十八品目 魔王軍の水
マリーナを出てから早二日。広大で爽快な海を見納めては、気が付くとまた、鬱蒼とした森を歩き続ける日常へと逆戻りしていた。
そうして食べる鉄の味――いくらカビていようとも、いくら湿気ていようとも、パンが恋しく思えてならないのは、あのロサとかいうサキュバスが気が利かないことに、例の干し肉ばかり食料袋に詰めていたからだろう。
「野菜が食べたい!」
だからそう思わずと、代り映えのしない朝食の最中に叫んでいたのは、それはもう仕方がないことなのだ。きっと体が足りていない栄養素を補うべく、自然とその欲求を口にさせたに違いない。
だからこれは、決して単純なものの好き嫌いなどという話ではないのだ。そう、私は子供ではないのだ。
「びっくりした……でも、確かにいくら美味しいからって、ずっと同じものだけを食べ続けるのもね。アザレアさんは嫌がるかもだけど、次は野草を――」
「それは疲れた時にだけ食べると約束しただろう」
「そうだったっけ……となると、うーん……もう少し奥まで行けばあるかもだけど、このままナディアを目指して山脈に近づくとなると、そもそも標高が上がって、緑自体が少なくなっていくから……」
「そもそも肉中心の生活が待っているというわけか。ドワーフはそれでもいいんだろうが……やはりあのサキュバスの言葉を信じるべきではなかったな。嫌がらせみたいに肉ばかり――」
そこで脳裏に単純な疑問が浮かんでは、尻すぼみに言葉を切る。よくよく考えるまでもなく、どうして私たちはナディアを目指しているのだろう。
あのサキュバスに言われたから? 否、確かにそれもあるだろうが、牢屋で話した青年の言葉からして、ナディアしか安全な場所がないと思わされたからだ。
そもそも安全な場所とはなんだろうか……?
魔王軍の影響下にない、あるいは影響が及んでいない場所を仮にそう呼ぶのなら――野盗が根城にしている町や、魔王など関係なしに争いが絶えない地域などは、安全といえるのだろうか。
「アザレアさん……?」
「あ、ああ。悪い、少し考えごとをな」
「急に黙り込んじゃったから……邪魔しちゃったかな」
「いや、むしろお前の意見が聞きたい。このままナディアを目指すべきか、どうかな」
「僕は別にどこでもいいけど。でも目的地を変えるなら、それなりの理由が欲しいよね。せっかくだし、このままナディアを目指してみるのも悪くはないと思うけど――この際、美味しい野菜を探し求めてみるのも悪くないかもね」
「あのサキュバスが魔王の配下だということ以上に、理由が必要か? あと私は野菜が食べたい」
「素直なんだか、素直じゃないんだか。まっ、仮にナディア以外を目指すとして、アザレアさんは何かいい場所に心当たりがあったりする?」
「お前が私のところに寄越した使いの青年が言っていたぞ。マリーナの近辺に安全な場所はないとな。まあ、これはお前にも私にも言えることだが、今更そこまでの保証がいるかは疑問だがな。さて、心当たりがあるかという話だったな。ここからエドアルドまで戻るなら一応はある」
「そうなるとレティシアって話でもなさそうだし……それよりも奥ってなると、どうなんだろう。ロサさんの言葉を信じるなら、バルバラは落ちてるわけで、そうなるとわざわざ引き返してまで来たってことはないだろうし」
「だろうな。おそらく辿り着いたところで草の一つも生えてなければ、さすがのお前もお手上げだろうしな」
「その時は土を掘り返してみるしかないね」
キリボシは特に困った様子もなく笑う。こいつはきっと今までもそうしてどうにかしてきたのだろう。ただ土臭さや土の味ならもう、ハチの巣やマンドラゴラで十分に堪能した。それに同じ土臭いなら野菜のほうが断然いいに決まっている。
「お前のほうで心当たりはないのか?」
「この辺りだと、うーん……やっぱり平野部かな? でもそうなると結局、山脈を越えなくちゃいけなくなるし……どうだろう。多少の危険は覚悟して、横穴を抜けてみる? でもそれならもっと早い方法もあるしなあ」
「待てまて、私はまずアレッシアが何か知らないぞ。それに横穴? 前にも砂漠に行ったことがあると言っていたが、お前の知る地図は私のに比べて少し広すぎる」
「自然とそうなっただけなんだけどね。昔から一つのところにとどまると、その……ね」
「あー……」
悪食が原因で狩られかけたという話は、キリボシからよく聞く話だ。元はといえばバルバラからマリーナに向かうことになったのも、それが切っ掛けといえばきっかけだった。
「そういえばメデューサはもういいのか? マリーナまでもそうだが、マリーナに来てからもそれどころではなかったからな。詳しい場所は知らないが、別に先を急いでいるわけでもなし。少しばかり寄り道していくのも悪くないんじゃないか?」
「それなんだけど……」
キリボシはどこか申し訳なさそうに頭をかく。
「もし会えたとしても、肝心の目がないんだよね」
続けてキリボシは苦笑する。
「実はそれも一緒にカワマタさんの船に置いて来ちゃってて」
「お前……」
それぐらい肌身離さず持っておけよと思わなくもないが、大森林を抜けてからというものの、何度キリボシの全裸を見かけたかわからないぐらいだ。
そう思うと紛失の機会はいくらでもあったわけで、むしろ所在が分かっているだけマシなのかもしれない。ただ同時に、とんでもないものを残されたものだなと、少しカワマタのことを気の毒にも思う。
しかしどうしたものか。建前としては魚だ、風呂だと言いはしたが、あくまでも真の目的はそれだったわけだ。
寄り道で済むのならそれが一番だと思っていたのだが……いまさらカワマタのところにまで戻るというのも……いや、こればかりはやむを得ないだろう。
ただ一つ疑問なのは、なぜキリボシが今までそのことを黙っていたのかだ。
「キリボシ。どうしてすぐに言わなかった?」
「別に忘れてるなら、それでもいいかなって……」
「なんだ、お前にとってはその程度のことだったのか? 私は大事なことだと思っていたが」
「それは……元々出来たらって話だったし、それこそバルバラの人たちのために、あの場に置いていく選択肢もあったわけで……それをここまで――ってのは語弊があるけど、個人的に届けようと思ったのは、あくまでもそういう流れだったからであって、もしほかに――」
「もしほかにそれができるやつがいたら、そうはしなかったのか? そうやってたまたま私の時も手を差し伸べたのか? 仕方なく、場の空気を読むように」
キリボシは一度否定するように口を開きかけるも、その先に期待したような言葉は続かない。図星か……ただそれでもと、同時に彷徨わせた視線と硬くした表情だけは、必死にそうではないという理由を探し続けているようでもあった。
「キリボシ。私はお前のことを少し勘違いしていたようだ。ただのお人よし、どうしようもない善人だとな」
「僕は別に……でも言われてドキッとしたよ。いま思えばアザレアさんの時も、僕はそうしなきゃって、そうするのが当たり前だって……これもアザレアさんに言わせれば、仕方なく、場の空気を読んだだけって、そういうことになるのかな」
「さあな、ただ一つだけ言えるのは、お前のそんなちょっとした善意に救われたやつもいるってことだ。やっぱりお前はただのお人好しで、どうしようもない善人だよ」
言いながらそっと立ち上がっては、キリボシへと近づく。
「立て」
「え?」
「いいから」
急かしてはいつまでも硬い表情をしているキリボシを無理やり立たせる。そしてすかさずとその手をとっては、来た道を強引に引き返していく。
「ちょっ、ちょっと、アザレアさん?」
「理由なんかどうでもいい。私の知るお前はいいやつだ。これまでがどうだったかは知らないが――これからもそうあってほしいと私はそう思っている。だから……どうせ流されるならいいやつであれ」
「アザレアさん……」
「カワマタのところに行くぞ。メデューサがお前を、いや、私たちを待っている」
「アザレアさん……」
「なんだ、まだ悩んでるのか?」
「いや、その……言いにくいんだけど。荷物を取ってきてもいいかな」
思わず足を止めては振り返った先で見合わせる顔。急に冷静になっては、その反動で私は何をしているんだろうと、繋いでいる手さえ恥ずかしく思えてくる。
「あの……手、放してもらえるかな」
「こ、これはお前が逃げ出さないようにだな……」
「そうだね。できるだけ努力してみるよ」
「別にそこまでは……その、いろいろと言ったが、なんだ。いつも通りでいろ。それが一番だ。たぶん、な」
それでようやくと手を離しては、火照った顔をごまかすように腰に提げた水筒を手に取る。
「そうだね。でももし自分でもどうしたらいいか分からなくなったら、そのときは聞いてもいいかな。アザレアさん」
「ああ……まあ、その、なんだ。うまく答えられるかは分からないが……」
言いながら水筒の蓋を開けては、口をつける。
「大丈夫だよ。アザレアさんなら。僕と違ってしっかりしてるし、賢いし。それに強いし、優しいし、魔法は使えるし、剣は――」
「もう分かったから早くいけ」
そう言っては後先考えずに飲み干す水筒の水。すぐ戻るからと駆けていくキリボシの背中を一人眺めては、体の熱を逃がすように大きく息を吐く。
「甘いな……」
自然と零れ出た感想の所在を求めては行きつく水筒の中身。あのサキュバス……と、ありきたりな疑いをかけるも、もはや確かめる術はない。
魔王軍の水はきっと甘かった――。




