十六品目 オルトロスの美味いところ2
「遅い!」
私はつい待たされた気になってそう声を荒げていた。ただ実際には、キリボシが予告通りに現れていたことはわかっていた。それは窓のない牢屋の中だからと言って狂うことのない体内時計がそう告げていたからだった。
それでも感情的になってしまったのは、単純に私が誰かを待つことに慣れていなかったからだろう。だから鉄格子のことなど忘れて、あいさつ代わりにその隙間からキリボシを殴り飛ばしてしまったとしても、それは仕方のないことなのだ。
そう――キリボシが派手な女連れで現れたとしても、それが仮にサキュバスであったとしても、この一発に関しては、それはもう仕方のないことなのだ。
「いたた……まったく、元気そうでよかったよ」
「目が覚めたか?」
「外はもう夜だけど……」
「少しでも待たせた自覚があるなら、それなりに悪びれてみせたらどうだ?」
「早ければ今日って話だったと思うけど……何かあったの?」
「迎えに来ることが分かってから、昨日までは何ともなかった尋問が、今日は鬱陶しくて仕方がなかった。まさか、ただ待つことがこれほどまでに苦痛だとはな」
「そっか……でもアザレアさんがそうして辛抱してくれたおかげで、僕のほうは色々と収穫があったよ」
キリボシはそう言って、真新しい鞄を床に置く。
「これも本当はオルトロスの皮で……って、今はそれよりも――ええと、まずはこれかな」
キリボシは嬉しそうに鞄の中を探っては、これまた真新しい鍋と水筒を取り出す。そして木の匙に木のお椀、塩とこれまでにも馴染み深いものを順に取り出しては、最後にとナイフとずっと気になっていた剣に手を付ける。
「このナイフはオルトロスの牙で作ってもらったんだ。切れ味は十分だし、何より水に強いし――って、アザレアさんはこっちのほうが気になるみたいだね」
「調理はお前の専門だからな。お前がその良さを分かっていればそれでいいさ」
「そうだね。剣は僕の口から語るより、実際にアザレアさんがその手に持って、振るったほうが早いかもね」
キリボシはそう言うと、ロサさんと、そう隣の派手な女に声をかける。そしてロサという女が開けろと一声命じては、直後に競うようにして駆けてくる男たち。押しのけあいながらも、錆びついた鉄格子が甲高い音とともに開かれては、足早に引き返していく男たちを横目にゆっくりと外へ出る。
「ありがとうロサさん。助かったよ」
別に。そう女が短く答えたところでキリボシの持つ剣に手を伸ばしては、不意に遠ざかるそれ。伸ばした反対の手で反射的にキリボシを殴りつけようとしては、それも寸前のところで受け止められる。
「どうやらサキュバスという話は本当のようだな?」
「あら、信じてなかったの? これじゃあ先が思いやられるわね。いっそのこと私に乗り換えたら? キリボシ」
「アザレアさんがもし魔王軍の側にって話なら考えないでもないけど……今のところそのつもりはないみたいだし、これからもその予定はないんじゃないかな。それに僕が魔王軍についたら、急に食生活を見直さないといけなくなっちゃうよ」
キリボシは苦笑する。そしてこちらをチラと見る。
「それにいくら敵対することになったとしても、人間は食べない約束だからね」
「魔王軍に入ったらそんなこと心配する必要ないってのに……アナタからも説得してくれないかしら? アザレア」
「気安く私の名を呼んでくれるじゃないか。よほど死にたいらしいな? ロサ」
「アナタもね。ていうかその喧嘩腰……ああもう、やめやめ。アンタも気づいてるんでしょ? そいつが私に服従してないことぐらい。だったら少しぐらいは私に合わせてくれたって――」
「魔王の配下がよく喋るじゃないか。その調子で魔王軍について詳しく話してくれるなら、耳を傾けないでもないが?」
「別に知りたいなら教えてあげるわよ。言っておくけど私は魔王だとか、魔王軍だとか、そんなのどうでもいいと思ってるから。ただ勝ち馬に乗ってるだけ。それ以上でもそれ以下でもないから、こうしてわざわざ平和的に会いに来てるわけだし」
「キリボシを人質にとっておいてよく言えるな?」
「だからとってないって。ていうか、そもそもアンタみたいなのには人質なんて通用しないでしょ。初対面でこんなこと言うのもなんだけど、アンタみたいなのが、平気で人質を殺したりするんでしょうね」
眉を顰めるロサは、嫌悪感を隠そうともしない。ただその反応は残虐非道な魔王軍というよりかは、どちらかというと人に近いようで――なんだこの違和感はと同時に、こいつ本当に魔王軍か? とその素性まで気になり始めては、とりあえず面倒ごとはと、まとめて斬って片づけてしまうことにする。
だが肝心のキリボシがどういうわけか、こちらに剣を渡そうとしない。いや、訳なら分かる。こいつもまた、サキュバスに操られている一人だということだろう。
「やれやれ……それで? お前はキリボシを手に入れて満足か? 遊び相手が欲しいなら、他をあたってもらいたいものだがな」
「言っておくけど、そいつが剣を渡さないのは私のせいじゃないから。どういうわけか、そいつには初めから私の魅了が効かない――っていうより、効いてるのに言うことを聞かないって感じ? それも度を越して我が強いのか、意思がとんでもなく固いのか。理由はなんにせよ、ホントよくわからないやつよね。おかげでちょっと自信をなくしちゃったわよ」
「時間の無駄だな。お前の言葉を私が信じると思うのか?」
「まあ、その気持ちは分からないでもないけど……何なら命令してみせましょうか? キリボシ、アザレアに剣を渡しなさい」
ロサの言葉にキリボシは微動だにしない。何なら仮にキリボシがサキュバスの影響下に置かれていたとしても、命令通り素直に剣さえ渡してくれれば、すべて解決しそうなものなのだが……。
「ほら、これでも信じないつもり?」
「ならなぜキリボシは私に剣を渡さない?」
「渡したらアザレアさん、ロサさんを斬るでしょ」
「えっ? ちょっ、やめなさいよ! そういうの……暴力反対!」
「魔王の配下が何を言い出すかと思えば……先に力を振りかざしたのは、お前たちのほうだろう?」
「そんな昔のこと、誰も覚えてないわよ。ていうか私は――そう、そうよ。何なら味方になってあげたっていいのよ? そのほうが得しそうだし。今回はお互いに見なかった、会わなかったことにしてこのまま解散。それでどう?」
「それで私たちが去った後、お前はこの街を支配下に収めるのか。反吐が出るな」
「別にあんたらがそうするなって言うんなら、私はそうしたっていいわよ? ただ相手が変わるだけで、結果は変わらないと思うけど」
「心配するな。お前が今後生み出すであろう、不幸な人間の数を減らすことぐらいはできるさ」
「ていうかアンタは、なんで人間なんかの味方してるの? さすがにその下が何かまでは分かんないけど――」
「ロサさん。それ以上はいけない。それ以上踏み込むなら、僕はあなたを守らない」
「え? あ、いや、そういう……いやいや、別にどうでもいいから。ね? 私だって普段はほらっ、今みたいに羽も尻尾も隠してるわけだし。何なら見せようか?」
怯えた様子で後ずさりするロサ。別に砂浜での天使の件からして魔王軍に対しては、それほど隠す意味を感じていないのだが……それよりもキリボシの守らないというのは、いったいどういう意味であろうか。




