二十五品目 ケルピー
膝の高さまで入水しては感じる力強い川の流れ。潜っては向こう岸まで見渡せるのではないかと思えるほどに澄んだ水。今朝は魚だね――そう言って川に飛び込んでいったキリボシとは別に、久しぶりの水浴びを堪能をしては、待たせても悪いしなと名残惜しい気持ちを押して帰路につく。
そうしてしばらく歩いては穏やかな風に乗って漂ってくる、朝食の匂い。そこに妙な脂っぽさを感じては、自然と前のめりになるからだでついには駆け足になる。
「キリボシ――!」
「あ、ちょうどいいときに帰ってきたね。アザレアさん。水浴びはどうだった?」
聞いていた話と違うぞと息巻いては、話の腰を折るように笑顔で差し出される一杯のスープ。浮いた油とその原因であろう、さいの目に切られた具材こそ気になるが、海藻だろうか? 川で海藻というのも変な話だが、散りばめられた藻が香草に似た爽やかさで食欲を誘っては、促されるがままに腰を下ろしてしまう。
「いただきます」
まあまだそうと決まったわけではないか――真相を確かめるように口に含むスープ。見た目通りの脂っこさに朝から胃がもたれそうだなと感じながらも、その陰で藻が適度に主張してくれるおかげか、驚くことに油の浮いた重たいスープとしてはかなり飲みやすいほうにまとまってくれている。
ただ……疑惑の具材をそっと匙ですくいあげては、どう見ても魚ではないよなと思いながらも、もしかしたらという可能性にかけて口へと運ぶ。そしてはっきりする答え。これは――魚でもあるし、肉でもある。
「キリボシ……これはいったいなんなんだ? 魚の味がする肉なんて聞いたことがないぞ」
「馬だよ」
「え?」
「ただし陸上のそれとは違う――」
「水妖馬か!」
それでようやくと納得する。淡白な魚の味に筋張った肉の弾力。甘みのある油に包まれて判断がつかなかったが、確かにケルピーだと言われればその通りだ。
「って! 結局、魚じゃないじゃないか!」
「ほぼ魚だよ。馬だけど」
「馬って言ってるじゃないか!」
「でもケルピーは水中に棲んでるんだよ?」
「馬だけど?」
「馬だけど」
「なら馬じゃないか……」
白状したなと目を細めては、視線の先で苦笑するキリボシ。そういえばと流れを変えるように声を上げては、開き直ったようにケルピーの肉を焼き始める。
「アリアスさん、元気にしてるかな?」
「まだ食うのか……」
「これはお弁当」
「言っておくが、あの場に残ったところで――」
「負担になるだけでしょ? まあ、建前はそれでもいいんだけどね」
「不満か?」
「不満っていうか……なんていうんだろう。アリアスさんには正直に話しておいても、よかったんじゃないかなって」
「まあそれについては私も思うところはある。だがいつ目覚めるかも分からないアリアスを待って、面倒ごとを抱え込むのはごめんだからな。百歩譲って引っ越しぐらいなら手伝ってもよかったが……」
「面倒を見だしたらきりがないからね。山脈まで戻れば食料には困らないだろうけど……永住するわけでもないのに居座った挙句、いざいなくなったときに苦労するのは彼らのほうだからね。それに僕らが残るとなると、彼らも土地に愛着があるだけに、引っ越すに引っ越せなくなっちゃうだろうし」
「結局だな。何度繰り返したところで結論は変わらないわけだ。まあ、アラクネやケンタウロスはさておき、アリアスとはまた会うこともあるだろう。その時にでもゆっくり話せばいいさ」
「それまでにエルフ語を思い出せればいいんだけど……」
キリボシは自信なさげに頭をかく。
「やっぱりしばらく使ってなかったのが悪かったのかなあ?」
「まあ王国――レティシアでは聞く機会もなかっただろうしな。忘れてしまうのも無理はないさ」
「うーん、でもどうしてだろう。ここまで思い出せないのは、やっぱり覚えた過程が悪かったからかなあ?」
「お前の場合、覚えようと思って覚えたわけでもないだろうしな。時間が経てば忘れる、その程度の記憶だったということだろう」
「でも一度は覚えたわけだから……何かきっかけでもあれば思い出せるかもしれないし……やっぱりアザレアさんが――」
「教えるのは面倒くさい」
「だよね」
キリボシはわかっていたと、特に落胆したりということもない。ただ不意に立ち上がっては、たき火を離れて川のほうへと歩いていき――そうしてケルピーの足を両手に帰ってきたかと思うと、また火にかけては、そういえばと声を上げる。
「ここまでは真っすぐにきたけど、アザレアさんはここからはどうしたいとか、そういうのあったりする?」
「弁当にしては多くないか?」
「これは夕食だよ」
つまりそれは一日がケルピーで始まり、ケルピーで終わることを意味するのだが……食べてもいないのに今から飽き飽きしては、結局野菜――もしくは果物が食べたいという、満たされない限り、変わらないであろう欲求に行き着いてしまう。
「お前は忘れているかもしれないが……私はまだ野菜を食べていない。いや、何なら果物でもいい。むしろ果物がいい。野菜を追い求めて手が届かなかった以上、ここはあえて目的を変えてみるのもありだと私は思う」
「食欲って点では同じだけどね。それに野菜も果物もそんなに――」
「お前のことだから、アリアスにもらった蔓を野菜判定しているのかもしれないが……蔓は蔓であって蔓でしかない。私の求めている野菜とはまた違ったものだ。だから今回は具体的に指定することにする。私はバルバラで食い損ねたブドウが食べたい。もっと言えばリンゴが食べたい」
「リンゴ……? それなら川を下っていけばすぐだよ。たぶん生育環境も似てるし、ブドウもあるんじゃないかな? ただここでこれだけ暑いとなると……どうだろう。気温次第では育たなくなってる可能性も十分あるし――それなら川の幅が広くなる前に渡っておいたほうが……」
キリボシは静かにうなる。ただ考えたところで答えは出なかったのか、すぐにどう思う? と聞いてきては、その選択を委ねてくる。
「私は果物が食べられればそれでいい。そもそも川の向こうに何があるのかも知らないしな」
「それならやっぱり下流を目指すべきかな。今もあるかどうかはわからないけど、確認しに行く価値はあるだろうし」
「なら決まりだな」
そっと立ち上がっては大きく伸びをする。リンゴか……今度こそ、食べられるといいんだが。
「ちなみになんだが……トマトという名の赤い果実を知っているか?」
「それなら川の向こうの高原に――」
「川を渡るぞ」
「え?」
「川を渡るぞ」
「え?」
私は川を渡ることにした。




