川を泳いで渡るだけ、それだけだったはずなのに……!
川の中央へと近づくほどに勢いを増す、横殴りの水の流れ。見えているというのに一向にたどり着けない向こう岸――挙句の果てに徐々に川幅まで広がり始めては、もはや形振り構ってはいられないと、前言を撤回して全身に魔力を巡らせる。
そうして強引に抜ける中央、同時に予想を超えてバカみたいに消耗する魔力。どう考えても釣り合っていない移動距離を前に、冷えた頭で本当に届くのかと再計算しなおしては、思わずと冷やすつもりのない背筋まで冷たくなってくる。
まずいな……自然と体に力が入っては、早くなる鼓動。程なくして息継ぎの回数として表面化し始める焦り、不意に身体変化まで解けてしまっては、それは無情にも、体力よりも先に、ついにと魔力の限界が来たことを意味していた。
もう少しで手が届きそうなのに……そのもう少しがひどく遠くに感じられては、追い打ちをかけるように視界の外からぶつかってくる流木。それも本来であれば何の問題もなかったはずなのに――疲労困憊の体に横から重い衝撃が走っては、その拍子に堪えきれずと沈み込む体でかなりの量の水を飲んでしまう。
落ち着け……落ち着いて対処すればこの程度……何とか浮き上がっては眼前に迫る次の流木。咄嗟に避けられないと頭を保護するように腕を上げては、直後に足をつかまれ、水中へと引きずり込まれる。
ここで魔物か――! 反射的に背中に担いだ剣へと手を伸ばしては、自然と標的を探して足元に向ける視線。そこで目にした答えに、思わずと安堵のため息を大きく漏らしてしまっては、そういえば水の中だったなと、全裸で手を引くキリボシの後ろ姿を最後に、私の意識は抗う間もなく遠のいていった。
そして気が付けば陸から見上げることになる空。川の流れとは真逆に、止まっているのではないかと思えるほどゆったりとした動きで流れていく雲をしばらく眺めては、近づいてくる足音に耳を澄ませる。
「大丈夫……?」
頭上から覗き込んでくるキリボシ。別に大丈夫と言えば大丈夫だったが、気力がそれについてこなかったので、あえて大丈夫ではないと首を横に振った。
「そっか……こんなこというのもなんだけどさ。やっぱりアザレアさんも、泳ぐときは服を脱いだほうが――」
「それはない」
私は真顔で否定した。確かに泳ぎ切れなかったのは事実だが……それは私の軽率さが発端であり、力不足が原因だ。それにこの失敗は一概に悪いことばかりではない。例えば致命的な場面で失敗することを思えば、早い段階で教訓を得ることができたのだから。これから訪れるであろう場所に、これまでの常識が通用するとは限らないと――。
そう考えると失ったのがあくまでも取り戻すことのできる魔力と体力と、少しばかりのキリボシからの信用なら安い買い物だったのかもしれない。
「アザレアさん」
ふとした瞬間に現実へと引き戻すキリボシの声。なんだ、もう終わったのかと遠くに飛び散った巨大な虹色のスライムの残骸を一瞥しては、キリボシには珍しく、さすがに疲れたというのでそのまま昼食にすることにする。
「キリボシ、今回は何を食べさせてくれるんだ?」
考えるまでもなく、どうせあの風変りなスライムだろうがと、分かり切ったことを聞いては、キリボシから返ってくる想像通りの答えの最後に、たぶんという言葉が小さく付け足されたことで一気に雲行きが怪しくなる。
「今たぶんと言ったか?」
キリボシは答えない。ただ何やら先を急ぐように火おこしすら自分で行っては、鍋にスライムの残骸と、乱暴に引きちぎった周囲の草を投げ入れる。
「おい、大丈夫かキリボシ」
目に見えた異変にそう聞かずにはいられない。ただそれすら黙殺するキリボシは、あろうことか――食器を使うことすら忘れたように、これ以上は待ちきれないと――鍋の中身を手づかみで口に運び出す。
「キリボシ……」
呆気にとられてはもはや眺めることしかできない。その理性をどこか投げうったような姿に、自然とゴブリンやオークといった魔物の影が重なっては、普段を知るだけに見てられないとスライムをむさぼるキリボシへと強引に食器を押し付ける。
しかしとキリボシは止まらない。嫌がるように背中まで向けられては、そこまでするかと思わずと手が出る。
そうして揺れるキリボシの脳天。連動するように体まで揺れ始めては、ようやくと鍋を投げ出して背中から大地に倒れていく。
「おいっ」
咄嗟に手を差し込んでは抱えるキリボシの体。同時に全身から血が滲み始めては気づかされる、異変の正体。思い出される天使との一件に、塞いでいた傷口が開いたのだとすぐに察しては、とにかく止血だと残りの魔力を気にせず、落ち着いて治癒の魔法をイメージする。大丈夫だ……あの時の私とは違う。魔力に余裕がないにも関わらず、私は考えられないほど効率的にキリボシの体を治していった。
「どうせお前のことだから、私に気を遣ったんだろうが……やせ我慢するならせめて分かりやすくしろ。馬鹿者が」
「いや……一番きいたのはアザレアさんのゲンコツだよ……」
なんだ、起きてたのかと軽口を叩けるほどに回復したキリボシから手を離しては、また何を思ってか。周辺のスライムをかき集め始めるキリボシ。今度は鍋に入れることもなくそのままかじり始めては、おいおいとすぐに止めに入る。
「一応温めてはみたけど、どうにも熱を通さないみたいなんだよね。残骸になってもそうなのは、そもそもの耐性が高すぎるのかな? 思えばマリーナの海でアザレアさんが斬った、あのでかいのもそうだったけど……まあ、他のスライムと同じで生で食べても問題なさそうだし――アザレアさんも嫌じゃなければ、一口ぐらいは食べてみてもいいんじゃないかな? こんな風変わりなスライム、初めて見たし」
そんな珍味みたいな勧め方をされてもな……そう思ったが、確かに見たことがないものではあったので、食べるかどうかはおいておいて、とりあえずと興味本位で足元に転がるそれを手に取ってみる。
「硬い……いや、柔らかい?」
相反する二種類の性質が一個体に同居する様に、なぜかバルバラのスライムと食べて比べてみたいという気持ちになっては、恐るおそるとかじってみる。
「う、まい……ことはないか?」
「ちょっと酸っぱいよね」
「いや、ほんのり甘くないか?」
「え?」
お互いに興味がわいては交換するスライム。すぐにかじってみると、キリボシの食べていたそれは、確かに少しだけ果物のような酸味があった。
「わっ、ほんとに甘いや」
「酸っぱいぞ……それにこれは果物に近いような……」
「あ、もしかすると、果物を食べてるのかも?」
「確かに……」
そう言われるとそんな気がしてくる。いやむしろと何の根拠もないのにきっとそうだと信じられてしまうのは、単純にいま食べたスライムの欠片がそれだけ果実の味に似通っていたからだろう。ふと草原を眺めては、一本も木が生えていないことに落胆するのではなく、だからこそとこの先に期待を膨らませる。
「それにしてもお前がそこまでの怪我を負うとはな。まさかとは思うが、相手がスライムだからと侮ったわけでもないんだろう?」
「そういうのはなかったかな。まあ、相性がたまたま良かったから何とかなったけどね。そういう意味でも結果的に僕一人で戦ってよかったとは思ってるよ。アザレアさんとはかなり相性が悪そうだったし」
「相性か……私は基本的に魔力勝負になると、総量で不利になることが多いからな。まあ、あれだけの巨体だ。それに見合うだけの魔力を持っていたとしても不思議ではない。だがそれだけで相性の良し悪しというものは決まらないだろう?」
「そうなんだけどね。スライムは戦う相手の――僕の姿形だけじゃなくて、戦い方やその技までかなり高い水準で模倣してたし、例え攻撃が通ったとしてもすぐに回復してたから……」
「なるほどな。耐久性で優位をとってくるか。元々の魔力以外では本物に劣るとはいえ、その差を生かすならそれしかないという戦い方だな」
「うん。それに加えてどういうわけか与えた傷がそのまま返ってくるんだから、最初はどうしようか、かなり悩んだよ。まあ今回は倒せそうだったから試さなかったけど……もしかしたら一度に返せる総量というか、限界値はあったのかな? 結局のところ、技を完全に模倣しきれなかったスライムが先に魔力切れを起こして、その我慢比べ? も終わったんだけど……僕も失血しないようにかなりすれすれのところを攻めてたから、余裕がなくなっちゃって。ごめんね」
「いやいいんだが……しかしお前、よくそんな化け物に……いや、このスライムがまさかそんな化け物だったとはな」
言いながら足元に視線を落としては、新しく拾い上げるスライムの欠片。そのまま何となくかじってみては、度を越えた甘ったるさに体が勝手に異物と判断してか、勢いよく口の外へと吐き出してしまう。
「外れだった?」
「スライムはどこまでいってもスライムらしいな……」
「でも今のところ当たりのほうが多そうじゃない?」
キリボシの言葉にハッとしては、いつかの再現でもするように二人してスライムをかじり続ける。そして満腹とともに明らかになる事実。よくて半々……なら半々と言ってもいいんじゃないか? 虹色のスライムは衝撃的な当たり個体だった。




