二十品目 ヘルハウンドの前足
カワマタたちと村で分かれてから数日。平野部を目指して近づいた山脈の麓で、私とキリボシは頭上の青空へと迫るように――また半ば逃げるようにして、鬱蒼とした森の中でもひときわ背の高い木の上にいた。
「いつまでこうしているつもりだ?」
ほかの木々を押しのけるように、異常に発達した太い枝の上からどこか他人事のように地上でうごめく黒を見下ろす。そこには仲間の仇を討たんと待ち構える、闘志をむき出しにした黒妖犬の群れがあった。
「うーん、時期的にはあってると思うんだけど……」
ロープを手に見てくると言って登った木の頂上から降りてくるキリボシ。何やら考えがあるようだが、ほとんど氷に近い、雪に覆われた山脈を越えていくならと、その毛皮目当てでヘルハウンドを狩ったのは、やはり間違いだったかもしれない。
「あいつらは――ヘルハウンドは私たちを見逃したりはしないぞ。お前も知っているだろうが、やつらは執念深い。一頭でも狩れば昼夜を問わず、群れで付け回されることになる。だから冒険者はヘルハウンドを森で見かけても、襲われでもしない限り、積極的には手を出さない。中途半端に手をつけて、そのまま村にでも戻ろうものなら、無関係な住民や家畜にまで被害が及ぶことになるからな」
「まあ、そうなんだけど……」
キリボシは腕を組んだまま、ヘルハウンドのいる下ではなく、しきりに上を気にする。
「聞いてなかったが、何をしに行ってたんだ?」
「うーん……釣り、かな?」
「釣り……?」
森の中で妙なことを言うなと左右どころか、上下にまで顔を向けるも、豊かなのは緑ばかりで水場などありはしない。ならばと地上に糸を垂らして、獲物が引っかかるのを待っているというのなら、言葉の意味が分からないでもないのだが……キリボシの体に巻き付けられたロープの先を辿っていっては、自然と見上げた空の先で、キリボシはいったい何を待っているのだろうか。
別に隠しているというわけでもなさそうなので、聞けば教えてくれそうなものだが――見下ろしたり見上げたりばかりで無駄に疲れた首を何の気なしに回しては、一緒に気までほぐれたのか、不意にお腹が鳴る。
「そういえばご飯がまだだったね」
「ヘルハウンドに長いこと追い掛け回されていたからな。しかしこういつまでも、木の上にいたのでは、火も起こせないぞ。とりあえずいったん降りて、狩れるだけ狩ってみるか? 周りにどれだけいるのか分からないが、だからといって放置しておくわけにもいかないだろう」
「大丈夫大丈夫」
「なんだ、何かいい案でもあるのか?」
「最初に狩ったヘルハウンドの肉にまだ手を付けてなかったでしょ?」
「あれはお前が必要だからというから……そういえばずいぶんと荷物が減っているな?」
「まあ、仕掛けは十分ってやつだね。これはその残り」
そう言ってキリボシは当たり前のように、黒焦げになったヘルハウンドの前足を差し出してくる。
「お前……」
本当にこの炭を食うのかと、一気に憂鬱になるも、結局それしかないのだから、どう頑張ったところで食べるしかないと早々に諦めては、渋々と受け取る。
「一応聞いてもいいか」
「なに?」
「まさかとは思うが、このままかじれとか言わないだろうな」
「まあそういう食べ方もできなくはないだろうけど……周りの特に炭化した部分は叩いて落とすといいよ。イメージとしては、果物の皮をむく感じかな」
「なるほどな」
ヘルハウンドの前足が果物ね……いわれたところでまったくイメージは湧かないが、それでも生で食えと言われるよりははるかにましだろう。
そうして観念するように、前足を手の甲でコンコンと叩くキリボシを真似ては、足元にパラパラと炭を落とす。ただどこまでいっても黒一色のそれ――いったいどこまで削ればいいのか分からないまま、またキリボシを真似するように、とりあえずと炭の端をかじってみる。
「どう? 悪くはないでしょ?」
「別に……炭だとしか……」
続けてバリバリとかじってみるも、それ以上の感想が湧かない。というのも、味も食感も舌触りも後味も、のどを通る感触さえも、炭でしかないのだ。
ただ一つだけ難点を上げるとするならば――。
「なあ、一つ聞きたいんだが……炭がなんで生臭いんだ?」
「あー、それは、あれだね。一緒に生肉も持ち歩いてたから臭いが移ったんだね」
「レティシアでは炭を消臭にも使っていたからな。っておい」
そういうことかと防ぐこともできたであろう原因が判明しては、預けておけよとそもそも炭を食べている事実を忘れそうになる。
「まっ、もともとアザレアさんの言う通り、味気ないものだからね。匂いぐらいは肉を感じられたほうが――」
「おい、ロープが引っ張られてるぞ」
「えっ?」
直後に浮き上がるキリボシの体。咄嗟に互いに伸ばした手をとっては、反射的に踏ん張ろうとしたところでそうではないとキリボシに空中に引き寄せられ、すぐにロープに作られた輪に手足を誘導される。
「おいっ、何を釣り上げたのかは知らないが、本当にこれでいいのか?」
「大丈夫! しっかり掴まってて!」
引っ張られるロープに従って、木の幹と枝を蹴り上げるキリボシ。やがて木々の合間を上に突き抜けては、完全にロープ以外の拠り所を無くす。なおも止まらない上昇。森に入ってからは部分的にしか見ることのなかった山脈の全体像を空中からはっきりと捉えては、自然とロープを握る手に力が入る。
「アザレアさん見てよ! 大物だ!」
キリボシは嬉しそうに空を見上げる。釣られて頭上へと目を向けたところで、こいつは何をもって大丈夫だと言っていたのかと、思わずロープを握っていることも忘れて、両手で頭を抱えたくなる。
「氷竜……」
「そう、ヴリトラはこの時期になると子育てのために、麓まで下りてくるんだよね。そして狩りをしてまた山頂で待つ子の元へと帰っていく。つまり面倒な山越えを片道だけだけど、短縮してくれるんだよね」
「お前……そのためにわざわざヘルハウンドを……いや、色々と言いたいことはあるが、そもそも私たちがそれまで無事な保証がどこにある?」
「心配しなくても大丈夫だよ。ヴリトラは子育てに夢中――狩った獲物をその場で食べたりはしないから」
「にわかには信じがたいが……」
しかしキリボシがここまで言うからには、それなりの自信があるんだろう。ただそんなことは関係なしに、とにかくこの言葉も通じない、それこそ獣と変わらない竜の理性だか本能だかを信じて身を任せるというのは、実に恐ろしい。
「キリボシ、お前は怖くないのか?」
「なにが?」
「全部だよ。ヴリトラも、この正気を疑うような方法も。何もかもが命知らずにもほどがある。お前のことだ。こいつの凶暴性を知らないわけでもないんだろう?」
「もし危なくなったら途中で降りればいいし、それに今回は一人じゃないからね」
「お前……」
人任せにもほどがあるだろうと思ったが、いざという時とはいえ、なんとなく頼りにされているようで不思議とそれほど悪い気はしない。ただ――。
「今後一切こんな無茶はやめろ。確かに野菜を食べたいと言い出したのは私だが……二人で死に急ぐぐらいなら、私は一生肉だけでもいい」
「アザレアさん……心配かけちゃったみたいだね。でも同じものばかり食べてると栄養が偏っちゃうし。結局、野草やトレントやハチの巣や、それこそマンドラゴラなんかも――」
「たまには命をかけるのも悪くないかもな。特にそれが野菜や果物のためなら」
「アザレアさん……?」
自然と吐き気を催すような思い出が走馬灯のように流れては、私はいまさらだなと考えるのをやめた。




